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モヤる問いには問いで返す

私の先輩が、会社の人の結婚式で上司に聞かれたらしい。

「どんなプロポーズされたい?やっぱり女子はどんなのに憧れんの?」

この2つの問いには、それぞれ1つずつ前提がある。

前提1: 女性は(男性から)プロポーズ「される」側である。

前提2: 女性は(男性からの)プロポーズに憧れるものである。

前提1は、女性は異性との恋愛関係において受動的であるというステレオタイプであり、前提2もまた女性は異性にプロポーズ(されること)に憧れがあるはずだというステレオタイプである。

さらに、これら2つの前提を成り立たせている大前提がある。

大前提1: 目の前の女性(私の先輩)は、異性愛者である。

私の先輩が「女性である」=「男性と恋愛関係を持つはずだ」ということを大前提としていなければ、つまり彼女が同性愛者や両性愛者である可能性を大前提としていれば、そもそも女性がプロポーズ「される側」と断定することはないだろう。男女だとプロポーズをするのは男性という常識があるのかもしれないが、女性同士ならどちらがプロポーズをするかという常識は適応されない。

また、

大前提2: 目の前の女性(私の先輩)は将来結婚をできる/する/したいだろう。

ということも大前提となっている。

しかし現在の結婚という制度は、異性婚に限定されている。「結婚ができる」という前提で「プロポーズされたい」か、「憧れがあるか」を質問している時点で、結婚が(したくても)できない人を問いから排除している。

また現在の結婚は、異性婚であっても女性の場合、改姓を強要される場合が圧倒的に多い。別姓を選択することが許されていないからだ。それを理由に異性婚であっても結婚をしない人もいる。よって「結婚する」という前提で質問している時点で、結婚を(したくても)しない人を問いから排除している。

さらに、上記のような条件をクリアしていても、結婚という制度をそもそも必要としない人、結婚したいと思わない人、結婚以前に性的な関係や恋愛関係を持たない人もいる。(※性的な関係や恋愛関係を持たないが、結婚する人はもちろんいると付け加えておく。)よって、「結婚したい」という前提で質問している時点で、結婚をしたくない人を問いから排除している。


以上見てきたように、

「どんなプロポーズされたい?やっぱり女子はどんなのに憧れんの?」

という問いは、そもそもそれに答えられる人を限定している。問い自体が誰かを排除している。

問いに答えるという行為は、問いの範疇に自分が限定されるということである。無理やり答えたところで、相手の予想外の答えを言っても、問いの範囲内に引き戻されてしまう。

例えば「私はプロポーズに憧れはありませんし、されるという受動的なのも嫌です」と答えたとしても、問いを設定した側に「お前がプロポーズされないからだろ」と言われたり、思われたりする可能性が高い。プロポーズされる側に断定されたくない、プロポーズに憧れがあると勝手に思われたくないという言葉は汲み取られることなく、相手の前提の範囲内で「お前がプロポーズされないから」と解釈されてしまう。

問いを相手に握られると、その範囲内での返答しか許されない。問いは、質問と同時に選択肢も設定しているからである。質問そのものがすでに構築されているので、その答えは必然的に、質問によって舗装された道に沿わされることになる。

質問に答えても、「目の前の人は異性愛者である」「目の前の人は将来結婚をできる/する/したいだろう」という大前提や、「女性はプロポーズされる側である」「女性はプロポーズに憧れるものだ」という前提を切り崩すことはできない。

問いに答えても、問いから抜け出すことはできない。問いが生み出している排除は、改められることも、自覚されることすらない。


だからこの問いには答えてはいけない。

ではどうするのか。

問いには問いで返すのである。


相手の設定した問いに答えるのではなく、相手の設定した問い自体を対象化して、問い返すのだ。

例えば、「どんなプロポーズされたい?やっぱり女子はどんなのに憧れんの?」という問いには、「なぜ『されたい』って聞くんですか?」と問い返す。相手の質問自体を問題化する。

こうすることで、自分を問う側、相手を問われる側にすることもできる。

実際、問われるべきなのは、「目の前の人は異性愛者である」「目の前の人は将来結婚をできる/する/したいだろう」という大前提や、「女性はプロポーズされる側である」「女性はプロポーズに憧れるものだ」という前提で他者を無自覚に排除している相手の質問なのだ。

「どんなプロポーズされたい?やっぱり女子はどんなのに憧れんの?」という質問こそが、問われなければいけない。その質問を投げかけた側が、自分の無意識の偏見や排除、それを可能にしている自分の特権を問われなければならない。

質問する側が、問われることによって自分の質問の暴力性を自覚すべきなのだ。

「問いを投げかける」「その問いに答えさせられる」という権力関係を脱し、「その問いには支配されない」という意思表示が、問いに問いで返すということである。


他にも例をあげれば、(女性への)「彼氏いる?」という質問も、問われなければいけない。

もしその質問を投げかけられた人のパートナーが「彼女」だった場合、その人は「(彼氏が)いる」と嘘をつくか、「(恋人が)いる」とぼかして答えるか、「彼女がいる」と半ば引き出されたように言わされる(カミングアウトさせられる)しかない。

問い自体がそのように設定されているからだ。問いは質問と同時に選択肢も限定している。

「彼氏いる?」という質問には、「なぜ『彼氏』って聞くんだ?」と問い返す。

そうすれば嘘やぼかし、自分のタイミングではないカミングアウトをさせられることなく、質問自体を対象化することができる。

「彼氏」という言葉を選択して質問することによって、あなたは何かを排除してはいないか?あなたは何を前提にその質問をしているのか?と問いの矛先を相手に向けることができる。

問い返すことで、質問をした本人が無自覚に行っている排除に気づかせることができるかもしれない。

わざわざこちらがピンポイントで排除を指摘せずとも、問い返すことで相手に考えさせ、自覚させることができるかもしれない。

だからこういうモヤる質問をされた時は、その質問自体を問い直そう。


○おまけ

問う側と問われる側には権力関係が発生する。問いを構築する権を握る側と、あらかじめ構築された問いに返す側である。

本記事では、自分が問われる側になった場合に、問う側に転位する方法を書いたが、では自分が問う側の時はどうしたらいいのか。

例えば、他の誰かにインタビューをしようとする時、自分はインタビュアーとして質問を常に投げかける側である。その時点で、相手に何を語らせるかという権力を自動的に握ってしまう。

またインタビュイーがこれから答える内容を、自分が問うた時点で自分の質問がすでに限定してしまう。問われないことは語られない可能性、または反対に(語りたくないことを)質問することによって語らせてしまう可能性がある。

そういったことを自覚する時、インタビュアー、もしくは単に聞き手としてやるべきことは、本当は「問う」ことではなく、「相手が語るままに語ってもらう」ことなのかもしれない。

自分の構築した問いに合わせて相手に語らせるのではなく、自分の問いが舗装した道に沿って相手の答えを誘導するのでもなく、相手が構築するままに相手に語ってもらうことが、真摯な聞き手のあり方なのではないかと思う。

質的社会調査にしても、おそらく同じことが言えるだろう。

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