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物音で分かるほどの注意力

人間どうしても、どんな人でも、他者が音を立てる場合に気づきやすくなる。

とはいえ。

そこから学んで、物音を立てないように注意を払うタイプ。
それこそ、他者とのふれあい、兼ね合いという部分から、という理由からそうするタイプ。

そういう人と。

自分が出す分には気づかない。
でも、周囲が出す分には気づく。
というか、気づいた時点で既に怒りを抑えきれずに表に出す。

人を見る、という部分で、少なからず「客観的」に見れるようなら、ね?

そういう部分や、差に気づけるので。

と。
何がとは言わないけど、そういう事ですよ。


余りにも注意が行かない家族

今は、家を出てますが。
二歳しか差がないので、弟も良い年した大人ですが。

子供の頃から変わらず、部屋のある二階から階段を降りてくると。
ダン!ダン!ダン!
注意が行き届かないから、自分の体の体重移動、荷重の調整をしないからこその、足音を立てます。

でも、言うと怒るんですよ。
しかも、バツが悪いからか言った相手が「うっかり音を立てた時」を持ち出してお前も同じだ!と。

単に階段を降りるだけでなく。
上がる時は「怒ってるの?」と。
他者からすれば、怒りの発露とも思えそうなほどに、ダンダンダン。
ドアなんかも、開けっ放すだけでなく、勢いを付けてるので、ガン!

ドアを開けっ放すという部分では、父も同じです。
そもそもが「力の加減って知ってる?」と言わんばかりに、窓ですらも、勢いを付けすぎて物音を極端と言うかたちで立ててしまう。
それを日常的にやってしまう。

でも、注意をされると、即座に怒る。
それこそ衝動的。

そして自分が言われたから、言い返そうとして。
普段物音を立てないから指摘されない。
寧ろ「気づくでしょ?」と言っても、”気づかない”というほどに、音が聞こえてない。
なのに、指摘されてバツが悪いと、普段は聞こえないという相手の、立てる物音を引き合いにだして、お前も悪い!と怒り出す。

父の場合、最悪な事に。
誰かしらの訪問がされてないと、トイレで用を足してる時に、ドアあけっぴろげ。
なので、ドボドボドボという音が嫌でも聞こえてしまう。

でも、注意すると・・・。
いちいちうるさい。
家族しか居ないから良いだろう。
と言って聞かない、これがもうウン十年続いてるんですよ・・・(苦笑


ぶっちゃけ病院に行けば

まず、疑われると思います。
うん、発達障害を。

日常的にそういう感じで、自分がやってることにすら、他者を不快にさせてる部分がある、という所に注意が行かないどころか。
日常的に音だけでなく、態度もそうあるので、相手に不快感を与えるだけでなく、ガマンしてるなんてのは到底気付け無いんですよ。

とはいえ、まだ、外に出れば問題はない。

友人知人から、そういう苦情が来て、アイツは家でどうすごしてるのか?と聞かれることはないので、まだマシかもしれませんが。
下手すると、アイツはああいうやつだから、と周囲が慣れてしまってるので、苦情が来ない可能性はあります。

父なんかは、ね。
評判がいいからと、幼い頃の私を連れ歩いて、弟は母に任せて。
周囲に「これが自分の子供だ!」と、自慢しにいったらまぁ。

あまりに同じ反応をされすぎたので、幼いとは言え私の記憶に残ったほどに、
「鳶が鷹を生んだ」
「余りにも真逆、本当にお前の子供か?」
と。

普段、どの様にあるのか?を観察してないから、連れ歩いた結果、職場の人からそういう、ね。
性格というより、見せる性質。
他者を気にせず、成功体験を元に、職場の人にも強く出る父。
周囲を気にして、相手の様子を伺いながら行動してる私。

それが「目に見えて明らかだから」と。
父をからかう職場の人たち。

それ程に差があるのに。

「お前も俺と同じ、変わらない」
というほどに、気付けないだけでなく、自分にとっての都合が良い部分しか記憶することすら出来ない。

結構、お粗末なんですよ・・・。

しかも、幼い頃からそうあるらしく。
「いくら注意しても、悪いことを学習しない」
だから、近所でも有名な悪ガキだった、と、父方に帰省すれば近所の人からすら話を聞くことになるわけですが。
父がいる場でそれをやられると、親と同じ程の年令の人でも、相手の立場なんて知ったことじゃねぇ!と言わんばかりに怒りを即座に爆発させる。

