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言語化することの難しさ

何をするにしても、言語化って結構難しいものだし、自分以上に言語化出来る人に出会うと、途端に自分の言説が崩されかねないという事もままある話かな、と思います。

特に、感がはいる言葉。

これって、相当に注意しておかないと、あっという間に主観だけになって言ってる事がすごく怪しくなるし、違和感をバッシバシと感じさせられてしまう。あくまで個人的に。

また、自分自身が言語化したとしても、即座に

これ、表に出して良いのかな…?

という感じで、そもそも自分が言葉にして打ち出すかどうかすら、違和感感じてしまうくらい。これまた個人的に。

なのでこう、ブログだろうが、記事だろうが、言語化する以上注意が必要だと思うのです。

今回はそんなお話。


あくまで個人の場合として

自分自身での言語化は、単純に取捨選択と言う部分で自然とちょっと待った!をもう一人の自分がかけるかのような感じで、一瞬で頭の中に、

ちょっと待った!

が、発生してしまし、そこから色んな事を考える事になります。

また、自分自身で取捨選択したり、考え直したり、そういう言葉が浮かんだのは何故か?と考えられるのでまだいいのですが…。

他者の分だと、即座に気持ち悪くなる感覚が襲ってくるんですよ。

吐き気までは行かないけど、なんかこう頭の中が気持ち悪くて、それ以上考えたり直視してるだけでも吐きそうになる。そんな感じですかね。

そういうのを感じてしまうからこそ、そこから踏み込もうとして考えた結果、打ち返したら自然と揚げ足取りにもなりかねない。


こんな感じで、他者から感じた違和感すら、主観的にそれは何故か?何を感じたのかというだけでなく、相手はなんでこんな事を言ってるのか?をやってしまうからこそ、言う言わないの判断をした上で、言わないという選択を取る。

こういうのって、時折相当に我慢してる姿を晒すことにもなるので、別な人が周囲にいれば、

なんかこう我慢してない?体調悪い?

と、心配する声も聞かれることになる、と。元々偏頭痛だ、過敏性腸症候群だと別な要素で痛みや気持ち悪さと戦う姿、我慢する姿を普段から見せてるんですよね。

そういう私のよりパーソナルな部分を知って、見聞きしてを積み重ねてる知人、友人が居るとどんなに隠そうとしても、どこかでバレてしまうんですよ。

そして、そうある状態を真面目だ、気を遣いすぎだと、より距離感が近い人が言うからこそ、それを受けて距離感が遠い人すらも、真面目だ、気を遣い過ぎだと言ってくるわけですが…

自分では既に言語化出来てる分、私にとってはそれは違うぞ?になってしまう。


言葉の意味や解釈

これについては、個人の様々な部分が絡んでくるので、総じてそうとか、一般的、普通とかは実際は使いづらいどころか、使えないゾと個人的には思ってたりもします。

というのも、言語化出来る出来ない、のレベルも関わってくるというか。

出来た上で、自分自身の物すら違和感を感じたら、払拭しようと調べたり、考えたり、イメージして想定=先々の可能性を追う、なんてことも自分にとっての当たり前、普通レベルでやってしまいます。個人としてね。

なので、言葉の意味や、その解釈すらもカウンセリングで言われた、

「現実を深いところで見つめ過ぎです」

という様子を見せもするし、そういう判断をしてくれたのが、成人知能検査で言語性IQの結果と、数値化出来ない部分もあること、自身がやり取りしてみて伝えた以上に把握してると、評してくれた臨床心理士の先生だったりもします。

自身が相当にもがいてたからなのか、自然と巡り合わせてくれた、みたいな。

HSPに限ったことではないのですが、言葉の意味や解釈、解釈と言っても自分が発した事で、受け取った他者がどうあるか?みたいなところまで、掘り下げられてない人が多すぎだなぁ、とは常々感じてます。

HSPでいう、敏感や繊細も、それ言うのは良いけど自分で証明できるのか?

