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【小説】月の糸(第7話)

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 その日、三回目の電話が鳴ったのは、またしてもジロウの足を拭いてやろうとしているときだった。スマートフォンをとりだして画面を見ると、そこには見覚えのない番号が表示されていた。訝しく思いながらも通話ボタンを操作する。すると、
「お久しぶりです」
 掠れた女性の声が聞こえてきた。ついさっき深い深い眠りから覚めたばかりのような、ゆったりとしたトーンだった。声の主が誰か分からずに戸惑う。何と答えようか迷っていると、相手が先に言葉を継いだ。
「元気ですか? 智也さん」
 小さく笑った吐息混じりのその声を聞いた瞬間、脳裏に彼女の姿が浮かんできてハッとした。「華菜子さん……」
 驚いた智也の様子を感じ取ったのか、華菜子はくすくすと笑った。
「鷲田さんから番号聞きました。遅くなっちゃいましたけど、退院おめでとうございます」
 久しぶりに実感した彼女の存在に、喜びと安堵がない交ぜになり、激流となって湧き上がってくる。
「ありがとう」
 やっとのことで絞り出した声は、情けなく震えていた。
 華菜子はひとつ、大きく息継ぎをしたあとで智也に訊ねる。
「ひまわりの花言葉、調べてくれましたか?」
 智也が答えを迷っていると、なかなか始まらない足拭きにしびれをきらしたのか、ジロウが「わん」と声を上げた。

