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シャッフル 第1話


001

 昔からだ。昔から俺は油断する性質だった。自分でも不可思議な確信、それが常にあったから。根拠のない自信からくる傲慢ではない、と己では思っている。単純に面倒くさがりなのかもしれない。あるいは楽観主義者なのか。ともあれ『なんとかなるはず』『だいじょうぶ』という思いが常に腹の底にあった。いつでも無意識のあたりに、ぼんやりと。だからこそ抜けてしまう。疎かにしてしまう。他人を信用しすぎてしまうし、先回りして危機を予測することを失念してしまう。そしてトラブルに巻き込まれる。人間らしいと言えば人間らしいのだろう。しかして今回のピンチは俺の人生における窮地の中でも飛び抜けていた。冷や汗すら掻けない事態に『人格(パーソナリティ)』が粟立つ。焦りが混乱を生み、思考があちこち飛び回る。
〈人格。精神とでも言おうかのぉ。哲学の世界では道徳性の主体としての人間を『人格』と呼ぶ。英語表記はPersonalityじゃ。個々人の心理面での特性あるいは個性とも呼ばれよる。さてさて、事は足りたか? それとも、もう少し調べてみるかのぉ?〉
「ちょっと黙ってろ! 今、それどころじゃない!?」
 頭の中に聞こえる声に対し、俺は盛大に空気を震わせて応じる。我ながらまったく横暴だった。『情報支援ガイド知能』は俺が誤って投げた検索指示に従って回答を寄越しただけだから。けれど俺は俺で慌てており、気づかぬうちに不要なボタンを押してしまった感覚。もはやそれどころでなく、視界の端でコミカルに動く『老いたフクロウ』のアニメーションが今は少々鬱陶しい。イギリス旅行の間の良き相棒だったというのに。
〈只今の時刻は日本時間の一四時二五分、じゃ〉
「黙ってろって! くそっ!」
 ぶちまける怒りは電子音に変換されて高い空へ放たれる。刹那、聴覚機能が拾った己のそれは実に機械的で抑揚を欠き、いっそ怒気を削がれんばかり。このご時世である。もう少し体温を感じられそうな音声へも変換可能であろうに、と嘆きすら覚える。とはいえ、ケチって安物の代体(アバター)をチョイスしたのも俺だ。
 迷わず院内へ飛び込む。受付を済ませてなどいられない。奥へ、奥へ。冬空の下、寒さ感じぬ身体で空港から病院まで休むことなく走ってきた。駆けつけた病室の白い壁に薄く映る己の輪郭は見るからに機械然とした機械、全身これ機械であった。令和どころか平成、いやいや昭和のロボット、といった出で立ちだ。肘も、膝も、腰も、どこもかしこも動かすたび、ギシギシ、ギィギィと音を立てそうなメタリックボディ。この身体で飛行機に乗って帰国したのかと思うと情けなく、無機質な四角い顔からすら涙が溢れてきそうに思える。
「ふざけるなよ!」
「……いや、しかし、その……そうは申されましても」
「無くしました、で済むと思ってんのかよ!?」
 引っ張り出されてやむなく応対する若い男は『己の裁量の範疇をとうに超えている』といった内心をありありとその凹凸の少ないのっぺり顔に貼りつけてみせる。若者自身の開示によって頭上に素性が複合現実(MR)で表示されており『石田彰夫(せきだあきお)、二七歳、看護士』と印されている。一つ年下だ。だからといって俺は今、相手の年齢や勤務年数に配慮して自制を効かせられるほど落ち着けやしない。勢いそのまま石田の胸倉を巨大で四角い俺の両手で掴みあげる。
「いいからさっさと答えろ!」
「……だ、だから……そうは申されましても」
「一体どこにいったんだよ! 俺の、野依治良(のよりじろう)の、身体は!」
 無骨な機械の腕に持ち上げられて若き看護士の爪先がたちまちフロアから浮き上がる。その瞬間だった。夥しい血とともに眼前ののっぺり顔が首から離れ、俺の足元へごろりと転がったのは。


002

 モンテ・デイ・パスキ・ディ・シエナ銀行創業から六〇〇年を数えた頃、日本はトラストレス――信頼する第三者を必要としない信用のプロトコル――によって成り立っていた。そこに生きる人々は『残寿命×好感度によるPoS』と『運動量×思考量で算出するPoW』によって己の価値を示し、国家や銀行の衰退したその分散型社会を回していた――