何が、「親を敬え、年上を敬え」ですか・・・。
最悪なことに、過去にそういう経験をしてるので、自分の親=私から見て父方の祖父母はアイツ等呼ばわりだし、自分を悪く言ってばかりだから、知ったこっちゃない、兄貴がいるから自分が合う必要はない!と。

客観的に判断が出来ないほどに、注意力が働かない。
結果、とにかく真逆と言われる私が生まれたのもあって、帰省をするととにかくバツが悪い。
でも、そういう行動を過去にしてたのは父自身、なので自業自得。
でも、即座に感情が動く衝動性も持ち合わせてるので、向き合えない。

もうね、いい年してるので病院いけとはいわないですが。

幼い頃から、こうあったので、母は凄く苦労してたし、それを4歳、5歳時点で見て「何がどうあって、親が喧嘩してるのか?」を把握してた私が隠れてこっそりというように、骨をおるようになる。

まぁ、母の後悔という部分では。
私と母という関係性だけでなく。

真逆側にいる、父や弟も関わってきます。

今回はまぁ、一度出してみようか、と言うかたちで出してみましたが。

実際には、記事に書いてる以上に「結構深いところが隠れてるのも、現実」なんですよね。


なぜ、家族としてやってこれたのか?

そういう部分も、母と私の関係性というか。

母の不満や愚痴を受け止めるだけでなく、そもそもが似たタイプなので、自然と共感が発生してたのもあって、母の愚痴を私が受け止めてた。

こういう部分はあります。

ただ、これが逆となると。

幼稚園児の時点で「親には出来ないレベル」
それどころか、まさかそんな・・・という形で、1歳時点での自分の話しを聞かされるほど。
その頃から既に「見て気付いて学習する、そして対応する」が出来てた私という感じで。

出来るラインを越えた分は「相談すらも叶わない」
幼い時点だと母にだけ話す、でしたが。
成長する段階で、逆に差が広がる=伸びてしまう方に行ったので「話せなくなってしまいました」

とはいえ、こういう事を話すと、機能不全と。
判断され言われそうなのですが。

それに対して、明確な根拠、そうなる経験を持つ以上、指摘したのが医師だろうが、相談に乗る仕事をしてる人だろうが、
「私が打ち返してしまうことも可能」
です。

そうなんですよ。

通院してても「あまりにも見ないタイプ」と言われるも、だからこその言及をしたら、医師の方が先に感情が揺れてしまうんですよ。
多くの人と違うというのに、多くの人と同じにならない様が、ね。
「障害になってしまってる」

まぁ、それ程にあるだけでなく、それ故に、家族の関係性を分析した上で、それぞれのやりたいことに配慮をしてたのが、私、と。

なので、自分を緩衝材とか言うんですよ。

しかも、こういうのは本人すら気づいてない。
話が出来る母なんかは「そんな事きづいてるからって、アンタが気を遣うことじゃない」とはいうのですが。
「なら、おかんが対処出来るの?」
と、返すとNoが返ってきます。そうあるので、
「だから、私が気遣ったほうがいいでしょ?」
と、追い打ちをかけることで、それ以上母が言えない状況というものを。

それ程に気付いて、普段から気づかれないように、手を回してたからこその言及をもって。
変な話「気を遣わなくて良い」も、引っ込めさせて、全体を含めた対処という部分では、私が気を遣うのが最適解と納得させる。

機能不全だろうが、そんなの、言われなくてもわかってるレベル。

それどころか、親だろうが、大人だろうが、それ程に未熟な部分を持ったまま大人になり、家族を作ってしまうだけでなく。

対処できなくもなるんですよ。

だって、感情があるわけなんですから。

こういう部分に機能不全ってつけるのは良いですが、それはあくまで。

「そういう環境に居なかった人たちが、実態を知らないから言えてしまうこと」です。

何でこんな言葉作って言い出したのか。

こういうのも、多様性、皆違って皆良い、というのと「真逆」です。
個人から言わせると、ね。

あまりにも過ぎた気付き、感受性というもの。

それは、母親から指摘されただけでなく、普段の生活の中で。
幼稚園だけでなく。
社宅で、子供同士で遊んでる状態、そのそばに少なからずどこかの親がいる。
そういう環境から、「何でこの子は気付いてるの?」
そういう、気付いたことが驚きになるようだと、言う事変わるよね?大人って言うけど、それ程に普段はきづけないんだよね。

