あくまで参考までに
動画を紹介したり、たとえ話を用いたりしますが、
これが絶対、間違いなくこういう物、ではありません
紹介する動画も、公認心理師という大学院まで勉強してとれる国家資格をもった方の見解というものです。
タイトルはちょっと・・・とは思いますが、全体としては公認心理師でカウンセラーという方の解釈として、わかりやすいだけでなく、
昨今のブームはやっぱりおかしいよね。
という、問題提起になってると思います。
ということで、
まぁ、上にも書きましたが、あくまで参考です。
また、注意点としては、
「都合の良い所だけ拾い上げないでくださいね」
全体を通して、全部を拾った上で、改めて考えてみる。そういう事を可能にさせてくれる内容かな、と個人的に思います。
後半では「本当にそうある人が困ってしまう」という事も強調されますが、そうなんですよ。
うつ病なんかもそうですが、様々に流される情報のせいで、上辺だけしか見ないまま、その症状を抱える個人の根本部分、正に根っこを知ろうとしないまま、
目にした情報で勝手に人を決めつける。
類似する問題点について、きづかせてくれると思います。
ということで、前置きが長くなりましたが、個人として
「こういう話でもわかりやすくならないかな?」と思いついたものがあるので、たとえ話から始めたいと思います。
例えるなら顕微鏡
個人の解釈、見解です。また、一般人が気づいた程度なので、これが絶対ではないです。
あくまで、参考という感じですが、恐らく的を射てるのでは?とも思います。
ということで、本題。
そうなんですよ。例えるなら顕微鏡。
また、電子顕微鏡みたいな、高性能なものではなく、普通に小学校の理科の授業でも扱うような、手動の普通の顕微鏡を例えに用いてみてください。
顕微鏡は人の目で見えない、細かい部分を見るものですが、顕微鏡自体にもレンズの倍率、という、ね。
レンズの倍率で、見え方が違う。というだけでなく、レンズの倍率を変えれば、より細かい部分が見える。
そうあると思います。
それを、HSPだという人に置き換えると、
本来ならレンズの倍率を変えなければ見えないのだけど、倍率を変えなくても細かいレベルが見える、不思議な万能レンズ。
本来なら、見える範囲、見えるレベル、見えるレンジが決まってるので、そんな事はありえません。
顕微鏡であれば、必ず倍率を変えないと見えない。
でも、HSPという人に置き換えて例えると、そんな事しなくても。
息をするのと同じ様に、心臓が動いてるのと同じ様に、特に何もしなくても自然体で、細かいレベルまで感じ取れる。
そう、顕微鏡のレンズなら倍率を変える事で、より繊細な部分が確認出来るという部分を、
人間の体として、大して意識して扱おうとしなくても。
自然体で「普通のレベル」では感じ取れない些細なレベルも感じ取ってしまう。
だから、余りにもおかしい、おかしすぎてありえない。
だって、顕微鏡に置き換えたら、本来なら適えることが出来ない不思議な万能レンズをもった顕微鏡だもの。
うん。
そうなんですよ。
顕微鏡に置き換えても、現存する顕微鏡では成し得ない、
おい!なんだこの、ありえない性能を持ったレンズは!!
