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【小説】月の糸(第1話)


    ◆

「運命とは何かって、お前、答えられるか?」
 キャンパスでいちばん大きな講義棟の裏にある喫煙所は、四限目が始まったばかりの時間で閑散としていた。
 煙で霞んだ窮屈な空間のなかで、知らない学生が放ったその言葉が、やけに鮮明な輪郭をもって智也の耳に届いた。
 スマートフォンを眺めていた彼は、無意識のうちに視線を上げていた。
 灰皿を挟んで向こう側の壁に寄り掛かるようにして、二人組の男子学生が立っていた。ひとりは明るめの茶髪で耳にピアスが二、三個ついており、もうひとりは長身でパーマのかかった黒髪を後ろでひとつに縛っている。
「なんだよ、急に」
 ピアスの学生がスマートフォンに視線を落としたままで言った。
「運命とは何か。答えてみろって言ってんだよ」
 長髪パーマが言い返す。威勢のいい声と言い方だ。何か面倒くさそうなやつだな、と智也は思う。
 ピアスは、「う、ん、め、い、と、は」と口に出しながらスマートフォンを操作した。インターネット上の検索エンジンを使っているらしい。そんなピアスの様子をみた長髪パーマは、あからさまに嫌そうな表情をした。
 智也は吐き出した煙を目で追いながら、耳だけを二人の会話に傾けた。
「前にさ、」と長髪パーマが口を開く。「彼女とスニーカーを買いに行ったんだ」
 唐突な話題の転換に、智也は戸惑う。ピアスは「うん」と当たり前のように相槌を打っているから、これは長髪パーマの癖なのかもしれない。
「そこで彼女が、最高にお気に入りの一足に出会えてさ。このまま履いて帰ろうかなって言い出したんだ」
「うん。それが? よくあることだろ」
「俺はやめといたほうがいいって、止めたんだ」
「なんでだよ?」
「もう、日が暮れてたからだよ」
 長髪パーマは自分こそがこの世の正義だと言わんばかりの声色で言う。
 夜に新しい靴をおろすのは縁起が悪い、という昔からの言い伝えのことを言っているのだろうな、と智也は察した。子供のころ母親に注意された記憶がある。
 しかしピアスのほうはそのことを知らなかったらしく、「だから?」と聞き返す。長髪パーマは言い伝えについて簡単に説明した。
「そんなの、迷信だろ」とピアスは一蹴する。
「彼女もそう言ったんだ。でも、俺はそういうのは譲れないから。で、ちょっとした口論になった」
 やっぱりこいつはちょっと面倒くさいやつのなのかも、と智也は思う。たしかに、縁起が悪いと言われれば多少気にはなるが、恋人と本気で言い争うほどのことでもないだろう。ましてや、悪い縁起が降りかかってくるとすれば、それは自分ではなく相手のほうになのだから、その人の好きにすればいいと思う。気に入ったスニーカーを見つけていい気分だったであろう、顔も名前も知らない長髪パーマの恋人に少し同情する。
「お前、それはだるいって」とピアスが簡潔に智也の心を代弁してくれる。
「でもさ、俺は言いたいわけ。矛盾してるだろって」
 長髪パーマはかまわず語気を強める。
「縁起とか祈りとか呪いとか、そういう類のものを最近の若者は軽んじるだろ」
 自分だって最近の若者だろうに、と智也は心のなかでつっこむ。長髪パーマは続ける。
「そのくせ、インターネットとWiFiは盲信する。それだって目に見えない、得体の知れないものなのにだ。おかしいと思わないか?」
 どうやら長髪パーマは、ピアスが運命の意味をインターネットで検索したことを咎めるために、この話を持ち出したらしい。
「お前その、ネットとWiFiがどうこうって話前にも言ってたけどさ」
 ピアスが反論の体勢に入る。前にも言ったのか、と智也はそちらが気になる。
「毎日ご先祖様を拝んでる俺のばあちゃんは、ネット通販も仮想通貨もサブスクもまったく信用してないぜ。目に見えるとか見えないとかいう問題じゃないんだよ。どっちもどっちなんだって。豊かさの指標なんて、時代が変われば変わるもんなんだろ」