幼稚園児の時点で、そうやって。
口には出さないけど「大人って偉そうにしてる割に、私みたいに、きづけないよね」というレベルの私が居て、家族という部分だけでなく、それ以外も含めて。

感情というものを感じ取って気づくから。

対処してた。

だって、家族は大事なんだもの。
自分は苦しんでたケドナー。

それは、私は気づけるけど。
他の人は気付けないから「仕方がないんじゃよ」
それは、私に大して理解のある母ですら、及ばなかった。
それどころか、死を覚悟した時に、後悔すらするほど。

同じレベルに至るのが無理。
そう言われ続けてるので(苦笑


感じれる、感じ取れる=気づける=対処可能

深い処理だ、共感だいわれるのも、そりゃ当然。

相手側が、それを感じられないから気付けない。

それに対して、気付いてるだけでなく、明かすと「感情揺らして、怒りになるのが手にとるようにわかるから」明かさない側の在り方。

それこそ「明確」というほどに差があるんですよ。

でも、その差というものは、人の善し悪し。
成績なら頭がいい。
体育ならスポーツ万能というもの。

それ程に、家族だろうが、そうじゃない他人だろうが。

細かい所を感じ取れるから、気づける。
気付けるから対処ができる。

個人としては、そういう人の感情の機微だけでなく、自然環境についても、とにかく異質。
光を受けやすいから、圧倒されてすぐ眩しいというのに。
絵を描かせれば、色使いが明らかに違うというほどに、グラデーションなんて点在してますが、「当たり前に見えるから」と。
良い悪い問わず、表現してしまう。良い悪い=作品としての良し悪し。
細かい所を表現した所で、毎回評価されるなんてことはござんせん。
でも、普段からそういうところが違う、「細かすぎる」と評価されるほど。

なので、”環境がよくて伸ばしてもらえたなら”、そりゃクリエイティブな仕事に就いてた可能性は大いにあります。
でも、現実はそんなに甘くはない。

あまりに全部言い過ぎると、ね?
「教師が怯えるような表情」を見せるんですよ。
そこから。
「あちゃー、やりすぎてしまった」と。
良い部分であっても、「適切に評価ができる指導者」に出会えなければ、悪い部分にされてしまう。

それを、地というか。
そんなの現実でしょ?当たり前でしょ?と言うほどに経験してます。

そういう色のグラデーションや、そういう部分にある細かい差を指摘すると、十中八九どころか、100%じゃないですかねぇ・・・ってほどに、ね?

見えない=「目がそれを感じ取れない、感知できない」

こう言われてばかりなんですよ。

見えてるからこそ、表現できる。
目という部分は、そういう「見取る」という要素も持ってます。

でも、表現した所で、私には見えるけど、指導する側が「見えない」と言う。
それだけでなく、更に細かい部分を様々に上げだすので、「抑え込まれてた」のが現実です。

小学生の頃から、出来てしまうのが大人の想像すら超えてる。
でも、想像を超えてる子供に対して、海外みたいに「飛び級」という概念を持たない日本では抑えつけられかねない。

だからこそ、ね?
「適正に評価ができる人」が居ないことにはダメだ、と。
「日本はまだそういう所が劣る部分として、年齢に関わる、年功序列というような、年上の方が出来るはず、が根のように蔓延ってるから」

