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「君たちはどう生きるか」解釈感想※ネタバレ

最初に、この解釈感想はネタバレありになります。映画を未鑑賞の方はその旨を了承してお読みください。

ものすごい映画

わけがわからなくてめちゃくちゃ面白い映画だった。
わけがわからないけど自分なりの解釈はあるので、それを書き記していく。
これを書いている時点では感想の検索などは一切しておらず、Twitterで流れてきたネタバレ配慮の一言を見た程度である。
つまりすべて私の主観なのでもちろん間違っている可能性がある。一意見として楽しんでもらえると嬉しい。

抽象化した「どう生きるか」

映画全体の感想てして、「どう生きるか」をとことんまで抽象的にして、宮崎駿の得意な不気味だけど愛嬌あって目が離せない味付けで料理した感じだった。

「君たちはどう生きるか」というタイトルは、宮崎駿がこの映画を作るきっかけになった問いかけで、そしてこの映画で観客へ問いかけている内容だ。もしかしたらその本を読んだときに「生きる」ことについて考えることがあったのでは。そしてその内容を「眞人がどう生きるか」という一つのアンサーに昇華し、より多くの人にさらに問いかけたかったのではないか。「君たちはどう生きるか」という問いかけを自分で止めずに次へ続けなくてはいけないと思ったのだろう。

本編感想

子供であることを拒絶していた眞人

眞人は初め、子供をやめようとしていた。だから最初はずっと背筋をピンと伸ばしていた。冒頭で眞人が口を開くことは少ない。自己防衛?自分がまだ大人になり切れていない自覚はある。だけど子供でいたくない。口を開けて心の内を晒すと子供であることがバレるから、ずっと喋らなかったのでは。
夏子さんは眞人と親子になりたかった。けれど眞人が子供であることを嫌がっているから、あまり近寄れなかった。子供と大人でないと親子にはなれないのでは。そしてただの大人と大人になるには、眞人は幼すぎる。

石で自分を殴った描写はショッキングだった。あそこの血がだらだら溢れて流れる演出とてもいい。
さっきも言ったとおり、眞人は子供を止めるために周囲や外界を拒絶する手段を選んでいたのだと思う。だから殴り合いのとき、相手は何か言いながら眞人をこづいた。眞人は反論も何も言わなかったのではないか。
で、それを利用してさらに周りを拒絶しようとする。だから父親が心配することをわかって自分を殴り付けた。
殴るのに迷いがなかったように見えた。たぶん痛みに頓着していなかった。寝込んでいるときに頭が痛そうにしている描写があったから、痛みを認識できないわけじゃない。けれど痛みを必要なものとして「痛がる自分」を切り捨てた。書いていて気付いたが、外界を拒絶することは自分自身を拒絶することにも繋がるのではないか。
眞人は「拒絶」「否定」を通して大人になろうとしていた。

拒絶といえば結婚指輪の描写はよかった。
眞人の手を取ってお腹に当てるとき。寝込んでいる夏子さんが眞人の傷口を撫でるとき。
たぶん眞人が夏子さんを「父さんの好きな人」と意識して夏子さんとの触れ合いに壁を感じているときにその描写があったのでは?
だから「夏子母さん」と呼んだ終盤からはまったく切り取られなくなったのかもしれない

現実の前半と少しの部分は、抽象化された(かは見る人によるけど)思春期の描写ではないだろうか。
思春期が過ぎ去った大人ならわかるかもしれないが、拒絶と否定だけでは健全な社会性を育んだ大人になることはできない。人間はひとりでは生きてはいけないからだ。適切に周囲を頼る必要がある。
眞人にも周囲とコミュニケーションを取っていくきっかけがある。

アオサギへの拒絶

そんな眞人にアオサギが勧誘をしてくる。眞人はそれを断り否定しようとする。否定の至った手段として、攻撃で排除をしようとする。
眞人は最初アオサギにそこまで敵意を持っておらず羽根を追いかけるほどだった。けれどどうしてあそこまで拒絶するようになったのか。
アオサギを拒絶するタイミングは自傷してから(そのタイミングでアオサギが明確に接触してきたのもあるだろうが)。
眞人はアオサギによって「子供の自分」を見せられたのではないか。アオサギに眞人に「母親」の影をチラつかせる。そこに眞人は「母親を追い求める自分」を感じたのではないか。「母親を追い求める自分」はイコール子供である。それを消すためにあそこまで攻撃的になったのでは。