それも、一般的とか、普通とか、よく言われるとか、本に書かれてるとうい他者に乗りかかる形ではなく、自分の意見であるからこそ自分でしっかり固めて自分なりの言葉で言えるのか?というね。

HSPだってHSPって括ったところで個人差があるし、下手すると自分以上の感じ取りが出来る上級ってタイプがいるだろうな、って事くらいあっさりきづかないの?ってくらいに、うかつというか、大して言葉が理解できてないというか。

記事を書くにしても、現実にあった物事を書くのではなく、自身がHSPだと書いてしまえば、記事を書く上での下調べに、相当に深い自己理解も必要なんですよ。

そうじゃなければ、揚げ足を取られるから。

言葉の意味なんかも、意味だけを追うのではなく、言葉によっては一般的にどういう受け取られ方をするのか?とか、自分の記憶の中からこういう事を言うとこういう反応をするというパターンとの比較とか、そういう色々を重ねないと、撃ち抜かれるんですよ。浅い=薄いから。

レビューって評論や批評って意味だけど、お客様の声みたいに一般からの感想だ批判だなんかも含むんですよね。

それに対して、個人の感想だからレビューじゃないです!キリ!してた人を見かけて、いやそれが一般的に言うレビューなのですが…

ってポカーンしちゃったりしました。

それ程に、言葉の意味だけでなく、それだけじゃ足りないので解釈を交えてたら、こんな感じで物凄く文字や言葉を並べることにもなるんですよ。

で、個人としては自分が正しいとか思わないし、幼少期の経験から他者が勝手に自分の正しさ基準で叩きに来るってのを散々やられたので、自分の正しさなんて拘らず、正しくも間違ってるもある曖昧な状態にして、読んだ、何かしら受け取った人に判断してもらう、と言う感じにしようとしてたりします。

こういう記事だって、コミュニケーションとしての、言葉のキャッチボールみたいな側面もあるので、余程でない限りはそうあるようにするし、突くにしても自分の経験なり記憶なりのバックボーンを出して、自分はこうだけどどうですか?というね。そう受け取れなくても、書いてる側としてはそういうスタンスで書いてます、という状態だったりします。

それでもね、伝わらないし、理解もされない事も多いんですよ。そうあるからこそ、幼い頃から言葉に出して言おう物なら親ですら受け止めず即座に怒ってたたきに来るのが日常で。

そして、それは個人差があるから当たり前。

だからこそ、言う言わない、出す出さないの取捨選択もするし、その裏では日々色々感じ取ってるだけに、それを自分で掘り下げた分の更新も発生してる。同じことを話てしまうというのは、何も拘ってるのではなく、自分としての言葉の扱い方を実践してたら、自然とそうなるって感じです。

というのも、一気に出したところで、書き方や言葉によっては相手の感情を刺激するので一気に出すほうが悪手、かつ無駄ってことも多いんですね。

言葉の意味や、その解釈を知るだけでなく、それによる推定や可能性の模索なんかも含めて、言葉を扱ってるのも昔から当たり前です。

それ程に、難しいもんなんですよね。


言葉とイメージ化

そういう意味では、言葉を知るだけでなく、扱うことでの想定なんかはイメージ化や想像力がないと出来ないかなぁ、とも思います。

こういう部分は、私自身も元がそれなりだったとしても、幼い頃から文字や言葉に自然と触れようとしてたんですよ。

小学校に上がってからは、母が持ってた文庫本=小説に興味を示すだけでなく読んでましたし、母からは、

「あんた、そんなの読んでも読めない漢字があって、読めないでしょうに」

と、呆れられなくもなかったのですが、それに対して漢字は教えてくれればいいからと、喜々として文庫本を手にとって読んでました。

ほんとこう、幼い頃から本が好きで、本の虫って程にのめり込む方だったんですよ。読んでて頭の中で湧くイメージが、実際に目にする大河ドラマや時代劇みたいにワクワクさせてくれてたので、すごく好きだったんですね。

まぁ、そんな感じで、自然と幼い頃から言葉による表現と、それが自身にもたらすイメージ化と言う部分から、好きこそものの上手なれもやってしまってたというか。

もう少し成長しないと、そういう言い回し、言葉の扱い出来ないんじゃないの?を本を読むことで取り入れてたんですね。

それが小学2年生の頃には、少年探偵シリーズを当時の担任が子供でも楽しめるからと教室においてくれてたので、更に加速してしまうというか。一気に読破するだけでなく、何度も読み返してこれまたおかしな子、変わった子扱いされる事にもなってしまうという、ね。

そんな感じで、6歳、7歳くらいから自然と触れることで強化されてました。

ただ、こういうのも得手不得手があるので、親や教師が望んだとしても、そうなるならないはありますし、今では発達障害なんかの原因に言語化が難しいのではなく、出来ないというタイプも居るというのが判明してるので、そういうのが良いからと、情報を真に受けて大人が押し付けようとしようものなら、反発する子供も居て当然というのは、もう少し知られてもいいんじゃないかなぁ、とは思います。