というものを、持ってしまってる。
顕微鏡を例えに扱ったら、そういう話も出来るような人という、ね。
生きづらいのではなく、普通に出来る部分が、普通の範囲を超えてしまってる。
そういう話だと思います。
ほんと、根本や本質を知ろうとしないのは・・・
全然ダメというか。
参考として上げた動画でも、バラの花と根っこの話をあつかってたりしますが。
植物なら、根が地面に張ってるからこそ、植物は生きることが出来てるとも言えなくないです。
引っこ抜いたら、枯れるじゃないですか。
そういう、根があるからこそ水分を吸収して、茎や葉脈へ送ることで生活するという、ね。
植物でも、大事なのは根っこ。そういう部分の話がされないのは、マズイと思います。
うん。
更にいうなら、手折って花を持ち帰れども、いずれは早い内に枯れてしまうものなのに、手折っただけでなく、枯れてしまった花を、
いつまでもキレイな花として扱い続ける。
ブームに乗っかって、自分はHSPです!とか言ったり、そんな自分が見る世界みたいな、ナルシスト爆発まったなしの言動を取ったり。
なんで、そんな事してるの?というか、本当にそうなら、そんな事しないですよ。
あっという間に、根っこに意識が行くから、限られた命の花を手折るなんて出来やしない。
ましてや、そうあるのが植物の本質なので、自然の中に在るものを愛でる。
一瞬でそういう判断までしてしまうので、簡単に手折ってキレイだから持って帰ろうなんて人が、ブームに乗っかってるだけの人だと、思います。
きれいな花だからと、きれいな所だけ手折って持ち帰る。
ひどいもんだ・・・って事をやってるんですよ、ね。
これまた、たとえ話ですけど。
本当に困るから・・・
幼稚園児の頃から自覚は合った。
でも、母からの話からすると1歳時点で年齢不相応。
どう考えても、その年齢での当たり前や普通のレベルを超えて、自分(母のことです)の状態を観察してるとしか言いようがない。
2歳したの弟を母が妊娠した。それが病院の診察で確定した。その頃から。
甘えもしないし、先んじて気づいてるのか家事の邪魔にならないように行動もするし、買い物に行こうものなら持てるはずがないのに大きくて重い荷物をもとうとする。
そういう、部分を持ってたようです。
そういう部分があったからこそ、幼稚園という外界に出るようになってからは、
「周囲の子と比較しても、よく気づくし面倒見が良い。幼い子の行動とは言え明らかに負担減で助かってる。」
その行動を褒めても「え?普通にみたら気づいちゃうし」と言って、褒めてもそれが普通レベルだと。
なので、幼稚園という形で外界に出だした頃から、
「余りにも過ぎてて、怖い」無意識下の深いところではそう言ってる。でも、そこに気付けないだけでなく、そういう部分からの怒り。
そういう物をぶつけられることが、増えていったんですよね。
子としてこういう事を言うのもどうか?とは思いますが、理解がある方だった母親ですら、あまりにも過ぎてて扱いきれてないほど。
言葉を覚えたせいで、寧ろ怯えさせられるというか、危ぶまされると言うか。
それどころか、言葉で勝てないので、怒り任せに上から怒鳴りつけて抑え込みに来るという、感情をもってしての攻撃をされるようになったし、幼稚園の時点で先に怒り出すのは、必ず相手、先生や親、その他の大人たちだったんですよね。
なので、親からすらそうあった分、守ってもらえてる実感が無くなってしまった結果が、
「小学校に上がる時点での、親すら敵認定」という。
その判断をもってして、自分じゃない自分、周囲に合わせての自分になる、を実践したどころか、あまりに自然にそうやってたので、全然気づかれてないんですよ。
「それこそ人格が入れ替わるほど」
そう言っても過言じゃないよ、と言うほどに。
そうあったからこそ、一緒に楽しんでた友人や高校からの同級生なんかでも、
「今でも思うけど、非現実的過ぎて信じられない。でも、うつ病拗らせてるほどなので、信じるしかないのかもしれない」
みたいに、言われます。うん。
こういう事を言うと、アダルトチルドレンという言葉も浮かびそうなのですが、全然違うんですよ。
伺う、観察ではなく。
背後だろうが、視界の外だろうが、一定範囲に人がいる、状況として在るになると、勝手に気づいてしまうんですよ。
イチイチ見なくても、気取ってしまうんです。
なので、そうある自分自身すらも、困惑するんです。
「なんで、気づいてしまうの?」と。
自分自身ですら、掘り下げきれないほどの部分からの感じとりなので、自分すらも時折「自分の事だけど、マジで気持ち悪い(苦笑)」という感じです。
なので「あ、今なにかキャッチしたな・・・」というような。