    ◆

「じゃあ、そろそろ行くよ」
 新幹線の改札の前で、智也は地面に下ろしていたリュックを持ち上げた。隣にいる風太郎もボストンバックを肩にかけ、ズボンのポケットから切符を取り出す。
「二人とも気をつけて帰りなさいよ。アパートに着いたら連絡よこして。あと、野菜もちゃんと食べるんだよ」
 見送りに来た母の眉間には心配の色が貼りついている。「わかってるよ」と風太郎がなだめるように返事をする。
「智也を頼むぞ」父から風太郎に向けられた言葉には、「大丈夫だって」と智也が答えた。
 ホームへ上がるエスカレーターから改札のほうを振り返ると、父と母はまだこちらを見守っていた。風太郎もそれに気が付き、半ば手すりから身を乗り出すようにして大きく手を振った。
 三月最後の日曜日だからか、ホームは大きな荷物を持った人々でかなり混雑していた。「指定席とっておいてよかったね」と風太郎が鼻歌を歌うついでに言う。
 出発時に車窓から見上げた空はどんよりと曇っていたが、トンネルを抜けるたびに完璧な青空へと近づいていった。時速三○○キロで南下する鉄の塊は一時間と少しで季節さえも跨いでいく。降車駅の近くになって川沿いに並ぶ満開の桜を目にしたときには、一瞬、息をするのを忘れた。
「バイト先に寄って帰ってもいいかな。制服、洗わなきゃいけないのにこの前置いて来ちゃったんだ」
 風太郎がそう言い出したのは、新幹線から在来線に乗り換えて、アパートの最寄り駅へ向かっているときだった。風太郎のアルバイト先は個人経営の飲食店で、駅からアパートへ帰る途中にある。特に反対する理由もなく、「おう」と頷いた。
 アルバイト先に到着すると、風太郎は〈CLOSED〉の札がかけられた扉を躊躇なく押して中に入っていく。智也もそのあとに続く。扉についているベルが威勢よく二人の来店を告げた。昼と夜の営業時間の真ん中で、客席側の照明は消えていた。調理場の奥から水を流す音が聞こえてくる。
「こんにちはー、かおりさん、いますかー?」
 風太郎が調理場の奥へ消えていき、智也はひとりフロアに取り残された。薄暗い店内をぐるりと見渡してみる。照明器具やテーブルはシンプルなデザインのものに統一されていた。風太郎が働いているので店の存在はずいぶん前から知っていたが、実際に訪れたのは初めてだった。窓際にはシクラメンの咲いた鉢植えがいくつか並んでおり、店主の暖かさと面倒見のよさが表れているように感じた。風太郎と店主らしき人物の話し声が微かに聞こえてくる。
 しばらくして風太郎とともに現れたのは、穏やかな空気をまとった眉目秀麗な女性だった。艶のある黒い髪を低い位置で一本に束ねている。
「こちら、店長のかおりさん」と風太郎が彼女を智也に紹介する。
「こんにちは。風太郎の兄の智也です」
「はじめまして。智也くんのことは前からよく聞いていたわ。会えて嬉しい」
 店長が目を細める。落ち着いた雰囲気のなかにふわりと愛嬌がさす。智也はなんと答えればよいかわからずに「そうですか」と目を泳がせた。
「用事は済んだのか」智也は風太郎に訊ねる。「うん」と風太郎は制服が入っているらしい袋を軽く持ち上げて見せた。
「じゃあ、また」今度はちゃんと食べに来ます、と伝えて出口に向かおうとしたところで、「せっかくだから何か食べていきなよ」と店長に先を越された。
「え、いいんですか? 開店前の忙しい時間に」
 風太郎が聞き返している間に、店長は腕まくりを始めている。
「夜の分の仕込みはだいたい終わったからね。それに、今日は待ちに待ったお兄ちゃんの帰還の日なんでしょ? わたしにもお祝いさせてよ」
 帰還、という言葉の響きに、智也は宇宙飛行士が両脇を抱えられて着陸船から降りてくる様子を想像する。なんか大袈裟だな、と思う。
「じゃあ、お言葉に甘えようかな。兄ちゃんはどう?」風太郎の問いかけに智也は頷く。
「そうこなくっちゃ」と店長が睫毛を揺らす。
「あ、その前に二人ともお腹はあいてる?」
 店長が背中に手を回してエプロンの紐を結び直しながら言う。時刻は夕方の四時を過ぎたところだった。夕飯にはだいぶ早い時間だったが、ちょうど小腹が空いてきたところでもあった。
「俺はあいてます」智也が答えると、「俺もです」と風太郎が続いた。
 カウンター席で待つよう言われた二人の前に並べられたのは、昔ながらのオムライスだった。チキンライスをくるんだ薄い卵にトマトケチャップの赤が映える。子どものころにみた絵本からそのまま出てきたかのような色合いは、見ているだけで幸せな気分になる。ほんのりバターの匂いがかおる。
「うまそう」と智也は思わず呟いていた。
「この店の看板メニューだからね」となぜか風太郎が誇らしげに言う。
「いただきます」
 スプーンを持って食べ始めると、完食まではあっという間だった。風太郎が「うまいっ」と声をあげる横で、智也は黙々と一皿をたいらげた。水を飲みナプキンで口を拭ったあとでハッとして、「うまかったです、今まででいちばん」と伝えると、カウンターの向こうで様子を眺めていた店長が、にっこりと頷いた。
