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【エッセイ】憂鬱に潜む可笑しさ

 自分自身の元々の性質なのか、物心ついた頃から、憂鬱な気分で日常を送ることが多い。だから、自分には、憂鬱に対抗する為の手段をこれまでに沢山模索し、実践してきたという自負がある。滅多に読み返すことはないが毎年、必ず「憂鬱時の対処法百選」を考えて、ノートに書き記しているのである。
 最近、「2024年度版、憂鬱時の対処法百選」を考えるために、三、四年前のものを読み返した。「これは確かに効果がありそうだな」というものが、我ながらそこそこあった。
 まず「2番、本や音楽などの芸術に触れて視野を広げる」「6番、ファンタジーやお笑いなどの自分の人生に関係の無いものの中に入ってしまう」といった、ある種「逃避すること」によって、現実に希望を見出す方法。これは、そもそも、憂鬱の有無に関わらず私の中では、当たり前の日常の一部となっているのだが、その時の自分は確かに精神が安定している感じがする。
それから「10番、憂鬱に浸れる時間、それについて考える時間があるのは、ある意味幸福者の特権だと考えておく」も、これの考えの正否は一旦置いといて、今の自分には刺さる。
私には思考する時間があり、だからこそ憂鬱も生まれるけど、そこから何か希望を見出す機会も同時に与えられているのだと、受け止められた。
また「68番、自分だから起こった悲劇なのか、誰であっても起こったことでは無いのか考える。自分に原因があると何でもかんでも思い込まない」「50番、憂鬱は捨て切れないけど恥は捨てられる。それだけで背負うものが半分になることを認識する」というような考えも良いと思う。2024年度版にも、継続して書き記しておきたい。
 一方で「これはなんかおかしいな」というものや、どうにかして憂鬱を取っ払いたかったんだなという、数年前の自分の苦悩が感じられて、なんだか笑えてくるものもあった。
例えば「50番、心に嫌な奴が浮かぶたびにボカボカ殴る」「51番、ムキムキになる」「52番、自分を中山きんに君だと思いこむ」という筋肉で解決する方法。やや暴力的であり、怠惰な私には現実的ではない。
次に「96番、自分は元々ウジムシである。本来ならば、日陰や石垣の裏に潜みながらやり過ごしていれば良いのである。なのに、ウジムシ界で優秀すぎて人間にさせられてしまった。つまり、人間として生きていると認められているだけで今の自分は凄いのである」「89番、人間の六十パーセントは水、二十パーセントは蛋白質である。したがって、世界は水と蛋白質の塊同士が争い事をしているだけである」。これらは、ちょっと、無理がある。89番と96番ともなると、ヤケクソになって、なんとか捻り出したのだろう。
「21番、憂鬱の実況中継をする」。これはどういうことなのか。
「さあ、ユウ・ウツヨ選手が勢いよくスタートしました。しっかり腕を振って走ってきます。速い、速いです! 対するももちゃん選手を、どんどん突き放していきます! ももちゃん選手、ユウ・ウツヨ選手に圧倒されて、その場から動けません…。ここでももちゃん選手、周回遅れとなり失格となりました…」とでも、言いながら過ごせばいいのか。おそらく、「憂鬱を面白おかしく客観視しろ」ということなのだろうが、そんなことが簡単に出来る人間なら、とっくに最初からそれとは無縁だ。仮に頑張ってみたところで、ユウ・ウツヨ選手が強敵すぎて、言ってて虚しくなるだけだ…。
 ちなみに100番は「温泉」とだけあった。風呂は面倒くさいから嫌いなのに!

 こんな感じで過去の自分に突っ込みを入れながら、ノートを読み返していると、意図せぬ方向で今日抱えていた憂鬱が少し晴れた。2024年度版の憂鬱時の対処法には、「過去に考えた憂鬱時の対処法を読み返す」を入れるのも、良いかもしれない。

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