 ――などという世界は未だ夢物語、理想は理想のままである。少し痩せはしたけれど、俺を取り巻く社会には今尚しっかりと銀行機能が幅を効かせている。信用の価値も半世紀前の令和の時代に比べれば層倍に肥えてきてはいるけれど、それでもしかし社会を牛耳るには至っていない。仕事だって相変わらずだ。自動運転の普及によってドライバーこそ絶滅危惧種ならぬ絶滅危惧職となったけれど、その他は微細な変化でしかない。令和人が夢見たムーンショットなど、まるで訪れていないわけだ。
 けれどもけれど大方の予想を裏切り、上回り、一足飛び。思い描いたとおりの『未来』まで羽ばたけた施策も一つはある。ここで俺が指した未来とはユダヤ系移民の子として知られる天才未来学者レイモンド・カーツワイルが二〇〇五年に「The Singularity Is Near」で提唱した未来のことだ。二〇三〇年代最後の年の最後の月、かの男の予測どおり『マインド・アップローディング』の成功第一例が確かに生まれた。
 その六年後に俺の誕生とともにシンギュラリティと称された年が訪れ、そこからさらに二八年――ジャストナウ、その数少ないフライハイ、技術の進歩が完全に裏目に出ている。それもこの俺自身の身に……。因果応報というのなら思い当たる節がない。一切、記憶にない。俺が一体なにをしたというのか。一体どうして、四半世紀も連れ添った、俺の、俺たる、俺の身体を、失う事態となってしまったのか。思い返せばこれはそう、あの二通の電子メールからはじまった。
 