 知らねえけど、とピアスは締めくくる。
 智也は心のなかでピアスに軍配を上げた。どちらが正しいとかではなく、どちらかといえば智也はインターネットに頼りすぎるのは良くないと思うほうなのだが、このディベートはピアスの勝ちだという感じがする。長髪パーマのほうへちらりと視線をやると、彼は何も言い返さずに、ぶふう、と煙を吐き出していた。
「はいはい、出たぞ」
 ピアスがそう声を上げ、灰皿に手を伸ばしながら、反対の手でスマートフォンを長髪パーマの眼前にかざした。長髪パーマは「近いな」と文句を言って身体を後ろへ反らす。それから眉間にしわを寄せ、差し出された画面を読み上げる。
「うんめい。名詞。人の力ではどうにもならない、物事のめぐりあわせや人間の身の上。また、それをもたらす力(引用:明鏡国語辞典第二版)」
 すかさずピアスが「だってさ」と言う。「運命とは、それのことだ」
 そう付け足して、スマートフォンをさっさとズボンのポケットにしまってしまう。
 智也はタバコの灰を落とすため、手を伸ばした。灰皿の底にたまった水が、逆さまの世界を黄土色に映している。
「甘い。まだまだだな、お前も」
 長髪パーマがいちだんと挑発的な声を出す。ピアスが気怠そうな仕草で長髪パーマを見やる。
「運命について考えるときに、〈What〉や〈Why〉はそれほど重要じゃないんだよ。大事なのは〈How〉だ」
 運命とは何か答えろと言ったのは君じゃないか、と思った智也が苦笑すると、「運命とは何かって訊いてきたのはお前だろうが」とピアスも呆れたような口調で言った。
 長髪パーマはピアスの言葉を意に介さず続ける。
「運命とは何か? その問いは陳腐な比喩か地獄のトートロジーしか生まない。なんでこの運命を俺が背負う? そんなことを問い始めたら、そいつはもう自己嫌悪とその先で待っている絶望へまっしぐらだ」
 この場に不釣り合いな熱量を発散させながら、長髪パーマは主張を続ける。
「そこで〈How〉なんだよ。どうすればこの問題を解決できるか? どうやってこの苦難を乗り越えるか? そういう問いに答えを出し続けることが、すなわち運命に立ち向かうっていうことだ。だから〈How〉こそが絶対的で最終的な問いなんだよ」
 長髪パーマの演説が終わって沈黙がおちる。煙と一緒に、行き場のない彼の情熱が、喫煙所のなかをさまよっている。珍妙だ、と思いながら智也はぐるぐる回る情熱たちを眺める。
「へえ。そうか」
 ピアスの返事はとても素っ気なかった。しかし、その気の抜けた声がシャボン玉のようにふわふわと漂って、この空間が持て余した熱を回収してくれるような感じがした。
「そんなことよりさ」とピアスがまた口を開く。
「あと半年もすれば就活生だぜ。俺ら」
「ああー、そうだな。まさに運命の分かれ道だぜ」
 自分の話題を「そんなことより」と片づけられたにも関わらず、長髪パーマはまったく気にしていない。智也のほうもすでに、彼らの会話のちぐはぐさよりも、この二人が自分よりひとつ年上だという事実に気を取られていた。
「大学生って、幸せだよなあ」と長髪パーマが言う。
「間違いねえな。今が人生のピークだよ、絶対」とピアス。
「あーあ。地球滅亡しねえかなー。就活始まる直前ぐらいにさ、ポッと」
「それお前、全然運命に立ち向かえてねえよ」
 ピアスが苦笑しながらタバコの火を消す。
「そんなこと言われてもよお」と長髪パーマもそれに続く。
「運命よー、仏様よー。俺をいい感じの然るべきところへ導いてくれー」
「そんなに雑で抽象的な願いが叶えられるか」
惰性で放ったような笑い声を残して、二人は喫煙所を出て行った。
 急に辺りが静寂に包まれる。遠くのほうで鳴いているカラスの声を、聞くともなしに聞いていた。手に持っていたタバコの灰がズボンに落ちる。それを契機に、ちびた吸い殻を灰皿に落とし入れ、智也は喫煙所をあとにした。
 駐輪場へやってきて、自分の自転車を引っ張り出す。近所の大型スーパーで買った安いママチャリだが、軽くてスピードが出るしボディが黒で錆が目立たないので、なかなかいい相棒である。相棒に跨ってアパートを目指す。この後はもう出席をとられる講義もないし、バイトもない。
