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言葉を読み解く:自己とは?

自己実現。
自己探究。
自己肯定に自己否定。

様々な分野というか、様々に自己という言葉を目にする機会というのは、年々増えてきてる。

その様に感じます。
まぁ、それ程生きてるから仕方ない、のだけど。

ただ。

結構、個人としては疑問を感じるの機会は、増えた分だけ増えている。

果たして、自己、とは。

なんでしょう、ね?


自己という言葉

https://www.google.com/search?q=%E8%87%AA%E5%B7%B1&oq=%E8%87%AA%E5%B7%B1&aqs=chrome..69i57.1298j0j7&sourceid=chrome&ie=UTF-8

グーグル先生に聞いてみるだけでも。

意外と難しい。
下手をすれば、それはもう哲学なんじゃないの?というような意味すら出てくる。

まぁ、簡単に言うなら「自分が自分として」というのが、自己というところでしょうか。

なので、自分らしさを求めるのなら、自己という言葉の理解、解釈、読み解きは必要かなぁ、と個人的には思います。


個人として行う表現「個人的に」

意外と多用するのは、ただでさえ普通じゃないと言われてしまう。
そういう経験をしてしまってるので、どうしても、自分自身の意見は区別した上で言わないといけない。

まさに、環境からの影響。
環境感受性とでも言えばいいのでしょうか。

この、個人的に、という前置きは「自己を表現する際」に、多用します。
うん。

ある意味クセのようで。
経験があるからこその対応とも言えれば。

それ程に、自己って扱うのが難しいんですよ。
感覚的に掴んでた、とも言えてしまう。

また、言い換えればATフィールドみたいなもの。
ATフィールドを破ろうにも、直接的に破るというのは、非常に難しいというのは、エヴァンゲリオンの作中で様々に描かれてると思います。

それ故に、扱えれば、ある種の鉄壁な防御というような。

こうやって、言語化をしてしまうと、個人が行う「個人的に」という自己表現の為に扱う言葉は。

様々な意図、効果を狙ってる。
しかも、意識的に狙ってるケースもあれば、無意識にそうしてしまう。

それ程、という感じです。

よくある自己、についての個人的な感想

ぶっちゃけ、大きなお世話が多いです。
だって、自己だもの。

それが正しい、ではなく。

それを受けて、個人が自己について考える切っ掛け。
そういう機会の発生を促さなければいけない。

その様に思います。

それに対して、世に出る情報だからと真に受けたり。
それを、自分と違う他者に押し付けたり。

これは、完全に「言葉に振り回されてるだけ」
という感じです。
あくまで、個人の見立てとか、個人としてそう感じる、ダケ。
ですけどね。

中でも「自己肯定感」というものについては、過去の記事でも触れたように。
相当に否定的なんですよ。

無意識でも、個人的に、と。
自分は自分だからと、自分を確立してるので、自分を扱う。

そこに。

自己肯定感という情報とは違ってるから。

「間違ってる!」
何度も言われましたが。

(゚Д゚)ハァ??という感じなんですよね。

自分に落とし込んでないまま、見た情報を扱うのって…
百聞は一見に如かず
の、一見すら出来てない、ゾ?レベルです。
私にとっては、の話ですけどね。

自己を押し付けたらダメ

よくある、自己肯定感の話をして、
「それは自己否定だから、ダメ」
なんてのは。

相手の自己を否定してしまってる時点で。
自己肯定の邪魔をしてる。

にしか、なり得ない。
個人としてはそう思います。

なので、自己肯定感の押し付けはノーだし、情報があるからと押し付ける人はノーセンキューとか言うんですよ。

自己って、自分自身、です。
自分自身が、そういうものとして扱う、のは良いんですよ。

でも、それと違う自己肯定を持ってる人に。

間違ってる。

おめぇ、何様なんだ?オラわかんねぇから、教えてくれよ?
成長して、達観したような大人らしさを見せるようになった、悟空さしてしまいます。

とはいえ、聞いてみれば。
「私がダメだと思うから、それは自己否定だ!」

ダメだと思う理由は?を更に問えば。
「自己肯定感ってそういうものだから!」
と、自分が”知っただけ”で、落とし込んでの応用という、ね。
学校でも言われるじゃないですか。
学んだことは、応用して云々。