 三ヶ月前――
 ピピピピッ。頭の中でメール着信の音が鳴る。睡眠中はミュートに設定してあるからベッドに寝転んでいるとはいえ、俺の脳は既に半覚醒しているわけだ。少なくとも俺をセンシングしている我が家はそうみなし、起きているものとして扱ってきている。暗に「起きろ」とでも言わんばかりに。
「……うるっ、せぇな? 誰だよ、まったく?」
 乾いた喉で呟き、上体を起こさぬまま左目でまばたきを三度した。すっかり陽の差し込む室内の、その宙空、眼前にマイディスプレイを展開する。実在しない俺だけが視認できる仮想画面、その表面を視線でなぞる。
 アイトラッキング。二〇一九年にNECグループがオートモーティブワールドへ出展したフィンガージェスチャー、その後継技術である。視線によるシステム操作は今ではすっかり汎化されている。機能実現のために瞳の動きを感知すべく、あらゆる場所で外部からセンシングされることとなったけれど、人間はどうにも目に見えないものへは強い関心をもたない生き物らしい。最初こそあれこれ反発あれど、今では世に浸透しているどころか、こうして外部から脳へアクセスし、MRディスプレイを感覚させるまで至っている。ゆえにもはや人は手足を動かさずとも多くの情報処理が可能であった。俺が物心ついた頃にはまだ存在しておらず、二八歳の今となっては使いこなしているどころか、無くては生活に支障を来さんばかりの技術の一つである。
 けれども、どうだ。人間とは技術の進歩と反比例して堕落していくものなのかもしれない。ベッドに仰向けたまま、俺は移動式チェアにドリンクを運ばさせる。視線の動き一つで。同時に『こうした自虐思考を持てるということは己の怠惰をそれなりに客観視できているからこそ』と自らを肯定する。俺は今日も正常である、と。ぐるりと寝返りを一つ、冷えた水で寝転んだまま喉を潤す。眠気を覚ます。そのまましかし起き上がることはせず、俺はベッドと一体化したまま、まずは習慣とばかり今週の宝くじの当選番号をチェックする。もはやベッドというアダ名をふられても俺はいっそ本望である。
「六六六分の、三八個……くそっ! こんなもん本当に当たるのかよ!?」
 POTOが『七』であったとされる令和のくじが羨ましかった。今やAIを駆使したシミュレーションとの兼ね合いにより『六六六』まで桁拡張されている。AIの情報支援無しにはもはや一パーセントの可能性すら見出だすことは不可能だろう。POTO六六六、悪魔の数字とはまさしくこのこと。二〇七三年現在では(当たれば大きいものの)その当選確率のあまりの低さから、人間しか挑戦しない魅惑の娯楽である。POTOは毎週ランダムに弾き出される当選番号、その数字を並びまで当てる主旨の宝くじだ。単純な運のみでなく人格が予測に介在できる仕組みとして人気を博しているけれど、前に一等が輩出されたのはかれこれ十年も前。俺が親元を離れてすぐのことである。そう、六六六個もの数字を読み当てるなど、運にしろ、統計予測にしろ、実質、不可能にちかい。
「こんなもん詐欺じゃねえか!」
 そう思うのなら買わねばいいのだけれど『もしかしたら……』と期待せずにはおられず、俺はけっきょく毎週チャレンジしている。ある意味で人間としてのアイデンティティを購入しているとも言え、もはや常習化している。
「しっかし前に当選したのは一体どんなやつなんだ? 一生分どころか、二生か、三生分の運を使い果たしてるだろ?」
 その当選自体、運営元が実績作りに蒔いたフェイクニュースだとかなんとか、当時、様々なゴシップが飛び交い、まことしやかに噂されていたことを覚えている。夏の夜の夢、実際には当選者など存在しないのかもしれない。
「もし本当だったら、そいつ、もう死んでるんじゃねえか? 人間の運じゃねえだろ?」
 未だベッドから悪態をつき終えれば、他にすることもなく、俺はようよう先ほど届いたメールの開封に思い至る。窓から覗ける太陽が枕元に赫赫とした光のたまりを作っていた。もう昼過ぎであろう。俺がこうして根なし草のキャンピングカー生活をはじめてから既に十年が立っている。卒業を間近にして高校を中退し、大学進学もせず、最初の車は頼み込んで両親に買ってもらったような俺ではあるけれど、今ではカツカツながらもどうにか自立した生活を送れていた。また向こうからすれば俺の姿は頻繁に『視聴できている』わけで、だからとりわけ心配もかけていない。仲違いしているわけでもないのに一人息子への連絡がほとんど来ない現状が、その良き証拠だ。
「……んで、どこまで行くんだ? まだ着かないのか? 今回は結構遠いな? 海とか……かな?」
 POTOはさておき、俺のほうでは週に一度しっかり当選者を輩出している。当選した視聴者に任せるがままに行き先を設定させ、自動運転でゆらりゆらり。到着してみて、あらびっくり。旅系『ESPer(エスパー)』、それが俺の生業だ。平成から続く動画配信サービスの統廃合は果てなく、かつてはYouTubeという名のプラットフォームの一強だったと聞くけれど、今や旬は『Each Showing Personality』だ。