目に見えない、自分から伸びたアンテナに何かが触れたという、ね。
目に見えないし、何も触れてないのに、何かを感じ取って情報を得る。そういう事もあります。
ただ、目に見えない=現状の科学でも可視化が出来ない、それ故に非現実的という部分から、詳細は敢えて触れない、と。
そんな不確かなものは、あくまで多分程度でしかないですし、自分自身すら困惑するようなものは、おおっぴらに出せたもんじゃないです。
ただまぁ、そういう感じとりって、おおよそ不吉なもので。
良し悪しの度合いも違いすぎるので、必ずしも不吉とは言わないまでも、ね。
あ、これは壊れるな、って気づいてしまうのは、結構苦しいもんなんですよ。
最後に少しばかり
結局、診断がうつ病になったということもあって、うつが激しくて楽しめないというところから、距離を取ったものがあるのですが。
ホントこう、毎回毎回、自分が嫌になるよ。真面目な話として。
蟲師という作品があるのですが、その作品に出てくるような悪い方の蟲だったか。気づいてたのになぁ。
そういう物が、成長しつつあって。
こうなってはもう、うつとかそういう事ではなく。
私は触れてはいけない、という判断が発生しました。とはいえ、不確かさがあるので、あくまで現状ですが。
まぁ、自分自身が諸刃の剣という自覚がある分、肉斬骨断も平気でやってしまうので、離れるしかないんですよね。
悲しいかな。
普通の感覚を持ちたかった・・・・・・
時折、しみじみそう思う事すらあるくらいなので、ね。
大変なんですよ。
深い所を感じとりすぎてしまう。
うん。そして、話は蟲のようなものに戻しますが。
ただ、そういう蟲も、ね。生きるために必要だからと、一定以上は壊さないで残すと思いますが、それ故に淀んでしまうものでもある。
言い換えると・・・。なので、言えたもんじゃない。
とはいえ、少しばかりここに出す事にはして、遠くから見守りましょうかね。
うん。
はぁー。
心休まるときがあっても、それすら一瞬で壊されるほどのものが訪れもする。
こんな感覚、マジで要らないし。
そういう物を、大して知りもしないどころか、そういう苦なんて感じ取れそうもない普通レベルの人間が。
好き勝手するんじゃないですよ。
と、怒りに飲まれそうで、飲まれるどころか、怒りを握りつぶしてしまう。
面倒くさいんですよー?
あとがき
少し前の記事で、雨後の筍と表現しましたが。
時期になると、雨が触れば、にょっきにょき。筍の様子を例えて、いつまでもしつこく生えてくるなぁ・・・。
という感じなので。
まぁ、余計なお世話ではあると思いつつも、誤解釈の浸透はさせませんよ、と。
苦労しただけでなく、現在進行系なので。
「本当に困ってしまう人」
の負担を減らしてもら必要性ってすごく感じてます。
感じとりすぎてしまうからこその、恨みつらみからの凶行という、ね。
そういう、負の連鎖は起きてほしくないんですよ。
あくまで、ポジティブも、ネガティブも環境次第では、影響を受けやすくはなるものの、どちらも0にはならないと思います。
それ故に、ボタンの掛け違いみたいな部分から、おかしな事になるようなことは、ね。
程度はどうあれ、嫌でも感じとりすぎてしまうし、いくら説明しても話をきいてもらえない、だから負の部分を受け取ってしまう。
私にとっては、そうあったとは言え、それでも母の存在は私にとっての鞘。暴走しないために、その刃を隠させてくれるような存在でした。
だから、そう伝えたかったんですけどね。届かなかったんですよ。
なので、自分はすごい!ではなく、後悔だし、同じ後悔をする人は生まれてほしくない、自分だけで沢山です。
まぁ、親子関係って、その親子でしか成立しないですし、それこそ余計過ぎるお世話なのですが。
やっぱ、嫌です。
同じ悲しみは抱えてほしくない。
だからこそ、正しい形で知ってほしい。
また、これを機に精神疾患なんかも、今一度。
症状では決まらないのが人、個人ですので。個人にもっとフォーカスして、全体像の難しさはあれど、少なからず寄り添うことでお互いに良い形になるような。
そういう、ケアが、ね。
有ったほうが良いと思います。
ということで、最後の方はクサくなりましたが。
自分の足で立つことは出来る。メンタル病んでても立っていられる。
でも、辛いものは辛いのは間違いない。でも、言ってしまうと弱くなる自分、それを内側から感じるから、嫌でも自分の足で立つ。
そうやって、最後には自分が向き合って立たないことには、周囲がいくらサポートしても改善しなければ、回復もしないので。
あー、面倒クセーって口癖をこぼしつつ。
今日はこのへんで。
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