そして、そういう部分があるからこそ、何かにつけて。

「大人が」「子供が」になってしまい、特殊な個人を評価できなくなるんですよ。

そしてこれ、今だから、ではなく。

「今までは、言うと、お前はおかしいって否定されるだけでなく、同世代ですら抑え込みに来るから、”言えなかったこと”です」

HSPという言葉を知るだけでなく、”研究され続けてる”ということも知っただけでなく、その時点で研究所で仕事する研究員という、ね。

経験もしてたからこそ、良い悪いはあるけど期待できる、と思ってたら。

何でこんな事になんてんの?
マジ日本オワッテル

HSPだからじゃねーですよ。

本当にそうあるなら、自分はすごい!ではなく。

世界は広いから、自分以上が居るだろうし「研究者に任せよう」なんですよ。

だから敢えて触れずに。

大っぴらに報せると。

必ず悪用する人がいるから。

目に見えないところの立役者=研究者に任せよう、だったのに。

本当にそうあるなら、今のブームのような、ね?
「敏感で繊細、だから生きづらい」
なんてのは、客観的に判断出来ない人が圧倒的に多い。
それが日本だから。

与える影響とか、すーぐさま分かるし、今のブームの悪い部分なんて、それこそね。

頭にそのさまが描かれて、頭抱えてしまう。
それ程に気付けるから、出さないを選ぶ。

そうあるんじゃないですか?っていう。

そういう「与える影響」と言う部分でも、良い影響、悪い影響両方が想像できますけどね?

うつ病ですら、逃げ口上に使われて「なんちゃってうつ」とかいう。
そういう症状持ってる人には、大迷惑という人が、すぐさま出たほど、ですよ。

なーにを見て。
なーにを知って。
なーにに気付いてて。

そんな誤解を生むような表現ができてしまうんですか?っていう。

性格として真面目。
ではないんですよ。

「それこそ感じ取りすぎて、客観的と言う判断すら、深い所に行き過ぎる」

だから、痛い所をホイホイ付くけど、認めたくない。

それを「真面目」に置き換えて事なきを得る。

本当に真面目なのか?
それとも、それ以外の何かがあって「真面目」と錯覚してしまうのか?


本当に、そうあるなら。

こういう経験すら、当たり前で、普通のこと。

人の想像の限界を超えてってる。
それすらも感じ取れるほど、なんですよ。

もうやだー!

その人の限界や想像を超えると、基本は、ね?
客観的な判断より、感情としての主観が働きやすくなる。

それは、他人だけでなく、そうある自分すらも同じ。

それ程に、自分からも感じ取ってしまうし、自分を客観的に判断するから
そういう客観を扱う様に対して自分すらにも厳しくて正そうとしてる=真面目と、錯覚されてしまうんですよ。
でも、それはそう判断する人の感情が由来なので、客観的な判断が出来ていない。
それに、明確な理由を述べてNoを突きつけても。
だって、その、ね?
「そんなことはないはずだから」というのが、感情からくる主観なのか?客観なのか?はわかるんじゃないですか?

しかも、それ程なので、主治医からも「客観視が強いですね」と言われましたが。
いつものことと言わんばかりに。
「幼い頃から、コレが普通なんですよ。信じられないかもしれないですが・・・」
って、答えました。それが、客観的な事実、実際の現実なので。

限界を超えてるから、「想像できない、そんなこと人間としてありえない」

そこまで行ってるから認めない。

そして、真面目なんだ!って現実逃避をし始めるんですよ。
そう在らない人たちは。

そしてそれが。

幼い頃から、いつもこうなんだよ・・・・。

何を根拠に、自分と違う他人の内面を。
客観的な事実という、ね?
論拠を出さないまま、感情で否定してくるのか?

理解に苦しみます。

感情部分しか感じ取れないのが、多くの人。
だから、感じるを感情のものとして判断するだけでなく。
そこには何があるのか?
そういう状況になる理由はなにか?
そして相手は何故そう言ったのか?そういう態度を取ったのか?
自分が何をしたからこその結果なのか?

感情以外を感じ取れるなら、こうやって、それこそ当たり前でしょ?と言わんばかりに、現実を掘り下げていくんですよ。

そうすれば、気づくことで学べる、学べることで対人関係に活かせる。

そういう所に行き着くから。

そして、それを扱いもするし、扱い切れてるので。

ただただ異質な人ではなく。

状況次第では、周囲にとっては、気遣いと判断され感謝もされる。

そういう人間になるから。
浮いてても、浮いてばかりではなく、溶け込めもする。

どっちかに偏らないんですよ。良い悪いすらも。

ただ。
認めたくない人が、度が過ぎる部分を抑え込もうとする、と言う部分は。
「ネガティブな感情が増し増し」の状態で飛んでくるし、感じ取ってしまうから面倒

しかも、そのせいで、個人としては過敏性腸症候群のトリガーになってたり、うつ病としての気分が上がらない、そういう状態に追い込まれる負の記憶になってしまってる。

もう、ね?

