なまねぐ

毎日千字程度の、そうめんのような、エッセーを書いています。読んでくれたらうれしいです。

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最近の記事

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毎日書くことができないのは、毎日書いていないから。

このnoteとは別にworkflowyで毎日5分日記を書いている。 日記といっても、いつどこで誰と何した、ということだけを書いているわけではなく、いわゆるフリーライティングを実践している。 不思議なもので、日記を書こう書こうと思っても、なかなか筆が進まないのに、フリーライティングを行ってみると全く関係ないことでもふと思い出して書きたくなってくる。 5月の6日まで継続して書いていたけれど、ちょっとさぼり気味だった。 なぜさぼっていたのだろうか。あまり覚えていない。 noteさえ

    • ハムスターを飼うかごを買うか。

      腹筋ローラーをすごい昔に買っていて、まったく使っていなかった。 ほこりをかぶって和室で何か言いたげにこちらを見ていたので、使ってやることにした。 youtubeでやり方を観て、立ってやるよりは、膝立ちでゴロゴロしたらいいのだとわかった。 毎日10回から続けていて、最近はもう30回やっている。 脂肪の兼ね合いもあって、バキバキになっているわけではない。けれど、腹筋以外の二の腕や背中などが、たくましくなってきた気がしている。 気分を良くした僕は、さっき、アマゾンでプッシュアップバ

      • 少なくとも知り合ったのだから。

        みんなが言っていることをやることが、いやだ、という欲求は逆張りと称されるかもしれない。 それはAとBが目の前にあれば可能であるが、何か一つ選ぶというときになった場合、そして多くのみんなとやらがAを所望している場合、A以外を選びたくなる。 ただ、その逆張りのようなことをするためには、何かしらの根拠が必要である。平たく言うとそれは、自信というやつである。 なかなか厄介な問題として、何かの結果として成功したとみなされる、つまり他者から認められる工程を踏むと自信というものが固まって

        • この夏は盆踊りを踊りたい。

          あの夏も、終わってしまって、この夏がやってきた。 この夏はどういう夏にしたいか、少し考えてみる。 忙しさという点においては、夏は忙しい、と思う。 ただ、忙しさを今年の夏は把握している。どういうことか。 今年度から、僕はようやくスケジュール帳なるものを導入している。 もちろんやり方はまだ確立はしていない。ただ、今までGoogleカレンダーに日付だけ入れていたものが、準備期間を書くようになった。 また、それ以上に革命的なことは、無駄なことを書くようになったということである。もち

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        毎日書くことができないのは、毎日書いていないから。

          自分はわからないけれど、信じるしかないなって。

          敵を知り己を知れば百戦あやうからず。 ただ、己を知るということが存外難しい。 今日で仕事が一区切りついた。 毎日のやりたいことがほとんどできない一週間だった。仕事が忙しいのはしかたない。あんまりそのことにどうこう思っていない。 ただ、思考力というか、判断力というのも鈍ってしまう。 そこで、書くことに改めて向き合いたい。そういう夏にしよう。 今わかってることを、自分自身に対して、書いてみる。 中途半端に毎日いろんなことをやるほうが、いい気がしている。 これを毎日書くように、

          自分はわからないけれど、信じるしかないなって。

          どう物語っていくか。真面目に不真面目。

          僕はやはりめんどくさいことが好きなんだなと思う。 飽きるときは、挫折というよりは、なんだか簡単だなぁと思ったときに、急激に飽きる。熱が冷める。 わからない、ということが結構好きである。もちろんその限界はある。 中学生の時に英語がまったくわからなかった。 アプローチをもう少しだけ正しくすれば、今のこのような人生はなかったはずである。それがいいか悪いかはもちろん別問題なのだけれど。 今自分がやっている趣味のようなものたちも、完璧にコントロールしている、というよりは、わからない

          どう物語っていくか。真面目に不真面目。

          東のエデンにあこがれて

          僕は一番最初のnoteに書いたように、ニートだった。 だから、というわけではないけれど、アニメの東のエデンにあこがれた。 何者でもないニートの僕だったけれど、今はノブリスオブリージュな発想で踏ん張った。 僕としてはそこまで変な話ではない。 ある時自分の賢さに気が付いて、勉強をした。そのまま大学に入って、今社会の歯車としてなんとなく生きている。 もちろん大変なことも多いけれど、大変なことをなんとかすることができるかもしれない、と思う土台には、東のエデンが影響している。 自分

          東のエデンにあこがれて

          なりたい自分なんて居ないんですが、それが?

          なりたい自分になりたいと思っていたが、問題は何になりたいかということがわからない、ということだった。 正確には、いろんなものになりたがっていた。 ただ、そういうことに何か責任を取らされそうな、そんな気配だけは察知していた。 何かになりたいと言っている人は、それに向かって努力をしている。何かになりたいと努力している人は、そういうだけの才能に恵まれている。 そんなことを小学生のころからうっすら考えていた。 だから、というわけではないけれど、僕にはあこがれの仕事というものはなかっ

          なりたい自分なんて居ないんですが、それが?

