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なんというかまぁ

事が起こるまでは対岸の火事。

でも、事が起こってしまえば、自分の側にも飛び火がくれば、火傷もする。
そこから生まれるのがまぁ、怒りってわけですが。


人間って、知性と理性を得た、脳が発達した生き物なのでは?

って、分かってますか?

とか、嫌味でぶっ刺したくなるような世の中になっちゃいました、ね。

まぁ、予想通りというか、なるようになっただけで、前もって分かってたことなのですが。

気づく、だけだと力不足だわwwww

自暴自棄にもなります、ハイ。


どうにもこうにも、力不足

幼くして、自覚出来た頃から、ここが変わりません。
うん、仕方ないのだけど。

正直言って、HSPだなんだどころか、スピリチュアルだろうが、オカルトだろうが、全くもって関係ございません。

目に見えてるもの。
そして、受け取れるもの。
現実から、伝わってくるもの。

それに対して、ただただ、現実に何が起こってるか?を多少なりとも気づけるだけ、です。

とはいえ。

自分には目に見えて気づく。
このライン。

私自身が記憶してない1歳時点。
2歳下の弟を妊娠した母親。
それが発覚してからというもの、
「一体この子は何を感じ取って、こんな行動をしてるの?」
何をどう考えても、言葉でコミュニケーションがまだまだ取れない年齢。
それなのに、
”分かってるから”と言わんばかりに、自分を気遣うわ、家事の負担を考慮して邪魔にならないように移動してる。
それどころか、構おうとして声をかけても、当時の私からの返答は
「ゆっくりしてて」

「私のことは放っといていい、自分で考えて自分で決めて、必要ならちゃん 
 と休むから。」

ガンが発覚したことで、入院することになった母。
うつ病を拗らせて人間不信から引きこもった私。

私の異質さに気づいて35年近くの歳月が流れた時。

私の口から出たのは、まさにソレだった。

と、まぁ、それ以外にも色々あるのですが。

とにかく、感じ方、気づき方がおかしいですし、社会生活が出来てた頃はそう言われるのが常でした。
まぁ、何度と無く記事にしてますが。

正直HSPだなんだってのは。

個人としては、かなり今更な話、だったりします。

人に限らず、環境や、場。
そこにある物、物品だったり、建物であればドアや窓なんかも当たり前。
とにかく、気づくんですよ。
それこそ、環境から網羅せんとでも言わんばかりに、色々気づく。
目や耳が受け取ったら自然と動いてしまう。
「何で、お前はそんなに気を使うのか?」
嫌でも問われてました。

でも。
「え?何のことですか?」
私自身が意に介さずなので、どうしても食ってかかられるというか。
私が何をしたか?を説明してもらうわけですが、
「あー、見えて気づいたから。対処しただけですよ?」

こんな感じです。
だから「普通じゃない、おかしい」そう言われるんですよ。カラクリも把握済み。

相手に取ってはそれが出来ないから。
意識して見たとしても、気づけるかどうかわからない、気づいても対処に到れる自信がない。

そういう部分に「見えたから、動いただけ」
あっさり答えてしまう。

そりゃ、疑問に感じるわけです。
出来ないことを、
「出来るのが当たり前、それが自身の普通というレベルだから」
とか言って、それじゃ…と意に介さず、仕事だ授業だ、部活だに戻ろうとする。
おかしいんですね。
”そうじゃない人からすれば”

でも、それだけなんですよ。

どんなに気づいてても、個人に出来ることって凄く少ない。
非常に限られてます。
それこそ、正しさなんて考えようなら、苦虫を噛み潰さなきゃいけないほど、です。
なので、自然と意に介さないように育ちもしました。

それ故に、あまりにもしつこい人には、逆にこう問います。
「人間って誰しも違うのは分かってますよね?では、違うことが出来てしまうということは?」

貴方が出来なかろうが、知ったこっちゃない、違う人間なんだから。
逆に、私に出来ないことが、貴方には出来てるという所もある。
違うというのはそういこと。

とはいえまぁ、当たり前のようにやってしまった結果、出来てしまってると認められたのに、その異質さからなのか、
「普通じゃない、おかしい」
という言われでは、浮いた個人でした。
幼い頃から、変わらず。