季節感というものが。

体調悪化に影響するほどに。

認めてもらえないから、そういう人という線引すらしてもらえず。
本人の言い分より、自分の感情を取ってばかりの人が居る環境で生活してたので。

ネガティブさなんて、キリがない。
それこそ、目を閉じて世界を見ないようにしないことには。

瞬時にネガティブが飛んできてる。

時代も。
大人も。
子供も。

そういう概念で括る言葉を使うクセを、日本人は、ね?
修正したほうが良いです。

だから、飛び級とか。
評価という部分での、実力の評価という部分では、海外に劣るんですよ。

あちらは、今より程度が低い時代から。
そういう突き詰める、深掘りするというのを、取り入れて扱ってきてるから。
だから、研究という部分には、先行投資すらしてもらえる。
だから、海外が先に発見して・・・ということが今でも多い。

日本の場合、日本人が結果を出したら、自分の事のように喜ぶのは良いけど。

客観的な現実として、なにがどうあって、そういうことになってるのか?を。
感情揺らさずに見れるようにならないと。

研究なんて、突き詰めるもんだから。
感情が邪魔になるのよ?

大学とか、設備とかではなく。

遺伝子レベルでの、人間性って部分が。
歴史が浅いからこその枷になってる。

そういう、客観的な判断ができないことには、日本はまだまだ、研究という分野で遅れを取り続けると思いますよ。

独自のカスタマイズという、独自進化という部分では
ガラパゴスかもしれないけど。

ガラパゴスですら、元は、パンゲアの頃だかいつからか入ってきてて。
それが独自の環境で育ったからそうある。

その、入ってくるという、ね?
その部分を自分たちで生み出してたのか?と言う部分では。

やっぱり、基礎は外から来ただけ。
それが派生する時に、独自進化しただけ。

そうじゃねーの?


あとがき

色々出てしまいました。
ちょっと反省してます。

でもね?やっぱりこう、日本ってダメだと思います。
世界情勢ですら、やっぱりこう、どちらも歴史という部分が絡んでる。
それを積み重ねる時に、片方は力を持って相手をねじ伏せた。
それが禍根にもなった。

それだけでなく旧態をしってるからこそ、取り戻そうという、根底の心理。

そういうのは数年前から見て取れてた、よ?

ほんとこう、色々理由があったし、そもそも小学生の時点で、ね?
客観的な事実として、見えてる、感じ取ってる、気付いてるを言うと、周囲の大人、それは親すらも含めて。

「そんなことはない!お前はまだ子供だからだ!」

って、抑え込むばかりだったので。

虚無感。
学ぶことはムダだと。
そうなってしまう環境にいたので、感じ取って気付けば、妙に核心めいた部分を付くけど。

一般人だから。
「嘘だ、そんなはずはないんだ、アイツは一般人だ」
「普通レベルだ」

うん、大丈夫。

それもいつものことだから、好きに判断してつかぁさい。
面倒なので、必要以上は首突っ込みません。

すっごくピーキーになってしまったし、その分、普段は普通としか見られないので、ね。

コレは逆に良い部分でもあり、余計な蹴落としも受けずに済んでるんですよ。

ギリギリまで他人に追い詰められて、精神やんだのではなく。

自分で判断しつつも、我慢しすぎて破裂したから病んだので。

命を断たずにやってこれてる。
迷ったことはありますが、今は落ち着いてます。

それ以上に、ね?

感じ取ったからって、そのまま真に受けてたら、それこそ、恨み節というか。

便利になると、工夫とか効率化の為の試行錯誤って減ってしまうんですね。
そうなると、脳を使う機会がどうしても減ってしまう。

だから、便利な道具を使うのは良いけど。
それは、どういうもので、どういうふうに扱って。
それ以外は、自分で何とかするようにしておかないと、ね?

工夫=考える、想像するというのを失いつつあると思います。

そうなると、感情優先になり、注意力も落ちる。
自分の拘りばかりに夢中になる。
だって、思考=脳を動かす、をしなくなってるので。

そういう人が増えるのも、当然。

それは人間だけでなく、動物も含めての、進化という話にも繋がるのでは?
と思います。

うん。

まぁ、何ていうか。

せっかくだし、公開してみましょ。

まぁ、正直言わせてもらえば。

それ程に感じ取れるなら、自分だ他人だどころか、動物や植物からも感情を感じ取れなくもないので、線引が薄くなり。

客観的と言う部分は強くなるというか。

そうなってないの?とは思います。

それでは。

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