見出し画像

ため息が出ちゃう

フヒー(鼻息) こうか? byコアラ

さて、そんなコアラさんはさて置いて。

はぁー。

掘り下げというか、突き詰めというか、追及、分析、解明、検討、

そういう部分が不足してますのよおおおお!

はぁ......。

とりあえず、どう書こうかなんてのは、書きながら考えましょうかね。という事で。


あくまで個人的に

言葉に対しても、すごく感じ取りやすいというか。

文字その物に感情が乗ってるなぁってくらいには、簡単に読み取れてしまいます。

うん。

まぁ、自分も制御出来てるかといえば、完璧じゃないので言えないという部分はあるのですが、感じとりやすいからこその注意してる部分ってあるんですよね。

note記事なんかにしても。

例えば、HSPに絡んで何かしら否定になりそうな時は、物申すと冒頭で書いてみたり。これって、ワンクッションになるというか、物申す=人の受け取り方次第ではただの文句になりかねない事を言ってるな、と前もって把握してもらう為、みたいな狙いがあるんですよ。

あくまで一例として、冒頭に書いてる事をあげましたが、もうメンタル病んでるくらいで、書いてても眩暈だなんだ起こす事があるので、どうしてもきつくても言いたい!って事はキッチリ書きますし、それでも個人的という感じで、感情的になってる私も悪いんですよっていう少なからずの部分も添えてたりします。

口で言おうが、文字でこっそり書こうが、同じような物ってくらいに感情=ぶっちゃけ、何かを悪いと言いたい、それで自分は正しいと言いたい、そういう部分すらまでも感じ取ってしまうんですよ。

そういう意味では、自身が書いてる事って狙いだらけの、トラップだらけだったりしますが。

受容や傾聴が出来る人でも、もう過ぎてるとか、相当に超えてるっていう感じ取り方してるせいか、書いてて伝わらないだろうし、矛盾してる様に見えるんだろうなぁ、と自分で他人事のように書いてる記事を眺めてたりもします。

うん。

そんな感じで、書いてる中でも余程の部分以外は感情は切り分けてたりします。

意識してやってても、完璧には出来ない。日常生活では、感じとってるレベルが違い過ぎてて伝わらないだけでなく、突き詰めていったら「感受性が高いんだね」って相手がもうそれ以上触れられませんってなってしまうのも経験してるので、受け取り手次第で変わる、人によっては感情が強く揺らされる事で、否定したくなるだろうなって感じで書いてたりします。

なので。

こういうのは、意味が無いみたいな事をドヤ顔で書いてる人なんかは、ハオ様になっちゃうんですよね。シャーマンキングの。

ちっちぇな。って。

感受性として感じ取り方が違うというのは、あくまで感じ方が違い過ぎてて良いも悪いもを経験するし、その分自身が思わない形で良い人悪い人になるというのも散々経験してるって意味でもあるので、

これが正しいとか、マジで言ってるわけではないんですよ。

寧ろ、否定される事こそOKというか。そこから、正しい間違いなんかは取り払って話し合ってみましょうよ、ってくらいだったりします。

何がどうあれ、言葉を交わして話してみない事には相手は理解出来ないだけでなく、その中で思いのほか自分にも理解が及んでなかったって気付けるんですよ。

だからこその話し合い。正しい間違いなんてのは、いくら言葉で取り繕っても根底に感情が関わるのですごく邪魔です。

意識したくもないし、自分に嫌悪感覚える程、邪魔だ物だと考えてます。

個人的に、ですけどね。

全肯定します!とか、全肯定してあげてます!みたいな、してやってるんだっていう相手を下に見てる言い方なので、気を付けた方が良いですよ。

はぁ。

否定もするし、だからこそ否定される事もウェルカム。

嫌な物、苦手な物、不快に感じる物に気付きやすいのが人間なんですよ。なので、寧ろネガティブさすら、どんとこいくらいないと、発信とか物申すとか出来ないんですよね。

肯定だと話し合いが発生しないまま、真意を間違った形で受け取られてしまうだけですし。

否定し、される事での話合い、意見交換ができた方が建設的だと思います。


清濁併せ呑む

個人的に、この言葉をよく使うのは、良い悪いだけの話でもないんですよ。

対になるもの、行き着くとこまで行けば、有と無すらも等しく同じとして、考えるというかそんな形です。

人間が居なければ、無なんて有る事が出来なかった。人間が言葉を使うからこそ、有も無も文字や言葉として形を成し、有る事が出来るようになった。

どちらも同じく等しく、人が居なければ自然や動物には知り得ない物だったんですよ。

という感じです。

ただ、対とはいえ性別だけは、問題が多いのでキッチリ切り分けますけどね。

こういう切り分けをする部分で辟易してるのが、自分が当事者でもあるトランスジェンダー=TとLGBTQのごちゃ混ぜ感。

トランスジェンダーの体が男性の人がアレコレ声を上げて騒ぎにはなりましたが、これはLGBTQの問題でも無ければ、トランスジェンダーと言われる人の問題ではなく、個人の問題です、よっと。