でもねぇ。

出来るのは、気づくこと。
それだけですし、気づくからって特別何かが出来る、なんてことはありません。

なので、HSPという言葉を変に持ち上げてたブームは、呆れすら通り越すもので。
「馬鹿馬鹿しい」
ため息しか出ない、”事象”だったんですよね。

更には。
色々記事を書きましたが。

影響力なんてございません。

感受性が高かろうが、人より踏み込んで気づくことが出来ようが。

どうにもこうにも、力不足、なんですよ。

社会を変える、なんて事に対しては、ね。


人間失格の不適合者(1)

自分下げ、ではないです。
でも、客観的に自身を見つめた場合、そういう立ち位置にもなっていまいます。
そういう事もある。

まぁ、その程度には、そういう人というのも否めません。

小2の時点で、風景画や静物画の色の塗り方、それが異だと言われました。
何故、そう言われたのか?
という部分では、単に周囲どころか、担任に限らず教師、親や周囲の大人、誰しもが、
「同じ色は見えない」
というだけでした。

ただ。出来すぎると言うのは、逆に悪さにもなる、というのはこういう部分からです。
色々言われました。

「そんな色見えるはずがない」
「おかしい、嘘つきだ」
「お前の目って、人間の目じゃないんじゃないのw」
他色々。

見えなければ、そんな色塗らないですよ。
ただでさえ普段は「聞き分けの良い子」なんですから。
「見える色から想像して、色の幅を広げなさい」
という、指定がなければ、意識してやりはしません。
見えたとおりに描くようにという指定の授業だったので。
自身の目に見えた通りに描いて塗っただけ。

でも、明暗や陰影の幅、絵の具を混ぜることでの微妙な色使い、光の影響による色の見え方の差異、グラデーションとでも言うんですかね、そういう部分での色の使い分け。
評価されませんでした。

とにかく「おかしい」

正直、これ。
高校卒業するまで、ずーーーーーーーっと続きました。
色や表現という部分だけでも、これ、です。

見えたものを見えたまま。
表現するだけでも、まちがってる、そんなはずはない、おかしい。
そして、普通じゃない。

更には。
「普通じゃないから、これはダメ。先生の言う通りに修正を…」

(゚Д゚)ハァ?

まぁ、母親ですら認めきれない、でしたから。
仕方ないわけですけど、ね。

それ以外でも「それはタダの嫌味」そう言われたので封印しましたが、

「テストなんか、家で勉強しなくても、授業だけでこなせるでしょ」
こんな感じです。
まぁ、宿題くらいは忘れると、怒りの感情とそのダメージが邪魔なので。
忘れることは多少あっても、やるにはやります。

でも、それ以外はやってません。

というか、出来ないんですよ。
環境からの影響を受けすぎてる、とも言えますかね。

「学校という、学びの為の環境じゃないと、大人しく勉強するなんて意欲が
 わかないどころか、身体が拒否するし、気分悪くなる。」

なので、家では”出来なくなってしまう”という感じでした。

こういうのって、ね。

「あんた、授業受けるだけでこれだけできれば…」
母からは、何度か言われました。
そういう理由から「勉強しなさい」と。

でも、出来ないんですよ。
意欲がわかないどころか、体が嫌がる。
頭の中に感情ではない、嫌悪の感覚が走るのですが、ねじ伏せようとするとストレスになるのか、今度は胃液で胃がムカムカ。
最悪、ゲップで胃液が浮いてきて、クッソ苦い…。

ま、こうなってしまうのも。

自分だからこそ、わかる原因、要素、要因ってのがあるんですよね。


人間失格の不適合者(2)

外に出ると、自然界すら環境の一部。
そうなるからか、色々受け取りすぎてしまう。

幼稚園から、小学校にあがると庭、園庭と校庭の差。
砂の白さが際立ってて、目に痛い、痛すぎる、光が刺さりすぎてクラクラする。
そんな感じで、やっぱり外出向いてない子、でした。

