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結局、罠にいつもはまる

以前直属の上司だった保育の達人が、「保育運営が上手くいっているかどうかは、クラスに入るだけでわかる。雰囲気でわかるのよ。」と言っていた。
最近になって私もそれがわかるようになった。
雰囲気なんて曖昧でわかりにくい表現になってしまうが、
言い換えるとすれば、「一人ひとりが安心感をもって自分の好きな遊びに熱中することができているクラス」だと考える。

一人ひとりが安心感をもって自分の好きな遊びに熱中するためにするには
数日の保育を変えたからといって到達できるものではない。
毎日のオブラートの積み重ねから生まれる厚みと重みが必要である。

日々の保育者の行動を左右させるのが、保育者の「思考」であると考える。
知識や経験よりも顕著に表れるかもしれない、バイアスからの思考。

単純に、保育の世界に入ろうと思った時点で、誰しもがもつ根底にある思考は子どもへの共感性が優位にくるベクトルを向いていると考えている。
それが、期待に応えたり、集団としてまとめようとしたり、見栄えを気にしたり、利益を求めたり、できるできないを求めるような保育を通して、しかも、それが評価されるという現実が起きると、いつしか自分の思考が「有り難い先生」が正しいという方へといつの間にか向いてしまう。私もその現象によく陥る。毎月保育の質にかかわらず同額の給与が入ることも罠である。

毎日の成果を出すことができないからこそ、目先の成果を求めて正しさで判断した保育を行い、そこに他者からの感謝が加わるとやりがいとして感じ、思考が上書きされてしまう。いつの間にか子ども主体ではない保育や話し合いに陥ってしまう。

その罠から脱出する道は安易ではない。なんせ、カスタマーである保護者という強敵は有り難い先生を望んでいるからだ。各園の裁量もある。

苦労、挫折、葛藤、不安、孤独・・・などてんこ盛りの道になる。
伝え方、聞き方の極み。人生の修行。やっていることは間違っていない。子どものために、と乗り越える勇気、
信念、強さ、たくましさ。

罠にはまったときこそ、思考を初期にリセットする癖をもつ。
自分が志した理由、保育の面白さ、子どもの尊さ、
保育の理念。

とか言いつつ、タイトルへ戻る。(笑)





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