同じカテゴリにされてても、考え方が全然違う人が居る。

それなのに、声高に叫んだ人がとりあげられたからと、それを十把一からげにして、LGBTQって言ってるのは、間違いだし、誤解の元なんですよ。

認知による間口の広がりって、当事者ではない人が必ず入ってくるので、実情を知らないまま広がるという悪い側面があります

そこを考えてなさすぎなんですよね。現在っていうか、現代っていうか。

こういう話は、それは何故?みたいな、想像力だったり、思考が働かない受け手も多いと思います。

メディアが悪いと言うのも分かるし、個人としてもそう言いたい部分も強いですが、スマホの登場で爆発的にネットが普及して以降は、受け手の至らなさも悪い所があると考えてます。

感情のままに発言、行動してる。その感情が絡むから、理想に拘って悲喜こもごもする。

メッ!したら、やだやだって駄々こねる子供みたい......って感じで、冷めた目になってたりもしなくもないです。

そして、冷めつつも感情を持つ人間なので致し方なし、深くは追求しないでおこうという感じで、こういう文章を書いた折に少しだけ、考えてもらえれば良いなぁという狙いの元書いてたりします。

多様性とか、人との違いを考えるだけ無駄とかいう人は、一度考え直した方が良いんじゃないかなぁ?

正しい間違いないは関係ないって言ったところで、無駄=やるのは間違ってると言ってるのと同意と受け取られてしまうので、正しい間違いが物凄く関係してるじゃんって感じで草が生えるんですよ。

切り分けきれてないですよね?みたいな。


相談という話

キッチリ切り分けるだなんだって話から、何故相談の話になるのか?という感じですが、これって凄く重要なんですよ。

その重要さを抑える部分が、清濁併せ呑むという所です。

さて、最近はよく「相談上手と言われ相談を受けてた」という事も書きましたが。

この、相談上手というのはあくまで周囲の見立て、周囲の言い分です。実は自覚が伴った事ないんですよ。というか、掘り下げたところで、感受性の部分があるというのが判明しただけで。

ただ、その感受性の部分って自分しか分からない、自分が感じてる物、受けてる影響などの話なので、話しても伝わらない部分があるし、周囲の見立てとその実際である、相談上手と言う方を選んで自身に当てはめてるだけ、だったりします。

「相談したいって言うなら話は聞くよ。

その上で、私も言いたいこというだろうし、否定も肯定もすると思う。

でも、私が話した内容は、あくまで私個人の考えだから私が思ってるだけ、感じてるだけっていう狭い世界の話。私が話した内容で正しい間違いを判断したりしないで、自分で必ず考える事。

自分で考える=あの人が言ったから、じゃなくて、あの人にも言われたけど自分で考えて自分で納得して自分で選んだって言えるほどに考える事。

最終的に選択や判断をするのは、私じゃなくて相談した相手だからね。

相談って結局は話して話されるだけの事だから、最終的に自分で向き合って解決に向かって行ってね。」

これ、相談受ける際の決まり文句というか、口上というか、必ずやる注意点です。

そして、これに対してノーというようなら、相談する意味が無いので受けません。

というのも。

相談の時に話した事を、正だ誤だと勝手に持ち出されたあげく、解決に向かった先で衝突して、相談に乗ったあいつが悪いなんて想像に容易いんですよ。

また、ノーと言わなくても、自分の正しさに固執して、同意や後押しの意見を求めてるだけだと気づいたら、即座に切り上げるか、正論ハンマーでフルボッコして周囲から「えげつねぇ...」ってドン引きされるか、どちらかに転びます。まぁ、だいたいが切り上げるで事なきを得てますけどね。

自分で考えようとしてなくて、誰かに頼ろうとしてるだけとかも分かりますし。感覚的に、なんとなくだけど。

まぁ、なんとなくとはいえ、相談ですから言動でモロバレしてしまうわけです。

という感じでね、相談してる相手に対して何をするという事ではなく、話して話されるだけなのが相談なので、自分と相手の切り分け、区別をキッチリやる必要が有るという話でした。

正しいとか、間違ってるとか、こうした方が良いなんてのは、話を聞いた上でアドバイスをしてるという行為で、相談に乗ってると繋がりはありますが、相談にのる、アドバイスをするというのは別な物でもあります。