 キャンパスの周りに植えられている桜の木の影が途切れると、太陽の光がじりじりと身体の表面温度を上げていく。空を見上げれば、その青は数日前の記憶にある青よりも、たしかに濃度と彩度を増していた。
 今日から七月か。頭のなかで自分に似た声をした誰かが呟いた。

 玄関の扉をあけて足を踏み入れると、廊下の突き当りにある部屋から音楽が漏れ聞こえていた。エレキベースの音が足元を這ってきて体に絡みついてくる。智也は重低音を身にまとわせたまま、左手にキッチン、右手に浴室のある廊下を進み、件の部屋の扉を開ける。
 黒いタンクトップに白いハーフパンツ姿の同居人がうつ伏せになっていた。うつ伏せといっても床に接しているのは彼の両掌とつまさきだけで、直角にまがった肘がプルプルと小刻みに震えている。
「ただいま」
 智也がカバンをソファーの上におろしながら声をかけると、彼ははっとして音楽をとめた。スピーカーに接続しているスマートフォンの画面には、「筋トレ」というタイトルのプレイリストが映し出されていた。
「おかえり、兄ちゃん」
 彼はごろりと仰向けになって智也を見上げ、にこりと笑う。
 実の弟である風太郎を見下ろしながら、大型犬みたいなやつだな、と智也は思う。
 風太郎がトレーニング用のマットを片付け始めたので、「別に、やめなくていい」と伝えると、「いいんだ、ちょうど終わろうと思ってたところだから」と答える。
 智也は冷蔵庫に作り置きしてある麦茶をコップに注いで持ってきて、ソファーに腰を下ろした。自分が置いたカバンの上に座ってしまい、軽く驚く。
「俺もなんか飲も」と風太郎がつぶやいてキッチンへ向かう。
 丁寧に丸められたトレーニングマットは、テレビの横の定位置にきちんと戻されている。
 一つしか歳の違わない風太郎が、大学進学を機にこのアパートへ越してきたのは三か月前のことだ。智也が在籍しているのとは違う大学ではあるが、ここから電車で通える範囲なので一緒に住んでいる。家賃や生活費は田舎の両親に仕送りをしてもらっているので、できるなら二人で同じところにおさまっていたほうが何かと安く済むだろう、という算段だった。
 風太郎と一緒に住み始めてからというもの、この2Kの木造アパートは、常に整理整頓が行き届いていて、一人で生活していたころよりも格段に広くなったように感じる。
 昔から「片づけなさい」、「掃除をしなさい」と大人に叱られてばかりの智也とは対照的に、風太郎は几帳面できれい好きな性格だった。子供のころに兄弟で共用だったクレヨンは、風太郎が使った後は必ず、箱に書いてある順番どおりに色が並べられて返されていた。智也のほうは色の順番どころか、箱の蓋がきっちり閉まるように収納できた試しがなかったのに。そういう丁寧で細かいところまで目の届く風太郎の性質は、成長とともに誠実な人柄へと変わっていった。あまり人が気にしないようなところによく気が付き、誰が見ていなくとも、他人のためになる行動を当たり前のようにとることができる。小さなことにも妥協しない性格は努力家な面として発揮され、勉強でも部活でも必ずいい成績をあげるようになった。
 自分と弟を比べるとするならば。確実に風太郎のほうが優、だ。いつの間にか、身長だって弟のほうが高くなっていたし。
 それでも智也は、風太郎に対して劣等感を覚えたことはない。むしろ、風太郎の周囲にいる人々がみんなそうであるように、素直に彼を尊敬する気持ちが大きい。それもひとえに、風太郎の人の良さが、まったく押しつけがましくないものであるからだ。
「もう夏だねー」
 氷の入ったグラスと炭酸水のボトルをもった風太郎が、そう言いながら、智也の隣に腰をおろす。ソファーがぐんと沈み込んで、身体が少し傾く。
 風太郎は指についた水滴をティッシュペーパーで拭ってから、テーブルの上に置いてあるテレビのリモコンに手を伸ばす。ちょうど帯番組の狭間なのか、どこにチャンネルを合わせても通販の宣伝ばかりだ。風太郎は諦めたのか、よくわからない健康食品の宣伝をしているチャンネルで手を止めた。高血圧が、コレステロール値が、動脈硬化が、とおどろおどろしいテロップが次々と流れてくる。