しかしアオサギを拒絶するのはなかなか厄介だ。付き纏われるし、木刀は歯が立たない。
そんな中で眞人は周りを利用することを覚える。タバコを盗んで使用人?を懐柔し、刃の研ぎ方を教わる。キリコ婆さんには渡せなかったが、会話をしっかりと行っている。
弓矢を作る過程で本を読んでもいて、内省的ではあるがそれもコミュニケーションの描写だろう。
アオサギを拒絶するために周囲とコミュニケーションをするようになったのだ。

「君たちはどう生きるか」と出会って
弓矢を改良する中で、眞人は「君たちはどう生きるか」という本に出会う。母から「大きくなった眞人君へ」と願われていたものだ。
未読なので本の内容はわからないが、それを読むことによってまず自分自身とのコミュニケーションが取れるようになり始めたのではないか。「自分自身の拒絶」からの脱却の一歩である。

そんな中、夏子さんがいなくなってしまう。使用人が探し回る中、眞人には心当たりがあった。
おそらく、夏子さんと出会ったばかりの頃の眞人なら探しに行かなかっただろう。けれどもその頃から眞人はちょっと変わった。心当たりのアオサギを拒絶するためなら他者と関われるようになった。その一環として、眞人は夏子さんを探しに行ったのではないかと思う。

向かった先で横たわっていた母がアオサギに作られた紛い物だと知り、眞人は怒る。ここで眞人は「母さんをこれ以上侮辱するのは許さない」と自分の怒りを明確に言語化できていた。これはきっと自分自身との内省的なコミュニケーションができるようになった結果だろう。
アオサギを追い詰めた眞人は、夏子さんを連れ戻すために下の世界へと連れられる。

下の世界にて

「我を学ぶ者は死ぬ」と書かれた門が出てくる。偏見ではあるが、これを読んで私が真っ先に思い出したのは哲学だ。
これは哲学全般というより、「生」について考えすぎたら死んでしまうというようなことなのではないか。「生そのもの」ではなく「どう生きるか」を訴える本作ならそういうことだったりしないかなと思った。

ペリカンに襲われ、眞人はキリコさんに助けられる。状況が状況だったのもあるが、眞人はキリコさんと適切にコミュニケーションを取れている。
「上の世界は楽しいか」という問いかけに、きちんと自分の感情である「あんまり」というようなことを答えられている。そしてキリコさんと一緒に魚を舟まで揚げたり、捌いたりする。
他者に頼ることだけでなく、他者に言われたことを受け入れられるようになっている。

わらわらが飛んでいくのを、眞人は微笑ましく見守る。キリコ曰くわらわら様はこれから上の世界へ生まれに行くとのことだ。そこで眞人は少しハッとしているように見えた。
わらわらを襲うペリカンを、眞人は止めようとする。眞人にとって過ごしやすくはない上の世界へ向かうわらわらを邪魔しないように言うのだ。向かう先が生きにくいかもしれない世界でも、それでも生まれるのを止める権利は誰にもないということかもしれない。

夜中、眞人は傷を負ったペリカンと出会い、対話する。ペリカンも食わねば生きられず、わらわら以外に食べられそうなものがない。
ペリカンは目の前で息絶え、眞人はそれを埋めることにした。自分が好きではない他者を憐れんで悼み、葬る気持ちがあるのだ。
ここまでのコミュニケーションで、他人を慮る気持ちが生まれていた。眞人は話を聞いてもらい、助けられてきた。そしてペリカンの話を聞いた。だから眞人もできることをしようと思ったのではないだろうか。

眞人にとってウソつきなアオサギと一緒に、キリコの家を発って夏子さんを探しに向かう。眞人はキリコを思い切り抱きしめてお礼を伝えた。他人へ好意を伝えられるようになったのだ。

母、ヒミとの出会い

夏子さんを探す中で、ヒミと出会う。ヒミ曰く「夏子は妹」とのことだ。そしてヒミの焼いたパンは、むかし母が焼いてくれたものとよく似ていた。
この段階で眞人とヒミは互いに、自分たちが親子だと気付いたのではないかと思う。

ヒミに助けられて眞人は夏子さんのいる産屋へと辿り着く。
産屋へ立ち入ることを石はよく思っていないようで、ピリピリと眞人を牽制する。
たぶんここは、眞人が他者、夏子さんの内側へ入ろうとすることを表しているのだろう。心の内側へ入り込む他人は、たいていの場合は喜ばしくない来客だ。産屋への侵入がタブーだったのも、そういうことなのではないかと私は思う。
夏子さんは「あなたなんて大嫌い」といって眞人を追い返そうとする。そんな夏子さんへ、眞人は「夏子母さん」と呼びかける。
眞人はそれまで、子供である自分を拒絶していた。けれどそれを受け入れ、子供として夏子母さんに呼びかけたのだ。
けれどもここでは夏子さんを連れ戻せず、インコに捕まってしまう。