 人工知能というか人工の人格だろうか。彼らの存在が日々当たり前として根を伸ばしてきている社会において、生身の人間の社会的な戦い方は自ずと決まってきている。それはこの動画配信においても同じである。
 ――彼らの『出来ないこと』をする。
 シンプルイズベスト。その一つが、たとえばこれだ。予測できない事態に直面した場面で、人格の素を晒す。人間の人間らしさ、その醍醐味を活かして。極論を言えばミスをすればよい。人工知能らの圧倒的な演算速度から裏付けられた事前予測、確実で失敗のない行動、それらを逆手に取って。これが人間からは多いに共感を呼び、また人工人格からは人間学習のためによく視聴してもらえている。たまたま運良く第一人者として開拓できたジャンルであるため、俺はそれなりに有名であった。
 ――ESPer名『のびる君』、キャッチコピー『やればできるよ』
 とはいえ、いくら名が売れようが動画配信による広告収入だけで生活していけるほど今の世は甘くなく、必要に応じて日雇いのアルバイトをしてはどうにか生活を送っている始末だ。言わずもがなの貧乏暮らし。そんな窮状でもなければ宝くじに目など向くまい。並みいる人工人格がその確率の低さゆえに手を出さないギャンブルへ俺は今日も身を投じる。POTO六六六。
「やればできるよ、のびる君。お次はどこに着くのやら? って、それよりもメール、メールっと……」
 顔に当たる陽光が弱まり、某かの影が頭上をゆるりと流れていった。俺はようよう受信ボックスをスクロールさせ、未読メールのタイトルを部屋の天井あたりに眺める。二通の新たなメールタイトルが明滅していた。
 定期健康診断受信のご案内――
 イギリス旅行ご当選のお知らせ――
 先に届いたメールは、半年に一度の、お決まりの健康診断の案内である。日本国民の義務とまでは言い過ぎかもしれないけれど、今や年に二回の健診を受けることが通例だった。平成や令和の頃には年一だったという噂を聞いたときには面倒くさがりの俺としては随分羨ましいと感じたものである。
 後から来たメールの側はまったくの想定外。一見してなんのことか理解できないほどに。今どき迷惑メールなどというあまりに簡単に足のつく悪事をする輩が存在するとも思われず、ただただ困惑させられた。
「イギリス……旅行? 当たった? スポンサーがどうとか……あったっけ?」
 思考すること、コンマ数秒。思わず跳ね起き、ベッドの上に無意識で正座した。アダ名のベッド、即日返上である。
「……おいおい? マジかよ?」
 記憶の微かな突起に指がかかった。反りたつ壁を登らんばかり、ぐっと思考を持ち上げれば思い当たる節にあたる。数ヶ月前のこと。不意にポップアップであがってきたキャンペーンに暇つぶしがてら応募したのだ。当たるはずがないけれど、無料であれば損もない。そう思って押したあれが、まさかまさかの大当選。
「……やればできるよ、のびる君。POTOじゃなく、こっちが当たるのかよ?」
 歓声をあげるどころか小声になっていた。心底驚いたとき、人は言葉を失くす、という話はまんざら嘘でもないようだ。俺はそのまま背筋を伸ばし、混乱しつつも案内文を読み進めた。すると、たちまち思考が整理されてしまう。
「ああ、まあ、そりゃそうだわな?」
 あるある、である。条件は代体利用必須。先方が負担してくれる旅費とは、すなわち人格情報の転送費と転送先でのメンテ宿泊費のみ。エコの観点からもボディシェアリングが推奨され、世界的に代体の利用促進に取り組んでいるわけだから当然と言えよう。国から企業への補助金も代体関連でなければなかなか降りないご時世だ。そのわりに利用実績が伸びていない実態が暗に現状を物語っている。人間とはどうにも目に見える肉体の引力から逃れられないらしい。
 とはいえ、俺が代体を利用したことがない理由は別だ。とりわけ宗教的な問題だったり、倫理面でのあれこれに悪印象を持っているわけではない。単純明快、理由は金だ。今回の当選旅行にしてもイギリス側で借りる代体費用や観光費用は自己負担、つまりは本来は発生しなかった出費が嵩むことになる。それでも自分で旅行することに比べれば支出は五分の一以下に抑えられよう。迷いに迷ったうえで結局はGO判断を下す、そのすれすれのラインを上手につかれていた。さすがは大手企業のマーケティング力と唸らざるをえない。
「二泊三日でイギリスか。っで、ああ……やっぱり? 代体のアテがなければ当社からレンタル可能です? そりゃあ、そうだよな。ボランティア団体ってわけじゃないだろうし。他には……レジャーや観光ツアーも準備できます? なるほど、なるほど」
 なんとなし先方のビジネスモデルを窺い知るも、俺の気持ちは既にロンドンにあった。ESPerのびる君としても海外ロケはなかなかに再生回数の伸びそうな企画である。元よりどうせ健康診断で三日間は身体を預けて過ごす予定だったのだ。そこと日程を合わせられれば追加で仕事を休む必要もない。追加出費の分の費用面は少しばかり痛いけれど、なによりこんな機会でもなければ俺は、一生、PMS童貞である。
「よし、イギリスだ! そうと決まれば――」
 