「あ、そういえば」
 風太郎が唐突に立ち上がり、その勢いでまた身体が弾む。
 風太郎はテレビのもとへ近づいていくと、テレビ台の下のほうをごそごそと探っている。たしかそこは、光熱費の領収書や預金通帳など、大切なものを彼がまとめて保管しておいてくれているところだ。
「これが、母ちゃんから届いたんだ」
 そう言って顔を上げた風太郎は、薄いピンク色の封筒を二枚、手に持っていた。ソファーに戻りながら、そのうちの片方を智也に寄越す。受け取ってひっくり返してみると、実家のある市の役場の名前が書いてあった。封はされたままだ。
「なにこれ」
「俺もわかんなくて母ちゃんに電話したんだけど。なんか、健康診断受けろってことみたい」
 智也は首を傾げ、封を手で破いて開けようとする。苦戦していると、風太郎がはさみを差し出してきた。「サンキュ」と受け取る。
「若者向けの健診の案内らしい。ほぼ無料でちゃんとしたやつが受けられるんだってさ。大学の健診じゃ血液検査とかまではやってもらえないだろうから、受けに行きなって」
「ふうん」
「どうする、行く?」
 智也はうーんと唸って、「お前は?」と訊き返す。
「行ってみようかな。どうせ暇だし、行って損はしないし」
 風太郎の答えに頷きながら、智也は書類を折りたたむ。文字の上に目を滑らせただけで、内容はほとんど頭に入っていない。
「兄ちゃんもタバコとか吸ってるし、受けといたほうがいいんじゃない? どうせ、大学の健診だってめんどくさがって行ってないんだろ」
 図星を指された智也は肩をすくめてみせる。「まあ、考えとくよ」とその場しのぎの返事をして、書類をテーブルに投げ出した。

 一週間後、智也と風太郎は近所にある総合病院へやってきた。例の、健康診断というものを受けるためだ。風太郎や母親にしつこく説得されたわけではない。気が向いた、という以外に理由はなかった。
「奥のお手洗いに提出用のボックスがありますから、お好きなタイミングで採っておいてください」
 受付でそう説明を受け、尿検査用のコップを受け取る。
「俺、今いけそうかも」と風太郎がトイレのほうへ去っていく。
 いつもの癖で出かける直前にしっかり済ませてきた智也は、先に別の検査へ向かうことにした。二人のほかにも健康診断を受けにきている患者はそれなりにいるらしく、風太郎とは完全に別行動をとることになった。
 身体測定、採血、レントゲン、心電図と首尾よく回っていくと、最後の問診で風太郎と再び一緒になった。智也の顔をみるなり、「尿検査出した?」と訊いてくる。「心電図の前に出したよ」と教えてやる。
 待合室の長椅子に並んで腰を下ろす。智也が欠伸をすると、風太郎にもうつった。
 智也はおもむろに辺りを見回す。年季が入っているがぴかぴかの壁や床、天井に並んだ青白い光を放つ蛍光灯、染みついた消毒液と薬品の匂い、規則正しく鳴り続ける何かしらの機械音。病院が醸し出す潔癖さと対比され、自分が物理的にとても汚いものであるような気がしてきて、落ち着かない。
 そういえば前にも風太郎とふたりで、病院の待合室でぼんやりしていたことがあった。
 あれは二年前の春、田舎でひとり暮らしをしていた祖父が入院したとの知らせを受け、見舞いに行ったときのことだ。大勢で病室へ行くと他の患者に迷惑だろうからと、姉と智也と風太郎の三人は交代ずつ会いに行くことにしていた。それで風太郎と二人で待機している時間が多くあったのだ。
 祖父はその春から何度か入退院を繰り返し、そのたびに家族みんなで病院を訪れた。
「なんかさ、こういう大きい病院に来ると、思い出すね」
 風太郎がぽつりと言う。彼も同じことを考えていたらしい。
 智也は横目で弟の表情をみやり、「そうだな」と目を伏せる。
 最初の入院から三か月後、祖父は治療中に容態が急変し、死んでしまった。
