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それは感情論ではないので

HSPって言葉は心理学での概念。

なので、実際は学術的な内容という感じで、感受性についての色々を解説する内容なんですよ。

心を軽くするとか、楽になるとか、辛い自分を云々では無いんです。

で、別に学んでたり、学士取ってるわけでも無く、高卒のパンピーでも、そういう扱いしたら困るからいい加減止めて!ってくらいに酷い。

都合の良いおもちゃ、じゃないんですから、そんな勝手に心を楽にするとか、そういう物じゃないんですよ。

と、突いてると、そういうつもりはないってのが出てくる言葉として思い浮かぶわけですが。

そういうつもりどころか、他者をケアする、人を助ける難しさわかってねーでしょ?

ほんと、上辺だけで、やれやれなんですよ。

という事で。


何がどうあっても、最終的には自分自身

悩みだろうが、メンタルだろうが、症状だろうが、最終的には自分自身なんです。

治療や、ケアについても、どうしても出来ない、技術的な問題や現実としてどうしても立ちはだかるものってある場合もあります。

完治したという状態に全部が全部なればいいですけどね。

でも、逆にそうあるからこそ、研究ってのが継続されて受け継がれてるんですよ。

うん。

相談やカウンセリングにしても同じ。

あくまで解決の為の一助にするだけであって、最終的に色々判断するのは相談してきた側、クライアント側なんですよ。

だからこそ、個人として相談に乗る際は、最終的には自分って事を強く言い聞かせるだけでなく、そうあれないようなら相談に乗らないと突っぱねます。

また、カウンセリングなんかも、受容や共感もしますが、カウンセラーもクライアントも、それぞれが一方無いし相互で依存しないように注意するもので、その為距離感は必ず開けるはずです。

それなのにもう。

酷いですねぇ。

メンタルケアラーみたいな仕事でもないし、そんな仕事ないのに、なんでそんな優しいだけ、心地いいだけで、一時の安心やそのための誤魔化しにしかならない言葉をホイホイ口に出すんですか?

っていう。

わたくし、喪黒〇〇です。心の隙間、おぅめしまぁす。

何かのセールスマンですか、ほんともう。

それは、優しさではなく、甘やかしですよ。


HSPって結局は

心理学上の概念なんですよ。

で、概念って何かって言うと、

一般的に人が認知出来る事象に対し、抽象化・普遍化を行い、思考の基礎としての思考作用を促す物、です。

HSPでいうなら、

感覚処理感受性が高い人は、どのように、どんなものを、どんな風に感じ取ってるというのを、色々データを取ってそれによって普遍化=一般化して、そういうちょっと抜き出た感じ取りをする人が色々言われてしまうので、HSPという概念を作りましょう

そういう事だと思います。

だから、敏感で繊細とか、繊細さんとか、生きづらいなんて概念に入ってないんですよ。

概念を誰かが解釈しただけの内容です。

ほんとね。

感じとり方が違い過ぎてて、おかしいくらいにある

そういう認知をしていながら、自分と同じじゃないからと、否定だなんだとネガティブを嫌でもぶつけられるんですよね。周囲どころか、出会う人その他大勢という程に色んな人から。

話を聞かない、自分の言動に責任を持てない、正に無責任。

ちゃんと日本語で、言葉にして、しかも単語で区切って意味や解釈の一致まで確認しても、自分と同じじゃないからそれはおかしい、っていう謎発言されるんですよ。

特に何も無ければ、私の方が抑えてるし隠してるので、普通に見られもするんですよ。

ただ、相談に乗るに限らず、相手の話を聞くという状況や、教えるという状況だと、明らかに目に映ってて、耳に聞こえてて分かるというくらいにあるので、自然と出てしまうんです。

そうしたら、自分以外が勝手にざわつくんですよ。

学力や運動能力だけでなく、身長や体重という体格、同じ血を分けてても兄弟姉妹で性格も考え方も違う。

そういう当たり前に違う内の話なのに、そういう違いだけは認めない!って言わんばかりに扱われるんです。

なので、メンタルも病んだというくらいで、何もかもが信じられなくなって引きこもってた期間が数年あるんですよ。

それが少し落ち着いて来たかと思えば...

はぁ。


感じとれる物の中には...

影響や刺激という表現なのはわかります。

感じとるってのは五感を通してなので、光や臭いは刺激になりえますし、音や声、人の感情なんかは影響されもします。

これは誰しも同じなんですよね。ただ、HSPっていう概念になると、あらぬ方向に行くみたいな概念で。

個人としては、感じとってる物には相当な量の情報がある、認識しています。っていうか、実際にそうあらないと、相談での色々や教える際の色々の出来すぎておかしいって部分が出来なくなるので。

また、生きてる以上感じ取らないと無理という物以外は、日常の中で連続的に受けてるんですよね。

なので、個人としてはカウンセリングで「自動思考も相当に働いてますよね」って言う指摘は、実はされて当然という感じでもありました。

だってその、ねぇ。

感じとった刺激、影響、情報って脳に送られて処理されてるんですもの。

だからこそ、自分の仕事に集中してるようで、周囲を把握してサラッと流れ作業の一環で補助したりしちゃうんですよ。

気を遣う、真面目というのも、イチイチ立ち止まらなくても色々感じ取ってて脳が処理してるから、自然と行動を起こしてくれるだけで、周囲がその様にそういう概念を当てはめてるだけ、なんですよね。

そうある自分自身としては。

そういう、おかしいだ、ありえないだ、自分と自分たちと違うという他者に対しても、こういう概念があるんだよって説明すれば、なんとか分かってもらえそうな概念でもあるんです。

嫌って程長年苦しめられたし、結果として病んだり引きこもったりして、ようやく再度自分で立てるようになって歩き出したからって...

