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【GLAY】出逢い

『HOWEVER』…世間ではGLAYの代表曲と言われ、”21世紀に残したい曲”と評された名曲である。
流行には疎い私の母親でさえも「全国で流行ってにわかファンが増えたじゃないの」と言う。
私は『HOWEVER』がそうやって世間で流行っていることを

知らなかった。

当時中学生だった私は、街なかで聴いてピンと来た曲を調べて買っていた。
ある日、部活の遠征で友人の親御さんが運転する車の中で、それはやって来た。
「なんていう曲?」と尋ねると「GLAYの…」

(グレイ…)

さっそく、おそらく地域に1件だけであろうCDショップに行ってみた。

(曲名がわからない!確か、やたら「ふたり」って連呼していたような気がする…)

よくわからないまま、ふと気づいたときには目の前の薄くて細長くて小さな1枚のシングルを手に取っていた。

『HOWEVER』

その時はまだ、英単語の意味さえ理解していなかった。


今思えば実に不思議なのだが、そのCDが「グレイ」なのかさえ定かではない状況の中で、何かに呼ばれるように買ってしまっていた。

私が買おうと思った曲ではなかった。
あとから思えば、たぶん車中で聴いたのは『ずっと2人で…』だったのかな。でも、それからその1枚の8cmCDを文字通り擦り切れるほどリピート再生したことは言うまでもない。

GLAYを知ってからCDを買い集め、これまた不思議なことに、脳裏に刻まれたメロディーが次々にGLAYの曲と一致してゆくのを感じた。


そもそも「J-POP」という世界があることを初めて知ったのは、小学6年生のとき、ZARDの『心を開いて』を買ってからのこと。
「アルバム」と言われても「写真のアルバム」しか知らなかったような子だった。
GLAYのCDが発売されるたびに人づてに聞いて買うようになっていたが、GLAYのことを勉強して情報をキャッチするようになったのは、あの伝説の20万人ライブと呼ばれる「GLAY EXPO’99 SURVIVAL」の後になってからである。

今では「嘘松」呼ばわりされそうな話だが、「CDを予約する」「ライブに参加する」という制度が存在することさえ知らなかったのだ。

”今の音楽はウルサイ”

幼い頃からそういう概念を植え付けられる環境は、恐ろしいモノである。
(なお、この15年後には母親をGLAYのライブに連れて行くことになる。)

そんな子だったのだから、楽器のことも音楽のことも全然知らず、もちろんギターとベースの違いもわからず、さらにはJIROさんのことを何の疑いもなく女性だと認識していたこともすべてお許し願いたい。
それが今ではGLAYを人生の師として愛し、対象としての物体ではなく空気のように、意識を超えた存在となってしまうのだから、人生わからないものである。
おかげ様で、「死」までも考えていた私のような人間が「死にたくない」と思うようになってしまった。
私という人間の中身が入れ替わり、180°転換した方向へ進むような転機だったと思っている。
GLAYさんには感謝してもしきれない。


一方で、もしGLAYに出逢わなければ人生はもっと楽チンだっただろうとも思う。
「生きたい」と思う事によって、逆説的にこのように「死」をすぐ隣に感じるようなこともなかったかもしれない。
GLAYに出逢ったから、いろんな事を余計に難しく考えて悩んで、しなくてもいいようなツラい思いもたくさんしている。

この話をすると「それでよくGLAYファンだって言えるよね」とか言われることもあった。
自分とGLAYとの関係に迷いそうになることもあるし、そもそも現代風に言えば「推し」みたいな不安定なモノに(傍から見て)依存したり支配されたりすることの危うさがふとよぎって不安に駆られることもある。

それでも。

曲を聴けば、ライブに行けば、メンバーの紡ぐ言葉を聞けば、やっぱりどうしても好きだと思ってしまう。
彼らは「約束」をしては必ずそれを守ってくれるから、信じてしまう。

震災前、GLAYのライブは「非日常」の特別な場所だった。
震災後、そこは何があっても変わらない「日常」を確認できる場所となった。

帰る(還る)場所があることの幸せを思い知らされる。


「ファン」という呼称を与えられることには正直違和感がある。
誤解を恐れずに言えば、自分にとってGLAYは「宗教」だと説明するようにしている。

もちろん妄信とか崇拝とかそういった類のものではないことはお断りしておきたい。
信仰という意味では、正月には神社へ初詣に行き、葬式は仏式でお盆にはお墓参りをし、クリスマスにはツリーを飾ってケーキを食べるという典型的な無宗教の日本人である。

宗教としてのGLAYとは。
同じ時代を生きる者として尊敬するもの。
実在の対象物としてだけではなく概念として、無意識的に常に自分の中に存在しているもの。
前提として、在ってあたりまえのもの。
それに加えて、「推し活」が一般的になってきたことでかなり世間的にも理解が進んだと感じるが、宗教的な構造として「啓示」「布教」「お布施」にあたるような事柄も存在すると考えている。

依存しているのではなく、共に歩んでいる、そんな感じ。
先日発売されたE.Pの一曲にもうたわれているとおり、まさしく”Buddy”だなと思うのだ。

焦る気持ち募るばかり自分がわからなくなっていっても
信じる人がいるならいい悔いなく生きよう
人生はせわしないから

悔しさを蹴飛ばし喜びを噛みしめ時々は贅沢してみたり
いつだってオマエは俺にすりゃ相棒この先も行こうよ行けるところまで

いつまでも楽しくそんな事ないのにオマエには永遠を感じてる
分け合った時間は何よりも尊いね ありがとう
出会ってくれた奇跡を
運命を

とりあえず2人でやってきたここまでたくさんの愛情に守られながら
相変わらずふざけてそれなのに真面目に愛唄うオマエが愛しい

失ったものを数えるな 今ある笑顔がすべて なぁBuddy
心ひとつ真新しい時代の足音が聞こえてくるだろう?

『Buddy』/GLAY,作詞・作曲:TAKURO,編曲:GLAY・SEIJI KAMEDA,2023



2003年頃に書いた文章に修正・加筆。

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