まぁ、幼稚園でも外に出たがらず、別に抱えてた性別の部分。
体の性別で、自分が認識できない=「男の子らしくない」
という理由からの、強制からの引っ張り出し。

辛いし、理由もあるから。
「お願いだから、おはなししよう?お話をさせて?」
語彙力がないので、こうとしか言えませんでしたが。
話し合った上で、自分を知ってもらうこと。
幼稚園児の時点で、母から親や大人以上と言われただけでなく、自身でも自覚が合ったこと。

それ故に、伝えようとしてたこと。

全部。

突き放されてます。
もう一度、言いましょう、重要なので。
子供だからと侮ってるのか、総じて突き放されました。

「良いから、言うことを聞きなさい!」
と、怒られるだけ。

そして。

それらを総じて、既に理解してるからこその。
「聞 き 分 け の 良 い 子」
です。

言う通りにしてあげないと。
大人の方が。
弟みたいに。
我儘を言って暴れるかのように。
怒ってしまう。

話し合いすら。
無駄。

なので、聞くふりをしながら、大人の機嫌を保ってたんですよ。
自分のほうが、気づきすぎる。

下手をすると、顔を上げてそれを目にして無くても、
「何だか妙な感じがするなぁ」
見えない何かを感じ取って、困ってる同じクラスの子に気づけば。
先生の方を見て、動きから、対処が遅れることすら判断出来てしまう。
だからこそ、
「ねぇ?なにか困ってるの?」
声をかけて、フォローをしに行く。

なので、聞き分けが良いだけでなく、面倒見が良い子、とも言われてました。

この辺は社宅住まいだったので、成長に合わせて更に磨きがかかれば、
「生物くんって保母さんみたいね」
面倒を見てる同じ社宅の子のお母さんが言えば、別な方が、
「生物くんは男の子だから…」
「あっ…」
みたいな、ね。
記憶に残ってますよ。そりゃ、性別について自身が把握して行動が出来るようになったのって、小3ですし、それまで悩んでましたから。
まぁ、以降も悩み続けたわけなんですけどね。

幼稚園~小学校低学年までは、この辺への評価って寧ろ、今以上に高いほうです。
家庭訪問でも、当たり前のように言われれば、担任のほうが、助かってます、本当に助かってます、何度も言うわけですから。

まぁ、私としては、家庭訪問後に
「ねぇ、何で気づくから当たり前のようにしたことを、何でこんなに褒めるの?仲良くしようって言うのは、大人たちじゃん」
と、母には質問してましたけど、ね。

そうなんですよ。
どうにもズレるんです。
評価する側と、される側が。

する側にとっては、他の子とくらべても目立って、という部分は時折伺ってましたし、それ故に見本となる生徒扱いをされたこともあります。

でも、される私にとっては、
「だって、見えるし気づくんだもん。手伝ったほうが良いとか、そういうの。それを無視できないでしょ?」
こんな感じです。

言い換えれば、学校という場、クラスや登校時の班という、人の集団として集団を成す環境、とでも言うんですかね。
細かいと、感じられるかも知れませんが、細かくなれば細かい部分から。
その場にあって自分が属する環境から。
いわゆる普通以上に、見取る、聞き取る、感覚的に気づく。
自然とそうなります。

個人として、環境感受性という心理学の概念に、なるほど…したのも、結構伊達ではないというか。

とはいえ、経験談ですし、個人としては感情としての影響に限りません。
環境が醸成されれば、流れも発生します。
例えば学校での授業とか、所属部署での必要な仕事とか。
無機物って表現もそうですが、感情の有無問わず、その環境で必要な対処みたいなのを、細かく拾いすぎてしまうんですよね。

そして、拾いすぎてしまうというのは。

表に出てこず、表に出すと寧ろ悪影響という場合は、必要な対処であったとしても、敢えてやらずに見過ごす、見逃す。
ここまで、明確に区別して実行します。

うん。

まぁ、自分で書いてて、アレなんですが。

本当におかしいんですよ。
気づいた時にはやり終えてる、なんてこともザラだし、周囲に指摘されないと、それこそ”やって当たり前”なので。
気づけ無いんですね。

なので、指摘をされて初めて、
「はて?何でそんな事をしたんだろう?」
と、思い返すと、脳が勝手に処理した内容を提示してくれるので、
「ああ~あれはね」
と、説明も出来てしまう。