己の隣人を愛する

眞人は夢で大叔父と出会う。
大叔父は積み木を積んでいた。世界らしい。
大叔父に眞人は草原へと連れられる。草原には何か大きな種のようなものが浮かんでいた。これが世界だという。この種は大叔父が積み木を積んでできたものらしい。それを眞人に継いでほしいと口にした。穏やかな世界にできると。
この世界は「心」なのかもしれない。石を見極めて祈り、大叔父が丁寧に作り上げた世界だ。
眞人は石の悪意を見抜く。きっとそれまでの経験で周囲をきちんと見つめられるようになったのだろう。渡された積み木を断った。

夢から覚めた眞人はアオサギに助けられたものの、ヒミは捕まったままだ。ふたりは協力して助けに向かう。
ヒミと再会した眞人は、ヒミによって大叔父の待つ石の草原へと連れられる。
大叔父は悪意のない石を用意して待っていた。
眞人はまた断る。自分でつけた傷に触れ、悪意のある自分はその無垢な石に触れられないと。
石に触れるということは、世界に手を加えるということだ。それは他者の心への干渉でもある。眞人はそれを断った。自分の中の悪意を認め、他者に触れるのを恐れた。自分の悪意で傷付けないよう他人を尊重した。隣人を愛したのだ。

眞人の傷は悪意の象徴だ。それを覆っていた絆創膏は、下の世界へ来たときに剥がされていた。
もちろん剥がしやすかったシーンだったのもあるだろう。けれどそこから眞人の内側が覗くようになったのだ。キリコに頼り、感謝し、アオサギと悪態を言い合い、ヒミと仲良くなった。眞人は拒絶という覆いを剥がし、そうやって友達を作ったのだ。

悪意があっても友達は作れる。その象徴がアオサギだ。
だから上の世界へ戻っても、悪意のある自分でも生きていくことができる。眞人は穏やかにそう主張した。

大叔父は自分の世界を継がせるのを諦め、その選択を尊重する。インコ大王によって大叔父の世界は崩壊していってしまうが、どこか満足そうだった。
本当にただの妄想だが、大叔父も生きにくい人だったのではないかと思う。だからみなが住みやすく平和な世界を作りたかった。けれど自分の世界、心もうまくは扱えない。
大叔父は他者へ解決を願うことになる。それは拒絶されてしまうも、大叔父の世界=心を尊重してのことだった。だから消えるときも幸いだったのだろう。

ヒミとアオサギといっしょに、夏子母さんとキリコと合流する。
ヒミも自分の時間へ戻るという。眞人の「炎で死んでしまうのに?」との問いかけに、「炎も眞人のお母さんになるのも素敵」とヒミは笑う。
これが眞人に提示された「どう生きるかの一つのアンサー」なのだろう。そうしたら次は眞人がアンサーを出す番だ。

眞人の「どう生きるか」

眞人は最終的に、大人になるために「今は子供と大人の両方を思い切りする」というようになったのだと思う。
眞人はもうまるっきり子供ではいられない。母親の死で傷付いているし、自分自身の悪意も自覚している。けれどまだまるっきり大人にもなれない。眞人は子供と大人の間のグラデーションにいるのだ。
そのどちらでもある自分を眞人は肯定した。それはあるがままの自分の存在を肯定することで、そうして生きていくことになったのだろう。

主題歌「地球儀」

米津玄師の「地球儀」というタイトルめちゃいい。歌詞は覚えてないけど、タイトル最高だと思った。映画自体は眞人の生き方を描いた。「地球儀」というタイトルは眞人の生きていく世界を抽象化したもの。そしてそれは私たちが生きていく世界でもある。
映画で描いていることと主題歌が描いていることはちがう。でもどちらも「君たちはどう生きていくか」という問いかけをしている。
映画は観る人に、「こういう生き方がある。なら君たちはどう生きるか」問いかけ、主題歌は聴く人に、「私たちがいるのはこういう世界だ。そこで君たちはどう生きるか」を問いかける。映画本編にびっくりしすぎて歌詞は頭から飛んでいるので、見当違いだったら陳謝。

最後に

本当にめちゃくちゃ面白い映画だった。
説明があまりないが、その分己の解釈を楽しめる。それを誰かを会話したり、認めたりするのもいいだろう。
映像も美しい。動くシーンの躍動感はもちろん、背景が繊細なので静かなシーンにも情感がたっぷりだ。
音も素晴らしい。静かになって風の音が遠く聞こえるときは心をバットで打たれたかのようだった。
映画として素晴らしい出来なので、もしこの感想を読んでいてまだ観てない人がいたらぜひ観に行ってほしい。あなたも「どう生きるか」の問いかけを楽しんでみるといい。

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