 Personal Management System――人格転送サービス――
 言わずもがな二〇三九年に成功をみたマインド・アップローディングを洗練・昇華させたサービスである。最初の成功例以降、爆発的な勢いをみせ、たったの十年で実用化にまで至っている。奇跡と称されるその二〇四九年までの歩みは、まるで未来人の導きでもあったかのごとく、そここにて都市伝説的な噂が絶えず、もっぱらドラマや映画、小説のネタにされている。
 
「――っで、また確認? っとに、なんでこう……最後に改めて『PMSの三原則』について? はいはい、わかりました! 読みますって! 読んでおきますよ!!」
 思い立ったが吉日、メールを確認した、その日、その場、そのベッドの上で、俺は手続きを始めた。心が揺らぐ前に、勢いで。普段なら二の足を踏みそうな面倒な作業も今日は珍しく億劫に感じられなかった。なぜだか今すぐやらなければならない、そんな使命感にすら駆られていた。己でも意外なほどに。俺はどうやらはじめての海外旅行に浮き足立っているらしい。はじめての代体の利用にも。
 さてさて準備はなにをしたらよいのか。ゆらゆら揺れるキャンピングカーの中でイギリスへと思いを馳せる。ESPでどのような企画をすれば喜んでもらえるだろう。夢と期待に胸を膨らませる。そんな俺を瞬く間に現実へ引き戻したのは我が家からの到着連絡だ。どことも知れぬ本日の撮影現場へ、どうやら自動運転車両が到着したらしい。
「……海外旅行よりも、まずは目の前の仕事だな?」
 窓の外は既にオレンジに染まりはじめていた。今夜もきっと熱い。未だ残暑の厳しい折、夕暮れ時といえど涼しくはなかった。とはいえ、真っ昼間に比べれば遥かに適温である。俺はいよいよベッドから降り、サンダルをつっかけ、己の足でようやく地面を踏みしめた。ベッドというアダ名はいよいよ完全に返上である。