          メンタル君には留守番でもしておいてもらって。

          思い立ったらやってみる。 そういうことが精神衛生上よい。 自分の中でそのまま考えという形でぼんやりと保ち続けることは、結構しんどい。それよりはもうやってしまえばいい。 ぱっとやってみるときに、その対象がでかければでかいほど、まずは触ってみるということが重要である。例えば僕は今朝起きてすぐに朝ご飯を作って食べた。そしてすぐに皿を洗った。 この皿を洗うという行為も、そのままにしておくとどんどんどんどんいやーな感じになっていってしまう。衛生上もよろしくない。 なので、さっさとや

          メンタル君には留守番でもしておいてもらって。

          どんなに転生もののアニメにはまったとしても、本当に自分の通ってきた道を引き返す発想は生まれ辛い。

          時には時間を計らずに書いてみる。 学問に王道はなし、というけれど、それはやり方がいろいろあるよね、というニュアンスで受け取っている。 僕しては、やり方がどうあれ、時間をかけて、あとは多少のお金をかけてなんやかんやとやっていかないと、学問なるものはできないんだろうな、と実体験から考えている。 中学生の後半だけ少し塾に押し込められて、カードゲームをやったりトイレのドアを壊してしまったりしていた。 毎回英語の単語テストを実施されるのが嫌だった。小さい単語帳のようなもので、できなか

          どんなに転生もののアニメにはまったとしても、本当に自分の通ってきた道を引き返す発想は生まれ辛い。

          ゲームを楽しむということを意識しないと楽しめなくなったということは、何かを失ったのではなく、いろんなことを得たことの副作用だと思うことにした。

          さわやかさということとは無縁の日々を送ってきた。 最近は髭を毎日剃っているし、筋トレもしているのである程度さわやかさというものが得られているはずである。 大学の時髭を剃るのがめんどくさくなって、逆にどこまで伸びるか試してみたことがあった。ただ、なんだろう、いい感じに生えなくてなんだか変だった。もじゃもじゃーとなることもなかった。密度が高くなかったので、長いひげがまばらに生えていた。今思うとちょっと切って整えたりしたらまーだましだったのかもしれない。 でも、当時の僕はそういう

          ゲームを楽しむということを意識しないと楽しめなくなったということは、何かを失ったのではなく、いろんなことを得たことの副作用だと思うことにした。

          楽天ペイを使っている割に楽天ポイントは貯めていない。

          更新したばかりのエッセイがいいねされるとうれしい。 もっと嬉しいのは、過去のエッセイがなぜかいいねされた時だ。 書いたことを評価されることがうれしいのもある。 書いたものを僕自身も見直して、小さくない発見をすることもまたうれしい。 虫歯になってよかった、というエッセイがいいねされた。 タイトルを見て、確かに今虫歯を治療中だけれども、そんな前向きなことをかいたのかな、と思って読み返した。 なかなかどうして、そこまで前向きなことは書かれていなかった。でもなんだか、いいエッセイだな

          楽天ペイを使っている割に楽天ポイントは貯めていない。

          頭の中がまとまったためしはないし、まとまるという前提はおかしいと思う。

          何から話そうか。 こういう書き出しでも許されるということが、書くことの利点である。 書くというか、話すという感覚で書いているのか、僕は。 書くということはなんだか一方通行なイメージがあった。 実際にその作業は書いている瞬間は確かにそうだろう。 ただ、書いてみると、書き続けるとどうにもそうは思えない。 書いて終わりではなくて、書き続けていると、書いて、読んで、また書く。 もちろんコメントや、やり取りをしているわけではないから、反響のようなものは少ないけれど、それでも、僕がどこか

          頭の中がまとまったためしはないし、まとまるという前提はおかしいと思う。

          言葉に踊らされるのか、言葉で踊るのか。

          言語で理解できないことは、言語以外で理解をしようと努める。 赤ちゃんがどう考えているかなんて、さっぱりわからない。でも、表情やしぐさからもしかしたら、こうかもしれない、と察知する。 言語が伝わるということは、とても良いことだと思われるけれど、案外日常生活には非言語な世界も豊かであるということをついつい忘れてしまう。 写真が一枚あるだけでは僕たちは意味の解釈ができない。 その写真はいったい何なのか、という言語の説明が必要である。 必要なのだけれど、それはその写真の正しい説明が

          言葉に踊らされるのか、言葉で踊るのか。

          そうめんばらばら、もちもちでもない。

          そうめんのようなエッセイというタイトルの文章は、なんとなく付けたわりに、僕は気に入っている。 ネーミングセンスがないと思っていたけれど、僕は今使っているハンドルネームもなんとなく付けた割に気に入っている。 確か、オンラインゲームのキャラクターの名前を付けようとして、なまねぎにしたかったのにうち間違って、なまねぐになってしまった。でもなんだか、いいなと思って今でも愛用している。 自分は自分のためにストレートに何かをする、ということが苦手である。 ただ、そうやってふとした拍子

          そうめんばらばら、もちもちでもない。

          毎日更新やめます。という嘘をつきます。

          僕はもううそをつかない。 もちろん、嘘である。 ただ、嘘をつくということには、条件がある。 嘘をつく前には、必ず嘘をついていると思われてはいけない。 また、嘘は素直につかなければならない。 後ろめたい嘘はすぐにばれるし、なによりすっきりしない。 ストレートに言わなければならない。 究極的に、嘘というのは、よくないものだとされている。もちろんそれも嘘だと思う。 世の中の半分は嘘でできていて、もう半分はまた嘘だと思う。 本当のことというのは、ダイヤモンドみたいに硬い。 硬すぎ

          毎日更新やめます。という嘘をつきます。