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【小説】その苦しみの欠片ひとつ

(約3700字)

「どうしてさあ、」

太陽の方向から声が落ちてきたから、わたしは反射的に顔を上げ、眩しさに目を細めた。
声の主は、わたしの身長と同じくらいの高さの防波堤の上を、太陽を背負って歩いていた。

高校の授業が終わって、幼馴染のハルと、海沿いの道を一緒に帰っているときのことだった。

「ーーーーのかな?」

海のほうを向いたまま続きを喋ったハルの声が、風に連れ去られる。

「なに??」

顔にかかった髪を耳にかけながら聞き返すと、
ハルは鼻をすすったあとで、「だから、」と声を張り上げた。

「どうして、人間は、しんじゃいけないのかな、って」

わたしは、「ああ」と頷いて足元に視線を戻した。
また、ハルの突拍子もないどうして、が始まった。

「彼女と別れて死にたくなった?」

わたしがたずねると、ハルは動じる様子を微塵もみせずに「ちげえよ」と即答する。

いやいや、一週間前に彼女と、しかも学校一の美人と呼び声高いあの先輩と別れたばかりだっていうのに、その態度はないでしょ。

「じゃあ、急になに?」と聞き返すと、

「急じゃねえし」

とまた鼻をすすりながら答える。

「いる?」とカバンから取り出したポケットティッシュを、ハルは「サンキュ」と受け取る。
海の向こうまで届くんじゃないかと心配になるほど盛大に、鼻をかむ音が響く。

その音を聞きながら、「そうか、急じゃないのか」と改めてハルの質問の意味を考える。

ハルは、死にたいと思ったことがある、もしくは今も思っているということなのだろうか。
聞いてもきっと、答えてくれないんだろうな。

ハルは丸めたティッシュをズボンのポケットにしまって、また海の方に目をやった。





「ーーねえ、もしかして、ハル君と付き合ってたりする?」
やたら親し気にしてくる女子がいるなと思ったら、次の瞬間にはそう訊かれる。
「付き合ってない」
わたしがそう答えると、彼女たちは
「ごめんね、変なこと聞いて」
と喜びを隠しきれない唇で、猫撫で声を出す。
「いいよ、気にしないで」
優しく手を振りながら、わたしに媚びてどうすんだ、と心の中で毒を吐く。

ハルと同じ学校にいる限り、幾度となく起こる、決して愉快ではないイベントだ。
こうやって一緒に歩いているところを誰かに見られたりしたら、正直面倒だ。

わたしたちが育ったのは、幼稚園も小学校も1学年1クラスしかないような、小さな港町だった。

物心がついたときには同級生のみんなは気心の知れた仲になっていて、そのなかでも特に、ハルは家が隣同士だったから、小学校を卒業するまで毎日並んで登下校をしていた。

中学校にあがると、隣町のわりと大きい小学校とひとつにまとめられて、クラスの数も6クラスになった。
ハルとは同じクラスにならなかったし、お互いに部活も忙しかったから、一緒に登下校をすることはほとんどなくなっていた。

それでも、家の前で顔を合わせれば自然と近況報告をするぐらいの仲が、しばらくは続いていた。

中学2年生になってすぐに、ハルに彼女ができた。
最初は、得意8割、恥ずかしさ2割といった様子で、わたしにも直接教えてくれた。

そのときわたしはどう思って、何を言ったのか。今はもう憶えていない。

しばらくして、ハルが彼女と別れたと聞いた。そのあとすぐに別の彼女ができて、また別れたと聞いた。全部、ハルから直接ではなく、噂でだ。中学校に通った3年の間に、ハルに関するそういう浮いた話をいくつも聞いた。

「ハル君て、なんかカッコいいよね。幼馴染なんでしょ?いいなあ」

同級生にそう言われることも多かった。いつもわたしは何と答えたらいいかわからずに、曖昧に笑っていた。
ハルはハルだ、としか思えなかった。
しかしそういうことが重なると、だんだんとハルがとても遠い存在のように思えてきて、声のかけ方がわからなくなってしまった。ハルのほうも、あまり話しかけてこなくなった。

同じ高校に合格していたと知ったのも、入学式でクラス名簿にハルの名前があったからだった。
ハルはいつもクラスの中心で笑っていて、堂々としていた。わたしは良くも悪くも目立つことはなく、ハルやその周りのクラスメイトたちと、適当な距離感で過していた。

1年の途中でハルがバスケ部をやめて、もともと部活に入る気のなかったわたしと、帰る時間が重なるようになった。

先に声をかけてきたのは、ハルだった。

3年以上ぶりに、きちんとハルと向き合ったわたしは、正直戸惑った。
わたしがよく知っていたころのハルの快活さが、その瞳から消え去っていたからだ。

光も彩りも全部吸収して閉じ込めた、だただ黒い瞳は、
どんな表情をしても、彼の心の中のどの部分にもつながっていないように見えた。その瞳で語られる言葉をいくつ受け取っても、ハル自身には触れられないような気がした。