それが良い悪いは別としても。

周囲にとっては、異だと感じてしまう個人。
言う慣れば、異分子みたいになってしまうことも多々、です。

更には。
精神障害者保健福祉手帳の交付を受けたので、病む以前のパフォーマンスは出せないけど…と、就労支援A型作業所で働きだしたら、あっという間に、元通り。

私自身:メンタル辛いから無理ができない。

職場:よく気づくし、仕事ができる人、だからあれもこれも(以下略

そして、メンタルブレイクして、出勤できなくなりB型に下げる、と。

ただただ気づくだけという部分を、一体何がどうなってるのか?を把握しないまま、「能力が高い」というのは。

病んで転ぶ前でも、苦だったので。

過去の色々がフラッシュバックするようになり、出勤時間になると、動くのが辛いと言うほどに吐き気を催してしまう。

いやこれ、最初に病院にかかる前、しばらく無理してた時の状態、そのまんまじゃないか…。

から、今に至るわけですが。
何でか運良く、在宅ワークみたいな世の流れになったので、許されてるというのが否めない。
そんな状態で、在宅作業をしながら、四苦八苦してます。


そうあるからこその苦悩

ぶっちゃけ、生きづらいってのは、生ぬるいです。

周囲の都合の良い時には、それは言い過ぎというくらいに評価をされます。

でも、周囲の都合の悪くなると。

とにかくよく気づく、要素は変わらないのに。

浮いてしまう個人なので、あり得ないとか言われます。

「あり得ないって、私は今目の前に居ないの?その私が行動した結果を評価
 したのはどちら様?」

いや、流石に30年近く我慢してたら、言うようにもなりました。

評価したのは周囲。
でも、自分にできないからという理由から、あり得ないという否定に転じたのも周囲。
あり得ない?
「私って、存在してんの?」と、問うハメになったというか、それしかもう手段がない、我慢もそろそろ限界、という時期も数年過ごしました。

それこそ、社会人としても10年ほぼ同じ職場に居て、工場内ですら幅広く顔なじみ。
高校からの付き合いだったりで、長年友人知人として付き合ってきた人たち。

そういう人たちからすらも、頻繁に、
「おかしい、あり得ない」
そして、普通じゃない。

もう、いい加減にして…。

何度と無く説明して、何度と無く否定されても。

何度と無く、現実の中で私が行動を取れば、何度と無くそういう身近な人達が様々に評価をすれば、好き好きに言う。

「何で気づいたの?」
「何でそんなに気を使うの?」
「何でそんなに真面目なの?」
「何でそんなに分かってくれるの?」
「何でそんなに受け止めてくれるの?」

いやさ。
もう、何度も説明してるのに。
自分には出来ないとか。
お前以外に出来る人知らないとか。

もう、止めて…。

ポキン。

心が折れたというよりは、何かわからないものが折れてしまい。

そして、今でも折れたまま、です。

まぁ、その、ね。

正直言うて、場合によっては。
問いかけてるのに、ヘラヘラしてるケースってあるんですよ。

「やっぱ、こいつおかしいわwww」

みたいに。

目に出てますし、隠せないですから。
そりゃ、自身が気づいてないからこそ、漏らしてる。
そして、それを拾うことが出来るから。

図星をついて怒らせてみよう。

頼むから。
狙い通りにならないで…。

まぁ、怒ってギャーギャー騒いでますが、わかってやったから、「ごめんね」
そう言って、説明すると、結構黙っちゃうんですよね。

おかしいってヘラヘラしてた部分で、思いっきり図星をえぐられた結果、おかしさからの打ち明けがトドメ。

でも、出来ても楽しくないですし、したくもない。
それをやってしまうのは、流石に普段は流してても、何度と無く同じことをされてしまい。
ヘラヘラ=見下しが見えるから、なんですよね。

