文体放棄宣言。

適当なことを書きたいというか、言いたいと思う。
文章の形をとるということが嫌だ。といって、単語の羅列だと読む人が困るだろう。文体の不安定さも甘んじて受け入れなければならない。最優先すべきは自分の心地よさなのだろうか。読みやすさじゃなかろうか。
読みやすさのために自分が変わらなければならない、と考えることはいいことだと思う。難しいことを難し気に書く必要はない。

最近読書を積み上げられていないと思う。積み上げられる読書とはなんだろうか。今までそんなことができたためしがあったのだろうか。
小説を読むということは、その世界に入り込んで、積み上げるというよりは、ずんずん進んでいく、そのような形である。
小説ではない本はそこから何かしらの物を得られることが目指されるのだろうか。もうわからない。ただ、今もしかしたら何かしらつかみかけているのかもしれない。
毎日少しずつ、というフォーマットがいろいろな分野で適応されている。
いいことだと思う。それが仮にいいことじゃなかったとしても、思うことができる。
気楽さというか、落ち着きのようなものが得られるからいいんだろうなぁと思う。
あまりにもまとまっていない文章をかいている。もう少し読み手のことを考えるべきである。ただ、読み手とは誰なのだろうかと。まっさきに挙げられるのはやはり僕自身だろうと思う。
これがお手紙とかであればまだよかったのかもしれないが、僕の雑談を僕が聞いている感じ、それで書いてみたいなと思っている。少し形になりかけていた文体のようなものを壊していく。つまり、話すように書く、ということを目指していく。そうすりゃリズムもついてくる。
話し上手の人は、語彙が豊富であるとか、たとえがうまいとかそういうことももちろん大事なのだろうけれど、なんといったって間が大事である。
つまりしゃべらないことである。しゃべってはいけないというか、しゃべりすぎてはいけない。
では書く事はどうだろうか。書かないようにしなければならない。説明する必要はない。読み手を信用するというよりは、読み手に任せる。こう読んでほしいということではなくて、どんな読み方でもいい。読んでもらいたい。そういう欲求を満たすために書けばいいんだな。少し安心というか、地ならしをすることができた。
話し声を意識することもできた。今日もいい日だった。

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