いつも教室にいるあなたは、そんな目で笑っていたの?
そんな目で、みんなを笑わせていたの?
そう問い質したくなった。

しかし同時に、これこそが彼に色香を与えているのだということを悟った。子供のころには存在すら知らなかった、あらゆるものを惹きつける、魅力的で怖い色だ。
この容姿にこの色をまとっているから、ハルは人気者になれる。彼が望まなくても。

「俺、嫌われてると思ってた」

はじめて高校から一緒に帰ったとき、ハルはわたしにそう言った。

「ちがうよ。色んな子とのうわさが流れてて、モテてるし、なんか、今までどうやって話してたか分かんなくなったんだよね」
そう言い訳しながら、ちがくないか、確かに嫌っていたのかもしれないな、と考えていた。

「そういうのは、もうやめるよ」
ハルの突然の宣言に、「知らないよ」と声に出して、だからなに?という言葉はさすがに飲み込んだ。
「冷たいね」とハルは黒い瞳で笑っていた。 

「部活、やめたんだね」と聞くと、
「自由になりたかったから」とだけ答えた。

自由を求めると、人間の瞳は色を失くす。
新しい発見だった。





「人間がしんじゃいけない理由は、やっぱりさ。親とかが悲しむからじゃないのかな」
わたしは下を向いたまま、防波堤の上を歩くハルに応えた。

「俺がいなくなったら悲しい人がいるからしぬなって、そういうこと?」

「うん」

「俺のことを大事に思ってくれてる誰かを、悲しませちゃいけないから、しんじゃいけないんだ」

「うん」

ハルは「そっか」と言いながらも、たぶん納得していなかった。
それが分かったのは、わたしも納得していなかったからだ。ハルが訊きたいのはそういうことじゃない。
本当に知りたいのは、他人が自分に死ぬな、という理由じゃなくて、自分が自分に死ぬな、という理由だ。

「誰かを悲しませたくて死ぬやつなんて、ひとりもいないのになあ」とハルが呟く。

「死んじゃいけないんじゃなくて、死なないほうがいい、って、そういうことなんだよ」

「うん?」

「だってさ、死んじゃったら二度と生き返れないけど、生きてる間は、いつでも死ねるじゃん。でも、生きてる間に、いつでも生きられるとは限らない」

「ほう」

「生きるとは、これすなわち死なないこと」

「なにそれ。当たり前じゃん」

「当たり前のことを忘れたら終わりじゃん」
わたしが言うと、少しの間風がやんで、静寂がやってきた。

すると突然、ハルが防波堤を飛び降りてきて、わたしの前に着地した。
「お前はさ」
と、真っすぐにわたしの目を見据えて、口を開く。
「俺がいなくなったら、悲しい?」

「うん」
わたしは、ハルの瞳を捕まえてすぐに頷いた。

自分から聞いてきたくせに、ハルはすべてを吹き飛ばすように笑って、こちらに背中を向けて再び歩き出す。
その直前、ハルの横顔にうっすらと影が差したのをわたしは見逃さなかった。

ハルはたぶん、苦しいのだ。誰かを悲しませることが。

それが分かってしまうくらい、わたしはずっと真剣にハルを見ている。そのことに自分で気が付くのは、結構しんどい。 
ハルはこんなわたしの気持ちに、気づいているのだろうか。きっと気づいていて知らないフリをしてるんだろうな。
そのくせに、そんな風に笑ってみせて、勝手に苦しくなるのはずるい、と思う。

それでも、ハルが見せてくれたその苦しみの欠片ひとつだけで、一生分。
わたしがわたしに死ぬな、とい言い続ける理由としては、一生分になるのだ。

前を歩くハルに呼び掛ける。

「なんでハルが死にたいのかも知らないし、ハルがいなくなったら悲しいけどさ」

ハルは背中で返事をする。

「本当に本気でそうしたいなら、ハルがしぬのを、わたしは受け容れちゃうのかもしれない」

わたしが言うと、海のほうから突然強い風が吹いた。
髪が顔にかかって、一瞬視界が覆われる。
髪を耳にかけて前を見ると、ハルが顔を半分こちらに向けていた。

そして、「大丈夫だよ」と言う。
「俺はさ、朝無事に目が覚めて、家の前とか学校でお前の存在を確認する度に、『ああ、よかったなあ』ってちゃんと思ってるから」

真っ黒なはずのハルの瞳が、少しだけ傾いた太陽の光を受けて、暖かく揺れていた。その色が溶けて滲んでくるように、わたしの胸の真ん中にじんわりと何かが広がった。

わたしは、その何かの存在を誤魔化すために、声を張り上げた。

「明日からさ、ゴールデンウィークだね。どっか行くの?」

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