 最後に会ったとき、祖父は元気だったころとさほど変わらない、しっかりとした口調で話していたから、本当に突然のことだったのだろう。祖父が悪性リンパ腫に罹っていたと聞かされたのは、四十九日が終わったあとだった。
 父方の祖母は父親が子供のころに亡くなり、母親の両親も智也の物心がつく前に亡くなっていたため、智也と風太郎にとって、祖父の死は初めて経験する身近な人間との別れだった。
「俺、じいちゃんが亡くなったって聞いたとき、訳も分からず母ちゃんに怒っちゃったんだよなあ」
 風太郎が申し訳なさそうな声を出して言う。
 その場面は、智也もよく覚えていた。
 あの日、部活を終えた風太郎は、家族のなかでいちばん最後に帰宅した。父親はすでに祖父の家へ行っており、母親が風太郎にそれを伝えた。風太郎の顔はみるみるうちに青ざめて行った。
 お通夜がいつで葬儀がいつだから学校休まないとね、部活の大会は重なってないのか、と矢継ぎ早に説明や質問をする母親に、風太郎は珍しく声を荒げた。
「ちょっと待ってくれよ。そんなこと急に言われたって、意味わかんないよ」と母親に詰め寄った。それをみた智也は咄嗟に風太郎の肩を後ろから掴み「落ち着けよ」と声をかけた。風太郎の気持ちはそこにいた全員が、痛いほどよくわかっていた。
「母ちゃんだって、色々忙しくて大変なんだ」智也は続けて言った。
 困惑が収まらない様子の風太郎をみて、「先にシャワー浴びてきたら?」と姉が助け舟を出してくれた。
 姉に従い、風呂から出てきてダイニングターブルについた風太郎は、「ごめん」と母に謝った。「母ちゃんも悪かったよ」と母は微笑んだ。
「あのとき、俺はあんなに取り乱しちゃったけど。兄ちゃんは、お通夜のときも火葬のときも、誰よりも落ち着いてたよね」
 現在の風太郎が言う。智也は否定も肯定もしない。
「俺、ずっと気になってたことがあるんだけど」と風太郎は続ける。「兄ちゃんは分かってたの?」
「何を?」
「じいちゃんが、死んじゃうってこと」
「いや、違う」智也は即座に答えた。「じいちゃんが癌だったのは、俺も最後まで知らなかったんだよ」
 智也は、祖父が悪性リンパ腫に罹っていたことを自分だけが知らされていなかったのではないかと、風太郎が疑っているのだと思った。しかし風太郎は、「そんなことわかってるよ」と平然と頷いた。そのうえで、「そうじゃなくて、」と言い淀む。
「うまく言えないんだけど、葬式のときだけじゃなくて、最後にじいちゃんの病院に行ったときもさ、俺には、兄ちゃんのことだけがみんなと違って見えたんだよ。いや、兄ちゃんが違うっていうか、兄ちゃんと話してるときだけ、じいちゃんがすごく穏やかに見えたっていうか」
 智也は自分の手のひらを見つめながら、風太郎の声を聞いていた。
「だから、わかってたんじゃないのかなって。予感っていうかさ、そういう、他の人には感じられない何かが、兄ちゃんには見えてたんじゃないかなって思ってたんだ」
 風太郎は困ったような顔で笑う。彼自身が、この話をどこに終着させるつもりだったのかわからなくなってしまったようだ。
「兄ちゃんは昔から、目に見えないものについては鋭いから」
 風太郎の言葉に、智也は「たまたまだろ」と苦笑した。
 あのとき何が見えていて、何が見えていなかったのか、智也自身にはわからない。そこまで、自分や過去を俯瞰できている自信はない。
 ただ、祖父のことが気の毒だと思っていたことは確かだ。
 時々祖父は、病院のベッドや退院中の自宅で弱音を吐くことがあった。「自分が死んだら……」という類のものだ。その祖父の言葉に対して、子どもたち(智也にとっては父親や叔父、叔母だ)は「そんな縁起の悪いこと言うな」だとか「もっと生きなきゃ」だとか言って励ました。智也にはそれが、とてつもなく不自然なことに思われた。祖父の気持ちを無視した不相応な明るさだと思っていた。しかし周りにいる人間たちは皆その明るさに加担していて、こんなことを考えているのが智也だけのようだということがとてももどかしかった。だから智也は、祖父の吐き出す言葉たちをただ黙って聞いて飲み込んだ。祖父が一人ぼっちになってしまわないように。