得手不得手の根底には、個人として持ってる部分がどうしても合わない、だからこそ嫌がるっていうね。子供の場合、そういう反応ってストレートだと思うので、やっぱり観察って必要だと思います。

こういうのは、自分の場合だと、人の感情が発する見えない何かなんですよね。多種多様な人がいる程多くなりますし、それ故に人が多い所では、体調に少なからずの影響があるので、避けてしまうと言うことにもなります。

また、幼い頃は、幼稚園に通うレベルでもそうあったので、入園式からしばらくはすごく反応して、半狂乱みたいになって泣いてたんですよ。ただ、経験も知識も足りないので、圧倒的に語彙力が不足してて、

よくわからないけど怖い

としか言えなかったんですね。親が感情的になって怒る時に受けるものを、雑多に感じ取ってしまってたので、他者の感情の漏れ=怖いしか言えなかったんですよ。

感じ取って体調に影響を受けてたのも、感じ取ることでのイメージ化もありましたし、そこには感情的に怒られるシーンがあって、ただただ人の多い所にいるだけで、それがイメージ化されてたけど言語化出来てない=怖いとしか言えてないってのを晒してたという感じです。

ただ、それに慣れて以降は持ち前の感受性によって、良いところは良いし助かるんだけど、大人にとって都合が悪いものという形での悪い部分として発揮されることにもなるという。

教える側に立つ大人が矛盾しようものなら即座に気づいて、何で?って突きに行ってましたからね。それだけでなく、子供なりに言葉を使って説明するもんだから、説明してるうちに徐々にイライラしたり、子供のくせにって怒りを募らせてるなんてのも感じてますし、それでいて感じ取ってそこに気づいてるなんてのは見えもしない態度で物言ってましたから。

なので、幼ければ幼いほど苦労とか、大変さ、生きることの難しさを嫌でも感じ取ることになるって事を訴えるし、だからこそHSCというタイプだと思うなら、子供を注意深く観察して、親としての正しさばかりで対応しないでくれって言うんですね。

そういう部分からも、HSPってちゃんと知ってくださいよ、マジでってなってしまうんですよ。

って、言葉とイメージ化からすごく逸れたようなそうでもないような。

まぁ、幼い頃から好きでやってた本に触れると言う行為には、言葉とイメージ化による部分がありました、ということで!


成長する上で見え始めたもの

見え始めたというのは、自分で言うなれば”正しい、間違いという部分に拘らない”と言う部分。

そうあるからこそ、自分に対しても自分の言い分は自分のものだし、個人のものである以上そこに正しいも間違いもクソもないというのが当たり前になってきます。

それが周囲に取っては、真面目すぎ、人が良すぎ、気を遣いすぎ、と言う感じで自分を殺して他者を上げてると言うふうな受け取られ方もされるようになる、と。

まぁ、他者主観での正しさだけで、一方的に間違ってるだ、おかしいだ、ありえないだ、普通じゃないだ、色々言われる割に、そうじゃない時は普通の枠にはめようとされてしまうっていうね。

話を聞け=言葉を受け取って、と言うことを何度と無く説明しても、受け取らないからそうなるだけでしかないのに…と内心モヤモヤしながら育ってきただけでなく、未だにそうあります。

そういう部分もあるので、主観だ客観だにも触れるようになったんですけどね。

真面目だとか、大人だとか、そういう言われも、知らずとも自然と主観と客観の使い分けをしてたし、客観が出来るようになると、自分の立場を離れて相手や他者の立場に立って物を見ることにもなるので、言われて当然でしかないっていうか。

記事化することで文字にすると、意識してやってそうな印象にもなるのですが、ホント自然とやってるので、なんでそんなに相手に気を使うのか?ってのには、相当に混乱もするんですよ。

そういう気を遣いすぎてる事には普段気づいてるのに、自分の立場が危うくなると、

「もっと気を使え!」

何いってんですか?はぁ?を他者がやってくれるし、そういう人ばかりに出会ってるので、目が点にもなる、と。

こういう感じで、感受性が高いって言われてただけでも、兎に角違うのが目立つようになってきてたんですね。だからこそ、嫌でも自分の普通がおかしいだ、真面目すぎだ、なんだかんだ言われてモヤモヤするし、言われる時ってそういう自覚が出来ないだけで、感情をぶつけてきてますからね。