現実が、ね?
言うんですよ?
「いい加減、お前も自分ができることで、好きなようにやれ」
みたいに。

ほんとこう、10年以上付き合いもあるのに、何でそんな頻繁に、
普通じゃない、おかしい、ありえない。
何度も見て、何度も説明させて、何度も問いかけて。
でも、自分には出来ないから。

そうやって。
自分基準で、他人の普通を否定してるから。

未だに、違いすら、扱えないんだよなぁ…。

はぁ…。


言いたいことは、それこそ、山ほど

あるにはあります。
更には、最近は出してます。特にTwitterでは。

でもまぁ、コレでも。
完全に抑えを外したわけでもないんですよね。

外してしまうと、間違いなく、言葉を使った暴力になる。
そういう自覚もあるので、どうしても外せない、言うのをためらう機会はまだまだ多いです。

そういう身からすると。

自由に言うのは構わない。
でも、言うだけでも、~~するという動詞=行動にもなるんですね。
なので、自由の対義語は責任ではない、とはいえ。

何かしら行動を取れば、責任が発生して当たり前、です。

だからこそ。
下手な責任追求はしない
、なんですよ。

何かの切欠で自分に跳ね返ってしまう。
それを避けるには、それこそ、

人としての有り様が、まさに聖人君子

そういう人であら無い限り、責任からは逃れられない。

それが、正しい、間違いというものではなく。

それが、現実っていうものです。
妙な言い方かもしれないですが、現実って時として化け物になりうるんですね。

自分たちが生きてる今、それがもつ厳しさ、なんですよ。

というか、尤もらしい事を述べてるわけですが、ぶっちゃけ自分自身としては、こうありますというのを最後に。


大人になれてない、まだまだ子供

これです。

幼い頃から、否応なしに。
良い子ちゃんであり、それ故の我慢の強制というのは凄かったです。

私はお下がり、弟は体が大きいから新品。
望んでも、洋服を買って貰う機会が少なかった。
未だに思い出してしまう、嫌な経験、嫌な記憶です。

片付けもそう。
弟が逃げるかのように散らかしてでかけたのを、
「何で私が叱られた上に、片付けさせられるの?」

理由もなく、上の子だからお前が悪い!

こういうのも、嫌ってほどされてます。

更には、幼い頃から家の都合。
長男で跡取りという立場。

それについてくる、よろしくないもの。
それが、母に与える心理的ダメージ負担。

わかってるからこそ、自分の分はうまく濁しながら流し、母に向けられそうなものは、幼くても口を挟む。
そうやって過ごしてましたし、メンタル病んでからも酷かったので。
何度か怒りもしましたし。

母がガンになってからの闘病生活では。
「正直、コレ以上なるなら、本気を持って病室に入れないから。いい加減、相手の為を理由に好き勝手、ごちゃごちゃのたまうな。」
「今までの分、総じて切れて返す」

それ程に酷かったですし、いよいよ末期が近づいたという頃には。
力なさげに、涙をこぼしながら。
「ここまで、自分を捨ててでも家のために頑張ってきたのに」
まぁ、切れたのも、コレが切っ掛けというか。
闘病してる母から、聞かされた以上、黙ってられませんでした。

身バレ?
上等ですよもう、マジ切れましたから、流石に。
更には、今でも思い出すと、憤慨します。抑えますけど、ね。

正直言って、可能性だけで言及するなら。
私が母のお腹に居た頃から、聞いて感覚的に、それが何かを理解していた。
というのも否めません。
だから、感覚的でも1歳の時点で行動も取れた、と。

追加で言うなら、物心ついた時点での性別の認識。
そのバグ。
コレも厄介でしたね。
幼稚園で一旦顔を出すも、なんとか落ち着いて小学生に。
でも、上がった途端、
「オカマ、男女」
何をしたわけでもないのに、それっぽいという理由だけで、イジメも受けてました。
相談しても「男の子らしくない貴方も悪い」