一つ。PMSは人格情報をカット&ペーストする仕組みである。ゆえに抽出された人格情報は人間の脳相当の機能をもつ媒体あるいは人間の脳そのものへ転写することを可能とする。

一つ。人格情報の転写は空の器に対してでしか実現しえない。ゆえに他の人格情報が事前にインストールされている脳媒体への上書きは不可である。

一つ。人格情報は複製できず、また改竄も修正もできない。ゆえに同じ人格は世界に一つしか存在しない。

(HIROCHIKA KOBAYASHI)

PMSの三原則

003

 そして季節は夏から冬へ巡って三日前、イギリス旅行への出発日――
「それでは健康診断でお身体を預かる間、あなたをイギリスへ飛ばします。三日後の一五時のお戻りということで検査は一二時までに完了させておきます」
 なかなかに面白い経験だ。俺は、今、透明な筒にすっぽりとおさまっている。円柱の中から立てた左の親指を看護師の石田へと差し示す。了承の意である。
「それじゃあ『俺』のことよろしく。俺が向こうで使う身体の座標は……ええっと……」
 瞳の動きで要求をかけるも送られてくる信号が脳内でジャミジャミと一瞬揺れた。脳へ干渉してくる電波が乱れるなんて非常に稀であった。おそらくは、このガラスのような筒による影響であろう。ジャミングでも行なわれたかのようで懐かしい。幼いころにはまだまだ技術が安定しておらず、こうしたこともよく起こったものである。
「……んんっと、来た。ここだ。ここへ転送してくれ」
「はい。わかりま――」
 顎の尖った痩身の看護師が言葉を終えるよりも先に、俺は転送先の位置情報とあわせ、契約した代体のデータを勢いよく送りつけた。健康診断に向けて虹彩登録を済ませおり、既に院内の無線ネットワークに繋がれている。つまりはこの病院内でも俺はアイトラッキングでおおよその情報操作が可能ということだ。まったく便利な世の中だった。とはいえ、さすがに我が家での場合と違い、今は寝転んではいない。今日の俺は立っている。直立している。水槽のような筒の中で。
「……野依、さん?」
「どうかしたかい、石田くん?」
「いや、あの、代体って……これですか? 本当に?」
 予想どおりではあったけれど、若者はそののっぺり顔に驚いた表情を浮かべていた。成功だ。表情の乏しい石田彰夫でこの反応ならば、他のESP視聴者はさぞ驚いてくれることだろう。
「あんまり金がなくてさ。ウケ狙いも兼ねて一番安いグレードにしたんだ。それでも五感は備えてるし、一応、まあ、人型ではあるだろ? 運動性能も問題なし。見た目だけの問題なら、これもありかなって? インパクトは絶大だし。だろう?」
「いや、それは、まあ……しかし、これはさすがに……」
 石田から共有ディスプレイの利用承諾通知が届く。許可すれば交差する視線の中間点、ちょうど円柱のガラス面あたりに二人にだけ見える仮想画面が展開される。そこへ俺から受け取ったばかりのデータが投映される。
 俺の選択した代体の頭部は角張った四角形を組み合わせた立方体だ。身体のそこここにも角があり、人体めかして丸みを帯びさせるような加工は一切施されていない。あからさまなロボット。それもひと昔どころか二つも三つも過去の。もはやレトロや骨董品と呼ばれておかしくない代物である。スペックを見れば意外に動作はシームレスなれど、外見的には古い映画に出てくるロボットで、一挙手一投足に、ウィーン、ガチャン、ガチャン、と音を立てそうである。
「……今やその仕事自体がほとんどないと思いますが……どうにかこうにか探して工場での力仕事に就いた場合でも、もっとマシな代体が支給されますよ?」
「それは日本での話だろう? イギリスで、しかも外国人旅行客相手ともなれば、最低ランクを選んだらこういうことになるらしいぞ?」
「……なんでちょっと嬉しそうなんですか?」
「ESPerとしてはおいしいな、って。これなら視聴回数がかなり期待できるから。まっ、出オチにちかいけどさ」
「……まあ、のびる君……もとい、野依さんが良いなら私は止めやしませんが」
「良い良い。それじゃOKってことで。それになんだろうな? カタログを見たときにビビッときたんだ。これにしないといけない、っていうか。これにすべきだって感じで。一目惚れってやつかな? どう思う?」
「私に聞かれてもわかりませんよ。っで、本当にこれでいいんですね?」
「ああ、OKだ」
「……はあ、そうですか」