出来てないんですね。
落とし込めてないから、知った情報を、そのまま口にする事しか出来ない。

これだから、よくある自己肯定に惑わされる人は、ダメなんだよなぁ。
嫌でも、そういう感想を持たせてくれます。

だから、言う通りに聞いてくれない、という様子を敢えて見せると。
言わんこっちゃない。
思い通りに聞いてくれない!
と、イライラし始める。

うん。
分かってるから、気付いてるから。

度が過ぎる気づきが扱える身なので。

気付いた所から、相手を苛つかせる、なんて出来てしまいます。

と、流石にここまで言ってしまうと、個人として、という前置きをしてもやり過ぎにもなります。

なので、なるべく言わないようにしつつ。

でも、それは我慢、でもあるので。

仏の顔も三度まで、どころではないほどに、自己肯定の勘違いを見聞きして我慢を超えたら。

そりゃ怒ります。

Ω\ζ°)チーン

結局、自己、とは?

突き詰めだすと難しいです。
正直、今でも迷いは生じるほど。

落とし込めて扱ってても、扱いきれないと、感じさせる瞬間。
生きてれば嫌でもあります。

それ程に、難しいんですよ。
自己って。

最初に上げたリンクで見えるかわかりませんが。
自我と、混同されることもある。
でも、自我と比べると…という感じです。

それ程に、難しいもの。

それを、自己肯定感高だか、自己探究だか知らないですが。

あくまで「自分が自分として、個人に限らせて行ってる」なら良いと思います。

でも、それを真に受けるだけで、考えなかったり。
真に受けるだけどころか、他者に押し付けたり。

「それは、相手のとっての否定にしかならない」

自己を肯定するものなのに、自己ではなく、他者の自己に踏み込んだら、
ダメでしょ!?

今でしょ?の真逆、それは今じゃない。
今言うことではない、に早変わり。

自分のいいところだけを認めて、肯定するなんてのは、下手すれば、

自己肯定ができてるどころか。
自分が可愛い、自分はわかってるから凄いをこじらせてる、自己愛性パーソナリティ障害を疑われかねないです。

これもう、精神疾患として、症状が確立されてる、というものなので。

単なる自己中も過ぎれば、病気なのでは?
という時代になってきてる。

そういう”証明だと思います”


なのでやっぱり。

自己という、言葉がつくようなら。
自分が自分を確立するため。
自分が自分として扱うため。

そういう、判断が出来ないとダメ。

そういう時代になりつつあるのでは?と思わざるを得ない。

結局自己って、扱うには、難しさがあるもの。

なので、扱いには注意を払う必要性があるもの。

そうじゃないですかね。


あとがき

個人としての、おかしさの一端には、気付いてしまうからこその、
「それは何故なのか?」
というような、下手すれば哲学と言われかねない。
そういう、気付いてしまったから、何故を探るというアプローチが発生します。

こういう部分も、幼い頃から常。

ゆえに、というんですかね。

いい加減、自己肯定感とか、うっせーから黙ってろ!と。
うんざりしてしまってるので。

個人としての自己という言葉の読み解きから。

よくある、お節介どころじゃ済まない自己〇〇に物申す。

それを記事化してみました。

人を変えるには、言葉で伝えるだけでなく、その言葉で、その時に。
相手の心に響かせる。
が、出来ないことには、心が動かないので。
意思や意識も動かないし、寧ろ反発を生む。

心が動くというのは、感情みたいな感じです。
感動したとか、それこそ、胸に響いたとか。

話を聞いてくれない、理解してくれない。
そりゃ当然。

あなたの言葉は軽すぎる。

いくらもっともらしい言葉を並べても。
知った、程度だと、落とし込めてないから。
あなたの心が乗っていない。

だから表面的な部分の感情で、思い通りにならないイライラを見せてくれる。

自己〇〇を押し付けてくる人。

こういう人多いですよ?

そういう自己については、それこそ自分から表現して、触れて、知ってもらって。
受け取れるものがあるのなら

という、相手に委ねるというスタンスを取れないことには。

扱うことは出来ないと思います。

だって、相手にも自己はあるんだもの。

自分の自己で変えられるわけがないのです。

ということで。

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