というのも、仕事上の先輩として目にして気づいたから、その行為は危険だよと教えに行ったりするという経験を持つ人も居ると思います。

こういう感じでね。

相談を受けなくても、アドバイスってするし、出来るんですよ。

なので、相談はあくまで相談。アドバイスはアドバイスなんですね。

で、感受性の部分だけでなく、こういう切り分けや区別をきちっとやって、相手に少しでも利やら得てもらう物が発生するように、そこには自分の主観の絡みを可能な限り極力抑える、というやり方をやってたのもあって、相談上手と言われてたのかな?とも思います。

まぁ、こういう部分の悪さとして、感謝されても受け取らないっという部分があります。

実際問題として、解決するのは相談者自身なので、解決できたのは相談者自身の頑張りの結果であって、相談はその助けや支えにしかなりません。なので、その分だけの感謝なら受け取るよって返す事も多いです。

こういう部分があるからか、周囲の見立てを使わなきゃいけない程度に、相談上手って実感がないんですよ。

ほんと、話を聞いて、話をしてしてるだけだし、話をする内容も相手に気付いてもらおうとしてるのが殆どですしね。


言葉の意味

何をどう書いていこうかな?と、思いのまま書いてたら話が色んな方向に行ってる感じがしなくもない。

でも、まぁいっか。

まぁ、相談の話から、相談とアドバイスの違いを書きましたが。

こういう言葉の意味って、似たような事だからとか、なぁなぁの関係性とか色々な部分が絡んで、ごちゃ混ぜになってしまってるのも、現在、現代の状態かなぁ?と思います。

それ故に、HSPも感受性の話にならないというか。

感情をごちゃ混ぜにしてるだけでなく、繊細さんが心地いいからと、踏み込んだ話を無意識で避けてる様に思います。

そう言うのって、言葉の意味だけでなく、言動や文章の構成として「何に着目してるか?」みたいな部分から、分析出来たりもするんですね。

なので、以前少しだけ「リテラシー=読解記述力」の話もしました。読解も記述も言葉の意味を知ってないと、曖昧さを過分に含みますし、そこを指摘されたらアウトなんですよね。

ただ、そこを感情的になって言葉で暴れる人が増えてる、とも思います。

正しさを言う割に、自分に対しても全然目が向いてないので、言葉の使い方や意味に配慮出来ず、全くもって感情任せな言説してるだけっていう何とも矛盾した姿をさらす事にもなりますし。

言葉で表現しようとしてるのに、感情が絡むと途端に感じ取りやすくもなるので、リテラシー以前の問題かも知れない......って考えたりもしますけどね。

そして、こういう拘りの部分て昨今だと、発達障害と混同されがち。

でも、実際は自分と相手だけでなく、世の中や世界中にも目を向けてますし、雑多に情報拾って、色んな物を知ろう得ようとしてるので、全く違うと思います。

また、カウンセリングや、ウェクスラー成人知能検査でも、

「1伝えたら、1以上の5や10まで読み解いてる、受け取ってる様子が伺えます」

という感じで、伝えた以上の内容を言葉から拾ってるとも言われましたし、何でそんなに気づけるのか?という部分で、それは感受性が...と話しますが、その中にこういう言葉の意味や解釈、何故その言葉で伝えられたのか?自分がこう受け取ったのか?という感じでね。

拘りが自分だけに向いてるのではなく、自分以外の他者や世の中っていう外にも向いてるんですよ。

で、こういう部分は普通に社会人してた頃に、お前に頼むのが一番楽だから、お前が一番信用出来るから、お前に任せると安心出来るから、こういう部分からも仕事や面倒事を任されるという形で抱えてましたし、その分仕事が増えるわけですから、期限付きの場合期限に間に合わせるのが社会人として普通です。

こういう部分もあるので、真面目過ぎ、頑張り過ぎだなんて言われても困るだけでなく、そう言ってくる人達も見てるし、違う指摘として「そんな状態で不満はないのか?」とかもされました。

そう言われても元は周囲が嫌がって仕事を引き受けないのが発端だし、かといって不満は不満、仕事は仕事、やるべきことをやるのが会社員であり、社会人。だから、こなすだけなんですよね。

だからその、何ていうかさぁ。

言いたい事を言うのは良いんだけど、そういう言い方、そういう言葉の使い方をしたら、相手にどう刺さるのか?は一歩立ち止まるべきじゃないかなぁ?って思います。

それを、感情の爆発と勢いでやってしまって、即座に正誤だ、善悪だにすり替えて相手を叩くっていうのは、イジメとかわんないんですよ。

イジメをしてるつもりはない!