 なんとも奇妙な雰囲気を纏った若手看護士は、そこで不自然に不本意さを隠すことなく、素直に渋い顔で溜め息を落とした。止めといたほうがいいのに、と眉根を寄せて。しかし、別段、彼に個人の自由を奪う権限があるわけもなく、そのか細い肉体は表情とは裏腹に人格転送の準備を淡々と進めていく。最後にイギリス側でなにかあっても責任は取れない旨の念押しと最終確認がもう一度あり、俺が頷くや円柱のガラス面が白く発光をはじめた。
 いよいよか、はじめてのPMS――
 待たずして巨大な掃除機に吸われるような感覚が訪れる。俺の肉体から俺がぐいぐい吸い出されていく。痛みというわけではないけれど、なにやら魂を引き伸ばされていく体感がある。ここまでは幼い頃から健診の度に味わってきた感覚で、だからはじめてというわけでもない。けれど、だからといって好ましくもない。むしろ苦手だ。特にこの後に訪れる寒気が俺は好きではなかった。ひゅっと、直後、冷たい空気に背筋を撫でられる感覚に襲われ、気づけば己の身体を離れたところから寒々と見ている俺がいた。
 さあ、ここからだ。ここから先が、いよいよはじめての体験である。
 俺の肉体が、空っぽに。
 俺の人格が、キューブに。
 意識して周囲を感覚すれば俺(人格)は小さなサイコロにしまいこまれていた。いや、俺自身がサイコロそのものになっていた。まるで今から借りる代体の頭部の形状のように。それでいて狭さはなく、むしろ無限の広がりをもって感じられる。けれども気を抜けば端から空気へ溶け出してしまいそうだった。そんなことにでもなれば人格が崩壊し、俺は俺でなくなってしまうだろう。だから角砂糖のようにぎゅっと纏まっておく。一秒か、二秒か、あるいはコンマ一秒か、さらなる刹那か。直後、俺の知覚を光が蓋をした。そして四角く纏められた己が日本から遥か彼方のイギリスへ、高速で、否、まさしく光速で転送される。
 俺の肉体に、人工人格が。
 俺の人格が、ロボットに。
 空になった俺の身体には入れ替わりでAIが詰め込まれる。健康診断を受けるためだけに行動する人工人格である。これにより医療スタッフが重たい身体をわざわざ持ち運ぶ労働を軽減できていた。なにせ独りでに動き、自律的に健診を受けてくれるのだから。また、これはPMSの三原則に基づいたセキュリティの一貫でもあった。空のままでは他者の入り込む余地を生み、悪用される危険を生じさせてしまう。ゆえに人工物で空白を埋めるのだ。
 俺は飛ばされる直前、石田の背後に無表情で動きだした己の肉体を確認した。何度見ても自分の身体が自分の意思以外で動く様は奇妙であった。次の瞬間、見渡せばそこはもう異国。眼前に浮かぶは老いたフクロウ、これぞ代体の洗礼か。コミカルなアニメーションの、その情報支援ガイド知能が俺を見るなり首を三六〇度回してみせる。
〈はじめまして、じゃな? 旅行の間、同乗するガイドのわしは、知の象徴で――って、おまえさん? この身体はさすがに……驚いたぞ?〉
 俺にだけ見える視界の端の案内人は人工知能であるというのになんとも人間味溢れていた。といってアニメ調にかわいくデフォルメされたフクロウだから、この場合は人間味で正しい表現なのか微妙なところだけれど。
「まあ、気にするなって。なかなか良いだろう、レトロで?」
〈じゃな。気にすべきは周りでのぉて、おまえさん自身じゃな〉
「やかましいわ!」
 俺だけが空気を震わせる会話に振り返っては怪訝な目を向けてくるロンドンの人々、彼らを尻目に俺はまだ楽しい時間を送っていた。この時は。コミカルなフクロウを仮想世界の傍らに引き連れた非日常の海外旅行、そしてはじめてのPMSという体験を。
〈とりあえず声には出さず、頭の中でだけわしと会話する練習からじゃのぉ? おまえさんはその見た目もあって無駄に目立ってしまうから。そういうわけで、まずはわしの言うとおりの場所へ進め〉
「はっ? 観光じゃないのかよ? 時間は二泊三日しかないんだぞ?」
〈おまえさんがすぐに遊びに行けるレベルにないからじゃろうが! ちょっと寄り道して機体のメンテと操作の練習じゃ!!〉
「……っとに面倒くせえな。やりながら覚えてくから大丈夫だって」
〈ダメじゃ! っとに、おまえさん、説明書とか読まないタイプじゃな?〉
「違うな。読まない、じゃない。読めない、だ。ああいうのは俺の身体が受け付けない」
〈自信満々になにをほざいくか、この馬鹿たれが! ああ、もう、本当にこやつで大丈夫なのか? さっそく心配になってきたわい……〉
「だいじょうぶ、だいじょうぶ。なんとかなるはずだって。やればできるよ、のびる君」
〈……はあ、やれやれじゃ〉