いや、物心ついた頃からわかんない。
というか。
やれって言われても、嫌悪感があれば、体が嫌がりもするし、無理に動かそうとすれば、バランス崩してスッテンコロリン。
そこに、痛覚に対しての感じ取り方の違いが表れるわけですが。
「そんなことありえない、言い訳するな、男のくせに!」

自分の体だから。
自分にしかわからないはずのこと。

それら全て。

「否 定 し か あ り ま せ ん で し た」

それでも、自覚が合ったので、苦しくなってからは
「自分じゃない自分、周囲の理想に沿った自分。そうあらないと生きていけ
 ない」
どれだけ否定されようが、どれだけ泣く羽目になろうが、それを学びにして自分に言い聞かせて成長しました。

なので、性別のことなんて、正直言って「自分自身がまず否定しにかかってる」
でも、それが適わないんですよ。
意識してねじ伏せようにも、体が動かない。
頭の中には、強い光を受けた時のような、眩しさによる反応みたいなものまで出てしまう。

それでも、とにかく。

みんなと同じ普通じゃなきゃいけない。
自分で暗示をかけるように、幼い頃はせいかつしてましたし、こういうのは中学出るくらいまで続いてました。

そのせいか、逆に変声期だ成長期だが中々来ず。
2歳下の弟に抜かされて、それをあれこれ言われるわ。
中学校では男子特有っていうんですかね。
「男のくせんにwついてるんだろw」
触られる。

でも、それらも全部、訴えたとしても。
否定しかなかったです。

なので、子供の頃から何も変わらず大人になってしまい。

大人になってからは、仕事での評価が加わり、更に相反する方へ向かったわけです。

何をしたわけでもないのに。
気づいたことで動けば結果が出てしまう。
真剣になったことなんて、ほぼほぼ無い。
自分だから、自分として、やっておくべき、最低限。
それ以上でも、それ以下でもない。

それ故に、時折、
「大人になるって、どういう事なのか?」
と考えてしまいもすれば、哲学みたいな方向に向いたりもします。

でも、今は余裕が無いので、自然と考えられなくなり。
眠りを求めて横になる。
そんな毎日です。

正直、自分自身としては、甘え方をしらないままの子供、なんですよ。

それでも、勝手になんとかなってしまいますから。

そういう部分からは。

「やりたいことって見つからないよね。」
だったりします。
人格形成期やら、成長期やらで、否定しかされてないですからね。

更には、多少は面白いと感じられても。
「楽しいって、なんだっけ?」
という状態にもなってしまってます。

なのでこう、うつ病という診断のままでもあれば。
意識を持って動こうとすると、ちょっとした買い物、簡単な作業、定期的な通院。
「おうぇえええええええ!!」
叫び声みたいに出ますから。

キツイ時は、とりあえず休もう…。
出来なくなってしまうわけです、うん。


辛いの二文字すらも…

えー、正直に申しましてー、
「辛いって、どんな状態だっけ?」
こんな感じです。

どうしても、気づき方とか、感じ取り方が細かいせいか。
幼い頃から、我慢を嫌でもさせられっぱなしという経験もあるからか。

辛いって感じることが少ないです。

「おうええええええええ!!」
と、叫んでしまうのも、無理に動こうとした結果、その時に意識で無理に体を動かそうという状態にもしてるけど、動けない、そのストレスが胃に来た結果。
声が出てしまっただけ。

こういう、処理のされ方なんですよ。
だから、辛いのではなく。
そうなる状態と流れが合ったから、声が出ただけ。

更には、声が出るようになったのも、幼い頃から否定をされるので、我慢する、受け流す、無いことにして誤魔化すという感じで、自分に鞭を打つしか無かった結果、いつしか声が出るようになっただけ。

なので、他人を見てて、辛いんだなぁってのはわかる。

その割に、自分の辛いが実感できない。
それ故に、今でも中々休めず無理もすれば、無理しないで休んでくださいねとも言われてしまう。

更には、どこからが無理なんだろう?