「尾崎さん、尾崎智也さん、三番の診察室にどうぞ」
 待合室に響いたアナウンスで、智也の意識は現実に引き戻された。
 横に置いていたメッセンジャーバッグを肩にかけて立ち上がる。風太郎はその様子を目で追っていた。
 診察室に入ると、眉毛の太い男性医師が待っていた。大柄な体格の割につぶらな瞳をしていて、横幅のある鼻先は上を向いている。
 カバみたいだな、と智也は思う。
 彼が丸椅子に腰をおろすやいなや、医師は聴診器を取り出して「じゃ、胸の音聞いていきまーす」と野太い声で言う。智也はシャツの裾を捲り上げて、「吸ってー、吐いてー、じゃ、後ろ向いてー」の指示に従った。
「じゃ、体調面で何か気になることとかありますか?」
 カバ顔の医師は問診票にペンを走らせながら訊く。
「いや、特にないです」
 智也が答えると、「うん、まあ、お酒とタバコはほどほどにね」とその時だけ目を合わせて言ってきた。
「ありがとうございました」と小さく頭を下げ、智也は診察室を出る。
 風太郎がまだ呼ばれずに待合室にいたため、先に会計に行くと伝えた。混んでいるように見えたものの、さほど待たずに順番が回ってきた。
「結果は三週間ほどでご自宅に届きますから」
 会計窓口のスタッフが丁寧に教えてくれる。検査がすべて終わった達成感に満足していた智也は、「そうか、結果発表があるんですね」と思わず口に出して首を傾げられた。
 あとで母ちゃんに送らなきゃいけないから、失くさないでよ。
 風太郎にそう釘を刺されたのを思い出し、カバンへ無造作につっこんだ領収書を財布に入れ直した。
 建物の外に出て喫煙所を探してみたが、近くには見つからず諦める。自動販売機で缶のコーラを買って、屋根の下の日陰で風太郎を待つことにした。コーラを飲むために缶を傾けて顎を上げると、視界いっぱいに空が映った。遠くのほうに入道雲が出ている。梅雨は、もう明けたのだろうか。今年はそれほど雨にあたらなかったような気がする。あとで風太郎に聞いてみるか。検査のために朝から飲み食いをしていなかったので、炭酸と糖が身体に染みる。
 そんなことを考えながらコーラを呷っていると、「お待たせ」と背後から風太郎の声がした。
「あ、俺もなんか飲もう」
 そう言って風太郎がきょろきょろと自動販売機を探し始める。智也はあっち、と左のほうを指さした。
 ガコン、と飲み物が落ちてくる音と釣銭が出る音がして、風太郎が戻ってくる。手にしていたペットボトルの緑茶を一気に半分くらいまで空け、「ああー、うめえ」と息を吐く。
 智也が「帰るか」と言おうとして風太郎のほうに視線をやると、彼は下唇を噛んで何か言いたげにしていた。
「どうした?」
 智也が訊くと、「いや」と眉毛を上げた後で、「あの、三番診察室のお医者さんがさ」と話し出す。
「あー、カバみたいな顔だったよな」
 智也が言うと、風太郎は「兄ちゃんもそう思った?」と堪えきれなくなった様子で吹き出した。
「それがそんなに面白いか?」
 風太郎につられ、智也も顔をほころばせながら訊ねる。
「兄ちゃん、あの人の名札見なかったの?」
 智也は首を傾げる。すると風太郎は、とっておきの秘密を披露するような口調で言った。
「あのお医者さん、『蒲地』って苗字だったんだ」
 カバ顔でかばちって可愛すぎるだろー、とひとりでカラカラと笑っている。
「くだらねー」と言いつつ智也も笑いながら、二人で駐輪場へ向かう。
「昼にはちょっと早いけど、なんか食って帰ろうよ」
 風太郎の提案に智也が同意して、帰り道にあるラーメン屋に寄った。
「本当はさ、こういう時って、もっと消化のいいもの食べたほうがいいんだろうね」
 注文したラーメンを待つ間、風太郎はそんなことを言っていたが、スープを口にした瞬間に身体に染み渡る脂と塩分に、「優勝!」とこぶしを突き上げていた。


第2話へつづく

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