ストレスなんか捌ききれないのが当たり前なんですよ。

だから、生きづらいもクソもないし、そういう物を持ってたら向き合わなきゃいけんよ?とも言うわけで。

生きづらい生きづらいって呪文みたいに唱えて、定着させんなよ、ふざけんな?なんです。

当たり前レベルで発生するので、受け入れる、流す、発散すると言う感じで自分で対処するしかなかろうもんよ。散々言葉にして訴えてきたけど、他者は変わらないし、それどころか悪化の一途が世の中から見えててため息しかでないんですよ。

捌けようが、捌けなかろうが関係ないし、自分の身って最終的に守れるのは自分だけだから、他者に知ってもらうことで自分の負担減らそうなんて甘い甘い。

何をどうしたところで限界はやってくるし、その限界の先に残ってるのは、自分自身しか無いんですよ、ってね。

こういうのももう、高校に上がる頃には出来上がってたし、それから社会に出てからは、あーやっぱりそうなのね、でしか無かったんですよね。

多様性って自分が認めてもらう為だけのものじゃないですよ。


HSPだなんだについて

現時点では、まだ研究が続いてるし、それが形になってもされ続けると思います。

それをね、現時点での都合の良さだけで、語ろうとしないでおくれ。ホント真面目な話として。

個人として、敢えて”感じ取る”という表現にしてるのも、感じるだけだと周囲も同じ様にあるという部分から、敢えてそう使い分けてるんですね。そういうのも見て、感じ取って把握してるからこそ、口うるさくもなる、と。

感の付く言葉。

感想、感嘆、感じる、感激、共感、他色々ありますが、感って付くと主観と客観というか、自分にしか目が向かなくなりもするので、そういう部分は冷静に対処出来なければ行けないんですよね。

自分にとって、ではなく、自分を含め自他共、みたいな。

個人としては、何がどうあれ対処出来なくもないですが、ブームによってできた流れは、正直邪魔です。

主観多いし、自分にとって良いものとか、受け取りて側が学んでない、学べないから成長しないと言う状態のままで、受け取ろう、扱おうとしてますし。

それを既に感じ取ってたので、最初はやんわり、知ろう、学ぼう言ってたんですよ。敢えて、視線や視点を下げて、同じ様に学んでみないかい?って感じで声掛けというか、提案して立って感じなんですけどね。

でももう、それも叶わないなら、持ち前のモン見せてやっからみたいな上から目線にもなってしまったっていうか。

正直、臨床心理士って資格取得の手間が大きい=指定の大学院、ないし大学院相当での学びってあるので、そういう人と色々やり取りすれば分かると思うんですよ。

本がどうとか、その程度では証明しきれない部分を、心理学として大学院まで行って学んだ人=プロとも言える人にやってもらうという感じで。

HSP専門っても、どこまで専門的に突っ込んでるの?っていうか、人間心理としての部分を掴めなければ相手が出来ないタイプなんですよ。それがカウンセラーって資格でできるかどうか?ってのは、合わせて臨床心理士って無ければ、ちょっとこう胡散臭いんですよね。ぷんぷん臭いますよ。

そもそも、まだ研究されてる上で、診断基準がない=プロが研究だ、論文だ、審議だってやってる過程であるから基準がないのに、

なんで専門を謳えるの?その根拠は?

そこに、アーロン博士の名前出したところで、当人と相当にディスカッションして、煮詰めてるんでしょうね?そこまで責任持ってやってますよね?みたいな。

というか、提唱されていこう、様々な方が論文上げてたりするので、アーロン博士どうこうではなく、相当数の研究者とすり合わせもしないことには、専門にはなりえないっていうか。

専門って、言葉の意味わかってます?みたいな。

研究者そっちのけで、論文だけ使ってたら、研究者側の深い部分を知れないままになるのは明白なので、限られた範囲で研究する、分担としての持ち前とするっていう、専門って言葉が形骸化するんですよ。

ほんとこう、言葉に対して使うだけで、言葉に振り回され過ぎでしょう、人間たちよ、みたいなね。(中二病おつ)

あくまでカウンセリングを受けた個人だけの感想ですが、臨床心理士の先生とのカウンセリングって、一部は攻防戦や互いの読み合いみたいな部分があったんですよ。

そもそも、元々の部分として色々アリすぎたし、深く探ってもらえないままの一方的な物言いって現状ではダメージが大きすぎるので、自分のほうが小出しにして探りながら、だったんですよね。