こんな感じです(苦笑)

こういう部分からも、自分自身に、

人間失格。
社会に適合使用にも難ありな、不適合者。

とか、言ったりするんですよね。

なお、疑われたので検査をしてみましたが発達障害ではないです。
そもそも。

幼稚園時点で、寧ろ発達しすぎてて、大人のフォローをしてれば。
「黙ってないでなにか言いなさい!」
幼稚園では怒られてる子を見かけたら、首突っ込んで、代弁する=代わりに言語化して伝えるなんてこともやってましたし。

過去記事にも少し書きましたが。
言語性IQはテストで示せる範囲であって、それ以外の部分を持ってると見受けられます。
言葉の扱い、応対の仕方、伝わり方が異質で、検査がスムーズ過ぎた。
1伝えれば、2ないし3、それ以上伝わってる様にも受け取れたので楽だった。
とのこと。

正直言って、幼い頃から、自覚もあって大人以上と言われた経験。
それを持つ身としては、発達障害って表現や、言葉が好きじゃなかったりします。

だってその、ねぇ。
大人だろうが、全然学ばず成長を見せない人も居ますし。

うまくやれないから、職場からは逃げガチだった後輩。
その後輩の話を聞いてみれば、良い悪い問わず、自分を受け止めてくれる人が居ない、ということに恐怖を感じてたっぽかったので、そこをフォローしてたら、少しはマシになり、出勤するようになりました。

まぁ、私が病んで転げ落ちてからは音信不通ですが。

そういう意味では、ね?

発達にしろ、成長にしろ、止まることってないんじゃないの?
脳の機能としてであれば、そういう分野を取り入れる必要あるのではないですか?
そうじゃないなら、心理、精神面だし、カウンセリングだ、受容や共感によるケアだと思います。

うん。

と、まぁ、脱線しましたが。

他人であれば、辛いだけでなく、何がどうあるのか?を突っ込んで聞き出して。
良い悪いではなく、その時その場、辛さに該当しうる表情、動き、仕草、声、そういう変化も受け取って、
「間違いなく、今の貴方は辛い。誰がどう言おうと、私がその辛さを肯定し
 てやる。だから、否定される心配はしなくていいさね。」
という感じで、真っ向から受け止めます。

