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【エッセイ】想いを褪せさせないための「感情標本」
日々を営む中で、ハッとするときがある。私が好きな一瞬のひとつ。
そういった瞬間を書き留めて、私は「感情標本」にしている。
例えば、生理の終わり際、じんわりとだけお腹が痛い朝。私が私を甘やかすのを許せる程ではない、鬱陶しい微かな不具合で。布団から腕を出して身じろぎをした視界に、ただの紙のガムテープが入ってきたとき。
カーテンの隙間から差し込む橙の陽光が降り注いで、ガムテープが私の瞳にうつくしく映った瞬間。
生きていけるような気がした。
家から徒歩10分のドラッグストアへ向かう途中。住宅街と住宅街の境目の道路が見える距離で。使われ馴染んだ横断歩道を渡るあの人の淡く鮮烈な装い。
ただ巻いただけの浅葱のマフラー、その上に佇む光の粒のイヤリング、桃色がかったベージュのチェスターコートの、ボタンをすべて閉めたさま。
ぼやけた彼女のクリアなパステルに恋をした。
仕事帰りのバスの中。窓ガラスに額を預け、反射する私の虚像の向こう。濃紺、オレンジ、薄クリーム、黄色、赤、眩しい灯り。
影が重なり、灯りが乗って、ゆっくり遠くなっていき、また重なる。
オレンジの灯にいつもちいさく絶望して、だから息を吐くことができる。
それを安堵と呼ぼうと決めた夜があった。
そんな些細な、かけがえのない瞬きの間がある。感傷の水面に小石が転がり込んで、水を揺らして波立たせられるのだ。
胸が詰まる。呼吸が忘れられる。残酷なほどの衝撃で、だからその一瞬を抱きしめて永遠にしたくなる。
その一瞬で、世界に生まれ落ちて初恋に殴られ、根こそぎ奪われて失恋するまでを経験している。鮮烈で痛くて慈しみに溢れた一瞬。
その一瞬を少しでも永遠にするために閉じ込めたくて、言葉を拾い集めている。
拾い集めているといっても、言葉はそのまま転がってはいない。
文字はもちろん落ちていないし、目に入ったものをそのまま文章で書き留めても何の形にもならない。
大切なのは、私は何に心を動かされたかだ。
例えばガムテープ。
それに惹きつけられた瞬間の自分の心を、記憶を通して観察していく。
ゆるやかな不調によるぼんやりした不機嫌。
でも、この言葉では抽象的すぎる。
今回は私のための「感情標本」だ。私にだけ感覚と意味が伝わればいい。
だとしたら、不調の原因と程度をそのまま書こう。なるべくシンプルに。
ガムテープに降り注ぐ光がたまらなくうつくしかった。
朝特有の柔らかさ、眩しさ、白さ、弱さ。
思い切り照らされているのではない。隙間から差し込んだ光が細々と降り注ぐのが繊細だ。
紙のガムテープ、これも大事。
布のガムテープより頼りない存在。
色も存在感も薄くて、私に雑に扱われるもの。
そんなものがうつくしかったから、希望を感じた(もしかしたら、紙のガムテープとぼんやり不機嫌な自分を重ねて見ていたのかもしれない)。
そうして書き留めたその「感情標本」がこれだ。
じんわりと生理痛の朝、カーテンの隙間から橙の陽光に照らされて、ただの紙のガムテープがきれいだから、まだ生きられそうだと思った
これを読んだあなたには、もしかしたら伝わらないかもしれない。でも、私はこれを読んでありありと思い出せる。
あの朝の色、まだカーテンが閉められた部屋の薄暗さ、布団の感触、ガムテープが置かれていたカラーボックス、後ろの白い壁。
閉じ込め損ねたものもあるだろう。すべてを正しく覚えているわけではないと思う。
でも、私が恋に落ちて失恋するまでに必要な情報はしっかり揃っている。
これを書いたのは三年以上前だ。私はいまでも、あの日に恋した衝撃を味わえている。
心掛けているのは、感情の標本を作るけれど、感情を詳細に書き留めようとはしないことだ。
私の場合はその感情を引き起こしたトリガーをしっかり書き留めるようにしている。私が私である限り、あるいは当時の記憶を眠った状態でも持っている限り、トリガーを手掛かりに思い出すことができる。
その「思い出す」が「恋に落ちて奪われる」の追体験だ。
私はそうやって、言葉でデッサンをしている。
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あなたもきっと、忘れたくない感情を抱いたことがあるだろう。
そして間違いなく、今後も抱くことがあるはず。
その感情を長い時間を掛けて慈しむために、ぜひ「感情標本」を書き留めてみるといい。
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