「風太郎、一息ついたらお茶いれてきてもらえるかな」
 店長のお願いに「了解です」と風太郎が立ちあがる。二人分の空いた皿を持って風太郎が厨房の奥へ消えていく。
「すみません、お茶までいただいて」と智也が小さく頭を下げると、店長は「いいの、気にしないで」と手をひらひらさせた。続けて、
「智也くん、どうしてわたしが病気のこと知ってるんだろうって思ったでしょう。ごめんね、風太郎から半ば強引に聞き出してしまったの」
 と声のトーンを少し落として言った。
「いえ、そんな、別に……」と答えながら、智也は想像する。
 智也が入院し、アパートにひとりになって、風太郎はそれなりに気落ちしていたのだろう。きっと、暗然としたまま出勤した風太郎の様子に店長がいち早く気が付き、心配して声をかけ、話を聞いてくれたのだろう。
「あいつ単純だから、感情を隠すのが下手ですよね」智也の呟きに、店長は首を傾げる。
「店長さんに話しができて、風太郎はだいぶ助けられていたんじゃないかと思います。ありがとうございました」
 智也が深々と頭を下げてお礼をすると、彼女は静かに声をたてて笑った。
「君たちは本当に仲のいい兄弟なんだね」
「うーん。どちらかといえば、そうかもしれないですね」
 智也は顔をあげながら首元に手をやる。
「少なくとも、風太郎がお兄ちゃんを慕う気持ちは相当だよ」
「そうですか?」
「そりゃあ、もう。風太郎がどんなこと言ってるか知りたい?」
「いや、あんまり」
 智也の反応を無視して店長は話を進める。
「うちの店、閉店した後にバイトの子たちとちょっとした飲み会をやることがあるんだけどね。お酒が回り始めた風太郎がよく言うんだよ。『兄ちゃんは月みたいな人だ』って」
「月、ですか」
 我が弟ながら、なかなかに気恥ずかしいセリフではないか。酔っているときに言っているらしいので、まあよしとしよう。
「そう、彼いわく、太陽の光は横暴なんだって。朝なんて来てほしくないと思っても、太陽は容赦なく世界の隅々まで照らしてしまうでしょ。夜の闇も同じように容赦なくやってくることがあるけれど、夜空には月があるって。月の美しさは夜の不安を和らげてくれる。でも、決して太陽みたいに明るさを強要したりはしない。自ら光を探して癒しを求める人にだけ、月は手を差し伸べてくれる。俺の兄ちゃんは、そういう人なんだって言うんだよね」
 店長の、淡々としつつも温もりを失わない声に、智也は照れくささを忘れて聞き入っていた。同時に、光を拒みたくなる朝が、風太郎にもあったのだということが意外だった。想像してみてもあまり現実味がない。確かに彼だって悩んだり迷ったり泣いたりはするだろうし、実際にそういう姿もたくさん目にしてきたけれど、それすらもすべて眩い光の世界で完結するような。それほど純粋で、ひたすらまっすぐに生きている。それが、風太郎に対するイメージだった。
「風太郎が、そんなこと……」
「うん。ちなみに、このたとえ話は智也くんが入院する前から口にしてたよ。だから、わたしもずっと君に会ってみたかったの」
 魅力的な唇で店長は微笑む。なんと返事をするべきか迷っていると、
「お待たせしましたー」
 銀色のトレイを右手に載せた風太郎が戻ってきた。ティーカップを店長と智也の前に慎重に並べ、風太郎自身の分もテーブルに置く。紅茶のいい匂いがふわっと漂った。
 風太郎は智也の隣に腰をおろしながら「なんの話してたんですか」と店長に訊ねる。
「月のない世界なんてつまらないって話」
 何気なく店長が口にしたそのセリフに、智也はそっと心が撫でられたような感覚になった。前にも聞いたことのある言葉だ。確かあれは、最後に病棟で話をしたときに華菜子が言ったのではなかったか。
 そんな智也の様子には気が付かず、「ああ、新月なんてくそくらえって話ですね」と風太郎が紅茶を一口すする。
「なにそれ」と店長が笑う。「でも、新月とか雲の多い日があって、いつでも見えるわけじゃないっていうのも、月の魅力の一部なんじゃない?」
 店長は風太郎を宥めるように言いながらティーカップを両手で包み込む。
「店長にそう言われるとそんな気がしてきます。兄ちゃんに似たようなこと言われた時はそうでもなかったんですけど。不思議ですね」
 調子のいいことを言っている風太郎の肩を、「どういうことだよ」と軽く小突く。ティーカップを口につけようとしていた風太郎は、「危ないって」と抗議してくる。それをみて、また店長が笑う。
 智也は風太郎と話している店長の横顔を眺めながら、そこに華菜子の姿を重ね合わせていた。あの子はどんな大人になるんだろう。きっと、店長にも負けないくらいの素敵な人になるんだろう。
大人になった彼女にも会ってみたかった。
 紅茶を持ち上げて口をつけると、微かにレモンの味がした。

第8話に続く

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