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夏のひとおもい【短編小説】

 季節は加速し、夏休みが近づいた。
 僕はクラスメイトが疎らになっていく教室のなか、文庫本を開げると読んだ。内容なんてこれっぽっちも頭に入ってはこなかった。それはうるさく鳴く蝉の声のせいなんかではなかった。単純な想いがひとつ、あるだけだった。

 二階に位置する教室の開け放った窓からは生暖かい風が吹き込み、入道雲のそびえる空がいっぱいに広がっていた。
 僕が教室に残っているのは本を読みたいからなんかではなかった。実際、僕は滅多に本なんて読まなかった。教室を出る友人に、「ここのところ珍しいな、お前が読書なんて」などと言われ、からかわれた。文庫本は宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』だった。三日前から読み始めたというのに、まだ五ページも進んでいなかった。いまだに『よだかの星』の冒頭で、本編に辿り着く気配は一向になかったし、辿り着く頃には夏休みに入ってしまうだろうと思った。

 グラウンドには陸上部の男子がちらほらと集まり始め、準備運動を始めていた。僕は小説をほんの少しだけ読み進めた。やはり内容はほとんど上の空だった。というよりは、上の空でなければいけなかった。
 ふとまたグラウンドに目をやった。そこには女子部員たちも集まり始めていた。僕は文庫本を静かに閉じ、頬杖をつくと部員たちを眺めた。僕はこれまで、自らの席が窓際である事をこれほど嬉しく思った事はなかった。僕は次々と集まり準備運動を始める部員たちを眺めながら、胸を高鳴らせた。

 一人のクラスメイトが友人と談笑しながら昇降口を出て、部員たちの元へと向かう姿が見えた。遠くからでも髪型や面影から、僕は彼女をすぐと判別できた。
 彼女は他の部員たちに混じり運動を始めた。文庫本などはもう、そっちのけだった。僕の目は、彼女だけを追った。

 しばらくして体操を終えると、男子部員が列を成し、ウォーミングアップといった感じでグラウンドを周り始めた。少しして女子部員たちも続いて走り出した。
 走る彼女がこちら側に近づくと、僕は悟られないよう、文庫本を開き、ただ文字に目をやった。そして横目で彼女を見た。彼女たちが過ぎると、僕はため息をつき文庫本を持つ手を机へと下ろした。

 僕はそれから二三度、それを繰り返した。普段通りであれば、彼女の種目である短距離走の練習に入るだろうと思った。
 僕は黒板に書かれた日付を確かめた。そこには少し乱雑な文字で、『七月十九日(水)』と記されていた。あとたったの二日で、夏休みに入るのだった。
 去年までは喜べたその心とあべこべの気持ちを僕は持った。僕の胸は遠くに走る彼女を眺める度に、きゅっ、と締め付けられた。汗ばむワイシャツはきっと、暑さのせいだけじゃないと思った。

 僕は文庫本をカバンにしまうと、教室を出た。再び蝉の声が耳を突き、窓の入道雲が目に映った。続く廊下の階段から、突然彼女が駆け上がって来ないものだろうか、などと僕は夢想した。やはりそんな事はなく、僕は校舎を出た。
 丁度短距離を走り抜いた彼女が息を漏らして膝に手をやっていた。彼女は僕に気がつくと、笑顔で僕に手を振った。額に張り付いた髪や頬を伝う汗を、僕は綺麗だと思った。僕は手を振り返すと、校門に向かって歩いた。振り返したときの僕の顔はどんなであったろう、と思い返した。間抜けな顔をしていなかったか、などと不安になった。

 僕は切なさと喜びが混ざり合い、胸がいっぱいになった。
 この今まで感じた事のない、なんとも言えぬ感情を言葉で表すのであればなんだろか、と考えた。
 僕はふと、ひとつの言葉を思った。
 僕は鋭く照り付ける太陽を見上げると、目を細めた。家路がいつもより、幾分短く感じられた気がした。

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