じゃないんです。

イジメだって、ハラスメントと同じでされた側、受けた側の話の方が持ち上がりやすいじゃないですか。

だから、つもりはないなんてのは、ただの言い訳にしかならないんですよ。

で、つもりはないなんてのは、言葉の意味や使い方に対する配慮=自分を守るための配慮を露見させる事にもなるので、そんな自分すら守れない人が正しいだ間違いだ言えるわけがない、と個人的に思います。

自分すら守れない人が、権利だ、差別だ、誹謗中傷だって騒いで、それで困ってる人を助けられるわけがないっていうかね。

なのでまぁ、都合よく言葉を捏ねて、とか時折冷たく言い放つんですよ。


まとめ&あとがき

ふおー。

なんかこう広がり過ぎて、いきなりちょん切った感じの尻すぼみぃ!

になりましたが。

言いたいことを言うには言ってますが、これでも抑えてるんですよ。分かりづらいかも知れないですが。

なので、日常生活の方ではこういう抑えだけでなく、感情的な言説からも結構ダメージを受けてるので、休んでる事も多くなってきてます。

もう無理だ、って感じで、受け流しすら出来なくなると、ホントネット自体も触れられなくなりますしね。

そもそも、人が言った事だけでなく、五感で感じ光や音、時間の変化で発生する気温の動きや、人の動きの変化も感じますし。

夜すらも静かじゃなければ、深夜でも相応に工場地域が近いせいもあっての、空気への音の振動とかも聞き取ってますもん。そして、意識せずとも聞き分けてるというか、記憶としてストックされてしまう=そういう風に脳が動いてるんじゃないかなぁ?も発生してるくらいです。

だから、日中だろうが時間を問わず、思わぬタイミングで意識を失うかの如く眠るなんて事もあります。

抗い切れずに無理矢理意識を落とされるという感じで。

こういう部分もね。そうそう経験してる人が居ないので、勝手な憶測で遊んでるだけとか言われたりもするんですよね。

憐憫、侮蔑、的外れの嘲笑

いわば対岸の火事 燃えるまでは熱さ分からず 燃えてからでは遅すぎる

この世界で なんびとが罪を犯さずに生きられるというのか

SoundHorizonの澪音の世界という曲にある、Jimang氏の語りの一説ですが、この部分がね、すっごく刺さるんですよ。

周囲から受けて来た色々、それはもう仕打ちとすらいえる程に相手主観で好き勝手されましたし、自分たちは感じないからで、絶対悪みたいな扱いすらされてますからね。

この前段階に「百聞は一見に如かず 千聞とてまた然り」という部分がありますが、これも経験としてされてる側だと、一見すら経験には敵わないよねという、少し物悲しくもなるような現実を垣間見てしまいます。

自分がされたからというだけでなく、してくる側も、何かしらストレスや鬱憤を抱える生き方を強いられてるので、自分だけが辛いのではなく、それぞれの立場、それぞれの人が見えないところで、辛さは抱えてると気づく事すら容易いです。

こういうね、自分も辛いだけでなく、見えないだけで相手も辛いというのは、傷つけられたという現実に対して向き合ってたからこそ、の部分もあるので、必ずしも感受性だけで感じ取ってるというわけでもなく。

要は、気付く。自他ともに何かされてる、言われてる事で、その裏側に気付くというような感じも否めないんですよ。

文章を書く上で煮詰めて言葉にしてますが、その時その時で感覚的に、はっ!って感じで裏側も感じ取れてしまう。

それが行動や言動の元なので、違いが過ぎて、感受性が高いんだねって言われてしまう。

説明しようとしたら、違いが浮き彫りにはなるものの、人の感じ取れる気づけるという部分は誰しも持ってる物なので、その差を取っ払えば感じ取りが過ぎてようが「個人の感じてる普通」に置き換えると皆同じともいえるんですよね。

だから、HSPだなんだは殊更持ち上げる物でもなければ、生きづらいだ、繊細だ言っておもちゃにするような概念でもない。

そういう風に言うんですよ。

視力の差で遠くても、よく見える、見えないっていう差があるわけですが、そういうのと変わらないんです。

そして、視力=視認は強く人間に働きますからね。差の実感が容易なだけです。

で、感受性はそうはいかない、目に見えない、言葉にしても伝わらない、実感がないからと相手基準での否定を相応に受ける物でもあります。差を取っ払えば皆同じなんだけど、実感が無いから差を取り払えないんですよ。

そういう実感しにくい差だから、自分だけでなく、他人や世の中とも向き合って扱う様な物です。

そうやって、自分と周囲だけでなく、目に映る、耳に聞こえる、残ってる物なら歴史的な物からすら、人間を感じとる。

これも言葉にしたらこうなるだけで、意識してない自然体や、地、素という状態でやってしまうんです。

そして、そういうレベルまで言ってれば、生きづらいだ、繊細だという、人をラベリングしたり、差を持たせようとする言い方はしないんですよ。

特別じゃなくて、普通の人、普通の人間ですからね。

と、長くなりましたが。

最後にもう一回。

ため息がでちゃう(笑)

ちゃんちゃん

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?