カウンセリング受けた時って、本当にもがいてて、藁にもすがる思いだったし、そうあるからこそ相当に慎重にもなってたから、そうなったって感じで。

そして、臨床心理士って、スクールカウンセラーとかでも条件で入ってたりするんですよ。それこそ、ハローワークにある求人でもそういうのを目にしてますし、ネットで調べててもほぼほぼ入ってたし。

児童、学生の相手をするにしても、プロの腕前として、臨床心理士が求められてたんですね。まぁ、少し前=数年前ですが。

そういう意味では、HSPについて知ろうが知るまいが、心理学のプロとしてカウンセリング受けるなりで評価をしてもらえば、自分でも相当になるほど出来る話をしてもらえるので、相談するには臨床心理士を持った方が一番ベストだと思います。現状ではね。

また、個人としては、経験と実感を得られなければ、こんな話はしません。これって言いかえればカウンセラーだけだと、専門って謳おうが不足してるっていう言い方にも捉えられるし。

それを、経験や実感を元に自分で対処をする=発言に責任が持てるようになるまで話さないですよ。それこそ、当たり前で。

それを本で学んだ程度で、実践や経験、実感が伴わなければ、ね。

大したこと言えてないって事にもなろうかな、と思います。

要は机上の空論、なんですよ。

言うなれば、HSPだなんだを触れるのは良いけど、本だなんだを読んだにしても、自身の経験と合わせて話をしないことには、学んだところで活かせもしてなければ、経験もしてないですよね?

って、ぶっ刺すしかなくなるんですよ。個人として、ですけどね。


あとがき

ほんとこう、学生時代の自分が相対しても、打ち返せてしまうというかなんというか。

はい、予想通り痛い所突かれて、怒りましたねー

ってのが、見えてしまうというかなんというか。

そういう意味では、幼稚園児の時点で大人相手に既に図星ついたり、建前の裏の本音を突いてたってのも、自分で一体何でそうあったんだ?って思いもするくらいです。

感受性だけで、収まるのかな?というのが、少し悩みどころというか。

なんでそんなに気づくの?なんでそんなに分かるの?っていう、相手からの反応も、内心を読まれてる感じがして気持ち悪いよ、ってニュアンスも感じてなくもないんですね。

これはもう、言葉だけでもそうあるだけでなく、実際に相手が目の前にいれば相応に感じ取れますし、一瞬みせる仕草なんかでもあっという間に気づいてしまってたりもして、笑いながら、冗談めかしながらでも、気持ち悪い(笑)というのも、何度と無く経験してます。

話すだけで色々掴めてるのは凄いし、安心もするし、カウンセラーになれば?とか言われもしましたけど、流石にね。

相手によっては、受け取ってしまうものが悪くなって、それで自分が病む姿というのが一瞬でイメージ化できてしまったので、やらないって答えもしたんですよ。

感じ取る、気づくって、状況によっては、相手を読んでるという受け取られ方もしてるのですが、相手としてもそこは認めたくなかったり、否定したかったりで出して来れないっていう、心理的な攻防をしてるなぁってのも見て取れるんですよ。

なので、「何でかなぁ、自分でもよくわかんないけど、前から出来てて不思議なんだよね。」って敢えて濁して、相手に不安を与えないってのも、相談を受ける中では相当にやってました。

安心してもらうためにも、やるのが相談なのでね。不安にさせたり、疑念を抱かせたり、疑問を持たれるような行動や言動をやったら、負けなんですよ。

そういうのを、学がないだけでなく、「高卒のパッパラパンピーでーす!ひゃっほう!」って馬鹿を敢えて挟んだ上で、周囲にいる人に「こんなだけど確かだからw」って言わせて、相談を受けるとかもね。状況にあわせて自然とやってたくらいです。うん。

面と向かっての相談って、それくらいに相手から相当に感じ取れてしまうんですよ。

そして、それが文字だけになりがちなネットでも、「あ、これはアカンなぁ」って触れて話を聞いたりしたりする事もあるのですが、やっぱりこう真面目とか出来る人みたいに言われることもあって。

そこにあるのは、言葉や文字なんですよ。という、部分をちょっと掘り下げてみようとしたら、凄いことになってしまったうわー!

というのが、今回の内容ですかね。

ということで。

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