まぁ、時折そのせいで、妙な人、おかしい人、不思議な人、色々言われますけどね。

そして、自分の辛い、は。

うーん。
受け止めてほしいと言えば、そうですが。

やはり、相談を受けたり、色々見聞きしてても、誰かを受け止めるだなんて出来る人、出来ない人がいますし、基本的にそう言われる身としても、

「あくまで、突っ込んで話を聞いてみて」
という、判断材料があるが故なので、辛いという二文字をつければウェルカムでもないです。

「いや、それは甘えってだけでしょ?」
そう告げたことも何度かありますし。

なのでまぁ。

受け止めてもらえなくても仕方なし、とも思います。

話を聞いてもらえる、という範囲であれば、通院やその他で得られてますが、これがそうなのかなぁ?とは思いつつ。

結局感情的に言うというのが、寧ろ苦手。
どうしても、説明というか、流れを口に仕出してしまい、それ故に今の主治医には「客観が強いですね」とか言われもしたので。

受け止めてもらえなくても、それは、仕方ないよね。

でも、反面。
幼い頃から=幼いままの自分ってどこかに居て。

受け止めてもらいたいなぁ、というのもやっぱりありますね。


あとがき

さて、あとがきは必要か?と、思ったわけですが。
今回も、どちらかというと、切っ掛けがあって、書こうかなという気持ちが沸き上がったというのもあり。

最後に書いてみようとも居ます。

まぁ、最近は自分としても、枷というか、抑えというか。
いわゆる普通。
それを意識して、気づいたことには触れない、という部分を外してます。
完全ではないですが。

それ故に、Twitterでは、結構ひどい有様。
という、自覚を持ちながら、どうしても言及してしまい。

何でこうなったんだろう?
と、考えることがあります。

まぁ、薄々気づいてたり、自分の中で育ってる新しい何かみたいなのもあるわけですが。

その時、という現実を向かえないことには。
結果は一切わからない。
推測や、予測、多分、おそらくでしか無い。

逆に言えば。

ここ最近も色々起こってますが、

「ぶっちゃけ、起こった後なら結果があるわけで、好き勝手言い放題でしか
 ないわ」

そうなんですよ。
事が起こる前に、何かしらの対処をしておかないことには、事が起こった部分にだけ焦点をあてると、過去への対処にしかなりません

故に、その先では違う対処が必要になる様な。
同じ事態、事件、事故を迎えるし、迎えるたびに騒ぐだけで、対処は他人任せ。
他人任せなのに、善悪についてうるさい。

アカンやろw
草を付けて皮肉にしておきますね。

結局、現実って何重にも重なった、様々な事象、経験の積み重ねであり。
何かしらが起こるというのは、意外と根深い、根本的な原因は別な所にある。

過去を切り捨てる、みたいに言う人いますけど。

今とか、現実って、その積み重ねの延長線なので、過去を見れない人には、今を見るなんて出来ません。

ぶっちゃけ、言う人は時間の流れとは?を理解してない、馬鹿だと思います。

過ぎ去ったものであっても、虐待の経験とかがあれば、犯罪を犯しても情状酌量の材料になったりもするそうですよね。
中には、酷すぎるあまりに裁判の時点で相当に、同情的な世論が発生する事例もあるわけです。

ただ、そういう同情もそうですが、正直言って、

犯罪という悪を責める割に、その時時の気分で、同情という感情を揺らしすぎ。

犯罪が悪だというなら、犯罪を犯した事実については、誰しも同情の余地がなく絶対に悪、です。

なので、量刑の違いがあれど、判決が有罪になる。

うん。

感情を揺らすのって、それこそ、子供のわがまま、駄々をこねる。
そういう様も、感情の現れです。
なので、同じ、同レベルです。
何かしらあると、すぐさま、悪だ!悪いやつだ!とか騒ぐのって、怒りに通じる感情揺らしすぎでしょ?

更には。

理性ってなんだよ、理性って!!

言葉や道具を扱い、知性や理性を持つ、本能だけではない生物。
それが、人間なんじゃないですか?

うん。


正直こう、少年法が、犯罪の若年化がって。


大人が頼りない。
大人がいい加減な振る舞いを見せてる。

なし崩しで、それを良しとしてる環境。

環境感受性。

なるほど、大人が反省しないと、こりゃアカンじゃろ?

と。

言葉は凶器です。
正直、図星を付くどころか、相手が泣いても我儘をこねるので言葉でグッサグサやって最終的に逃げ出した、なんて経験もありますから。

重々承知です。
可能であれば、あまりこう、角が立つ物言いはしたくもないです。

でも、ね。

人間誰しも、子供から大人に成長するわけですし、成長の段階での様々形成が終わるのは、成年未成年以前です。
幼い頃にある程度終えてしまう。

なのにこう、大人が責任って考えないようだと、子供も責任取れなくなれば。
どんなに大人が突きつけても。
言わないだけで「大人だって変わんねーじゃんwww」
なんですよね。

自分自身も子供を経験しとろうのに、これ、忘れちゃうの?と思います。

そういう意味では。
やはり、どこかで、誰かが我慢する必要もあれば、耐えて言うより行動で見せなきゃいけない、とも思います。

でもなー、最初に力不足だわ、って書いたしー。
説得力無いよね-。

気づくからで、そう振る舞っても、おかしいだなんだ言われるばかりだったし。

でも、だからこそ。

便利を得る代償に。
必要最低限の我慢、を失いすぎではないでしょうか?
ってのを、言うくらいな事は出来ようかなぁ?とも思います。

便利で楽。
生まれた時点でそれがあれば、そこがスタートラインだし、もっとを望みます。
そうすれば、その次の世代は更に。
でも、楽ばかりで、世の中成り立たせるには、無理がある。

また、個人としては。

政治だけを責めてれば良い。
なんてのは、結構前の段階で終わってると思いますよ?
それなのに、それしかしらないから。
それしか出来ない。

やり口を変えない、保守だよねぇ。

それでは。

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