004

 そうして今に戻る。慌てて(物理的に)帰国し、駆け込んだ病院へと。
「……石……田? おい、ちょっ、おいっ!?」
 目の前には、目といっても肉眼でなく今は無機質なセンサーであり、俺の身体は角張った機械なのだけれど、しかしてその眼前に細身の看護士の首が転がっている。襟首を掴み上げていた、かの痩身の男は、まばたきもしていないのにいつの間にか首から上を分離させていた。首元の切断面から吹き出す赤い飛沫が俺の身体を朱に染める。転がった頭部は目を開いたままだ。某かを言わんとしたのか口もぽっかり開いている。
〈非常事態発生。石田彰夫の心肺停止を確認、警察へ通報したぞい。あわせて今より前後一二時間、計二四時間分のセンシングデータは然るべき捜査が行われるまで、おまえさんの意思とは無関係に保管されることになる〉
「ちょっ、待て! 俺じゃねえって!! なんだよ、これ!?」
 混乱、困惑、焦燥。まさか代体の操作を誤り、怒りに任せて俺が石田を殺してしまったのか。毛穴のない身なれど、人格の内側にびっしょりと汗を掻く。とはいえ、しかし「そうではない」という思いは願望としてだけでなく、確信としてそこにある。目の前に感覚される首なし死体、その首の切断面があまりに綺麗すぎるのだ。まるで刃物で切り落とされたかのように。
「……ふぅ」
 不意にそこで俺の聴覚を刺激したのは右前方の虚空であった。数秒前まで若き看護士だったはずの身体をゆっくりと床に下ろし、俺は赤く濡れた機械の腕を音のする方へと振る。細かく飛散した石田の血液がなにもないはずの宙空に留まり、コンマ数秒だけ曖昧に人型の輪郭を浮かび上がらせる。
「これは……まさか?」
〈光学迷彩。視覚的に対象を透明化する技術じゃ。自然界で言えばカメレオンやイカ、タコなどの擬態のようなもんじゃな〉
「……じゃな、じゃねえよ。とりあえず今度こそ黙っておけ……って状況でもないか? おい、ジジイ……あれがなにかわかるか?」
 老いたフクロウはすぐさま電子世界の旅行をはじめ、視界の端でくるくると首を回し、コミカルなシンキングタイムに入る。変わらず非常事態であることに違いはなかった。眼前の某かは既に浴びせられた血液すら擬態対象とみなし、適応し、再びすっかり俺の感覚から輪郭を消している。とはいえ、あくまで視覚情報を誤魔化しているにすぎない。物質的にその場から消えられるわけもなく、ゆえにそこに何者かが潜んでいることは明らかだった。
「そう構えないでよ」
「……話ができる、のか?」
「まあね」
「おまえ、誰だ? 人間か? それともAIか?」
「きみの身体はもうここにはないよ」
「はっ? なんだって? ……って、えっ? 忍者? コスプレ?」
 無機質な機械音声、互いに。刹那、前触れなく姿を現したその某は俺と同じく代体であった。言うまでもなくスペックは相手が上だろう。さておき、どうにも異様である。眼前のその人型は一言で表せば影、どこもかしこも黒ずくめだった。まるで忍者のような出で立ちだ。それも往年のアメリカンコミックスに出てくるロボット忍者といった風で、忍者と侍とロボットをごちゃ混ぜにしつつ、なんとなしカッコ良くまとめた様子である。
「俺の身体が……ここにはない? どういうことだ?」
〈無い。打ち消しの意。有る、の反対じゃ。つまり周囲に存在していないことを指すのぉ〉
「おまえには聞いてねえよ。頼むから、状況を察して黙っていてくれ……」
 まったく困った知の象徴である。老いたフクロウの出現頻度を減らすべく、俺は代体の設定を変更する。同時に横たえた石田の身体から血だまりが広がっていく様を足元に感覚しながら。それでいて意識の大半は眼前の影に集中させていた。その背にシンプルでアナログな凶器が背負われているから。どこからどう見ても日本刀だった。物騒極まりないその黒装束の代体は、頭部前面、すなわち顔の位置に燻された黒金の面を嵌めていた。水平方向への亀裂が三ヶ所走っている。両の瞳の奥からは赤い光が漏れ、口の部分の裂け目からは白色光の明滅が僅かに覗ける。表情は読めるわけもなく、敵か味方か判然としない。
「『身体拾い』だよ」
「身体……拾い?」
「肉体を盗んで売る、それを生業とする輩の通称。そこに転がった男のようなね」
 瞬時に事情を飲み込んだ。飲み込めてしまった。刑事でもない俺であっても、こうして切羽詰まった状況なれば、それなりに想像力が働くらしい。あるいはこの機械の身体である今だからか。
「……俺の身体も売られちまったってのか?」
「イギリス旅行が当たったって?」
 罠。詐欺。策略。絶句する。どうやら身体拾いとやらの常套手段に俺はまんまと引っ掛かってしまったらしい。海外旅行の当選などと上手い話がそうそうあるわけがないのだ。痛恨の極み。闇に佇む眼前のロボット忍者から、なんとなし哀れみと呆れが向けられているように感じられる。己が己に抱いた劣等感と後悔が眼前の黒金に跳ね返っているだけかもしれないけれど。
「……あんた、何者だ?」
「それはまたあとで。ひとまず……バイバイ」
 漆黒の影は無機質な電子音を残して再び虚空へ溶けていった。困惑する俺を他所にバタバタと警官隊が雪崩れ込んでくる。ここが病院の一室であったことを、そこでようやく思い出す。俺は徹頭徹尾、無抵抗を貫いた。石田の身体と頭部はそのまま回収され、代体のメモリから先ほどの記録をあらかた提供させられた俺は、あわせて盗難届けも提出する。
 ――盗難品、野依治良(肉体)
 その場で手短な聴取を受けただけで警察からはすぐに解放されることができた。不幸中の幸い、という他ない。室内に点在した監視カメラのおかげで、出来レースよろしく、俺の無罪がその場で即座に証明されたのだ。
「いやしかし、まさか任務中に『のびる君』と会えるなんて思ってませんでしたよ」
「俺もよもや警察のお世話になるとは思ってませんでした……です」
「今日のことはさすがにESPにあげないでくださいね」
「……はい。もちろんです」
「『やればできるよ』、いつも楽しみにしてるんです。その代体もどういった動画に仕上がるのか、楽しみしてます」
「はい。ありがとう……ございます」
「いやしかし、それ、どう使うのかなぁ? 聴取の際にあれこれ調べさせていただきましたが、その代体、オンボロなのに変にでっかい電流発生装置を積んでいて……なにか仕込んでるんですよね? あっ、大丈夫です。こちらもその辺は動画がアップされるまで内緒にしておきますので」
 俺のファンだという警官がそれまでの笑顔を引っ込め、最後にぐっと真剣な表情に戻った。そして「お身体は我々が必ず……」と言い残し、敬礼とともに去っていった。お願いします。必ず、必ず取り戻してください。
〈ほっ、ほっ、ほっ。重畳、重畳。よかったのぉ?〉
 一体なにが良かったのか。しかし身体を盗まれたという衝撃で、もはや小事にはリアクションする気すら起こらない。俺は視界の端で首を三六〇度回す老いたフクロウを無視し、院内の真っ白な廊下を愕然として進んだ。
 機械の足を左右交互に踏み出しつつ、無意識に先ほど警察へ提出したデータを己でも脳内再生する。見れば姿形こそ映っているけれど、動画には音声がまったく記録されていなかった。あの忍者がなんらかの妨害措置で録音だけ阻止したようだ。すなわち俺と忍者の会話は警察には伏せられていた。
「……俺の……身体が、盗まれた?」
 未だ状況把握には遠く、俺は目眩のする足取りで健康を確保すべく訪れた病院を蒼白になって後にする。冬の空はどこまでも高く、機械であるはずの俺もどことなし肌寒さを感じた。それ以外の感覚は一切感じられなかった。


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