ふざけんじゃねぇ!!

この一言なんですよ。

でね?

脳で処理って書いてますよね?

感じとってるだけだと、影響や刺激、情報ってのをホント感じ取ってるだけで、それが脳に送られてるって事すらい、常に感じ取って脳が処理してるくらいです。

敏感だ、繊細だ、生きづらいだなんて、個人の感情や感想なんてのは、その脳の処理が終わった後に表れる物です。

感じとってる影響、刺激、情報がそうあるんじゃないんです。

っていうか、こういう区別すら出来て当たり前じゃない?

出来てるからこそ、他者、その他大勢からにわかに信じがたい物になってしまい、否定されるってね。

正直、このくらいに自分自身の中で完結して答えが出てて当たり前とも思います。

だって、そうある様を抽象化・普遍化して、思考の基礎としての思考作用を成す物なので。

まぁでも、自分でもまだまだ完全に受け入れ切れない位に、おかしいんですよ。

普通に見えてる、の時点で、何でそんなに色々受け取ってんの??ですからね(笑)

一人だけ浮いちゃうんだもん、そういう部分で。


あとがき

正直ね。通院してても、臨床心理士の先生に軽く引かれもするし、主治医もとうとう余りの有様に大変ですよねって感じでね。

薬を飲もうが休んでようが、そもそもが過剰に色々感じとる受け取るし、キャパオーバーして動けなくなるまで我慢してたら、キャパ壊れましたって状態だったのが、精神的に病んだ時の最初の状態で。

なので、病む前の様に、無理や無茶、過剰な我慢をしてたけど、元に戻れない苦しさってあるんですよ。

感じとってしまい過ぎるが故に、相当な客観的な判断も出来てしまうから、自分の感情すら誤魔化す事すら出来てしまう。

それでも、それが自分の普通だからって受け入れも出来てしまう。

そのくらいにあるので、善悪や正誤、ポジティブとネガティブなんかも、目の前に映ってる物以上に、その背後が反転してるのも気づきますし、反転してるのも自分への甘さから来る無責任さが原因とかすら、感じとってしまいます。

上辺だけで上手い事言ってる人程、あっさり見抜くんですよ。申し訳ないけど。

でも、見抜くって言っても自分の中での話でしかないので、何がどうあってどうあるのが、良い悪いみたいに言及も普段だったらしません。

HSPって概念は、そういう意味では今の様な誤解は避けてほしいし、違いが分かってるのに、違いを否定するっていう周囲の矛盾は、経験すると相当な物ですよ。

相手の言い分はこっちは嫌でも深い所まで分かってしまって、普通レベルが過剰って言われるくらいの配慮が自然と出来るのに、相手側は配慮だけでなく話を聞く時点でそれ以前ですから。

だから、HSCっていう、子供でもそういうレベルにある=親や大人でも扱いきれない、当人は幼いからこそ猶の事という状況は、自分だけでもう沢山なんですよ。

相当な経験値にもなりますが、等価交換と言わんばかりのツケや跳ね返りで苦しんでるのが現状ですしね。

また、ね。

こういう部分があるからこそ苦労したし、幼い頃に自分じゃない自分になるという感じで、積極的な自己否定という、悪い認知意味での認知行動療法を自分で自然とやってたくらいです。

それでも、扱い切れる物じゃなかったし、時折爆発して家を飛び出たり、元ヤン体育教師が気合入れて大声で呼びかけないと意識がプッツンしたまま暴れてるなんて状態にもなりましたし。

社会人1年目で、職場についても嘔吐の連続ってくらいでしたが、うつ病どころか、まだまだ根性論と気合の時代だったし、真面目なお前が悪いなんて言われてました。体調崩してるのにそれです。

そういう部分も良い悪い、正しい間違いではなく、自分が自分としてどう向き合うか?で乗り越えてきたし、なんだかんだで乗り越える為の助けになってるのは、間違いなく感受性としての感じ取りです。

全部は無理でも、余りにも過ぎてておかしいと受け入れるだけで、個人感情の正しい間違いに囚われず、拘らず過ごす事もできました。

ただ、それは無理をしてるだけでもあり、ストレス感じてても敢えて無意識下に押し込めるという感じだったので、精神的に病んだ、と。

ストレス発散した方が良いよ?

そう言ってくる側が、自分と違うが見えた途端、ネガティブぶつけて過剰にストレス与えてくるって、どんな矛盾なんですか...ってくらいに酷いんですよ。

おおよその人と違った物を持ってしまう事って。

ふう。

まぁ、ね。

そうは言っても、感受性自体が誰しも持ってる物で、正規分布曲線みたいに中央で山になるかのように分布する物かと思います。

なのでHSPって概念があったとしても、その中でも必ずバラつきがあるのも当然で。

とはいえね。

人に当てはめる物でも無いし、人が当てはまる物でも無いし、あくまで人が持つ感受性という部分を切り取っただけという、人が持つ一部分についての話なので。

その辺は、ね。ちゃんと区別して使わないといけないと思います。

ぶっちゃけ、人を助けるなんて、相手が失敗したら人生丸被りでやるくらいの覚悟持っての事ですよね?

ってくらいに、難しさが分かって無さ過ぎなんですよ。

カウンセリングも終わればクライアントは自分で歩く必要が有る。

患者が完治しても、退院すれば、その人も自分で歩かなきゃいけない。

そういう当たり前を見れない程度で、人助けなんて、寧ろネガティブに反転するからやめなはれ。

そもそも、そう言うつもりがあるなら医師、少なからず看護師くらい目指しなさいよっていうね。

最後にチクチクやりつつ。

今回はこれにて

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