見出し画像

現代の虚無と分裂と、あいだとつながり

物量的、物質的に豊富で、あらゆるものにアクセスしやすい便利な現代。
そんな、一見恵まれて生きやすそうな環境に置かれているはずの現代人は、なぜか多幸感どころかよくわからない虚無感を抱きがちな気がする。
このよくわからない虚無感の正体は「つながり不足」なのではないか。これが最近の、2022年のなかでいちばん大きかったわたしの発見だ。

「もの」と「やること」がつながっていない不自然な現代

かつては人間は自分の欲求を満たすためには自ら動くことが当然だった。
そのものがある場所まで自分の身を運んで行くこと。
そのものを自分の手で作り出すこと。
「もの」とつながるには自分で動きを生み出すこと「やること」が必要だった。

現代はあらゆるものにアクセスし易いと書いたが、それは「やること」無しに、目の前の溢れている「もの」に接触できる状態だ。
食べたい料理、聴きたい音楽、着たい服、見たい景色。サブスク、SNSなどネットでポチれば簡単にそれらの「もの」を目の前にできる。
このアクセスは、「ポチる」という指先が軽く接触する、その「もの」を目の前にするための「動作」であり、その「もの」に向かっていくための「やること」ではない。

元来なにかを「やること」が「もの」と自分とのつながりだった。今はそのつながりがなくても「もの」が手に入るようになった。と、人は思っている。
本当にそれでその「もの」を手に入れたことになるのだろうか。「もの」によって欲求は満たされるのだろうか。
つながりがない不自然さ故に人は欲求を満たせないのではないだろうか。
虚無の正体は本当は満たせていない「つながる」という欲求ではないだろうか。

溢れた「もの」に自分が埋め尽くされる

「やること」と切り離され、飽和して浮遊している「もの」に人は簡単に接触でき、しかもその接触で人は欲求を擬似的に満たしているように思う。この擬似的満足によっても現代人の虚無感は生まれるのではないか。

自分が求めるその「もの」を得るまでに自らが動き、その動きの感覚をあじわい、かみしめていれば、そのときの景色・空気を通して、人は自分が所有したそれを「自分の(固有の)もの」として感じることができる気がする。
自分が動くことで、自分の中で自己とその「もの」がつながる感覚だ。
ネットで箱買い出来るペットボトルのカルピスではなくて、夏休み、茹だるような暑い日におばあちゃん家に行ったとき、原液を薄めて涼しげなグラスに注いで出してもらえたカルピスがわたしの好きな「もの」であるような感覚だろうか。

「ポチる」という一般的に誰もが無造作にできるひとつの動作で「もの」を所有できる。供給する側は需要する側の「無造作な一動作の数」を求め始める。SNS上の「いいね」の数のように。

この世に溢れたあらゆる「もの」とそれと簡単につながった気になれる誰でも何も気に留めず感じずできる「無造作な一動作」。現代人は、自分のよくわからない虚無感を埋めようとその一動作を簡単に繰り返し自分の内面を無意識のうちに、「もの」で埋め尽くしていく。「もの」だけが使い捨ての擬似満足の抜け殻として溢れ、元々の欲求が何だったのかわからないままの自分が一人そこに埋もれているのだ。

現代人は簡単に分裂する

このように「もの」と「やること」がつながっていないことが虚無の原因かもしれないと思うようになったのは、この本を紹介されて読んだからだ。 

精神病理学を専門とする著者は本の中で、
(この本が精神病理学の本というわけではないが)
具体例として彼が出会った分裂病(現代の統合失調症)患者の女性本人が話した彼女自身の内面を

「自然でなめらかな感情が出せない」
「自分というものが出せない」
「索漠とした感じがする」
「自分ではない人が
自分の中にどんどん入ってきて」
「他人が中心にいる」

「あいだ」 十六.  「あいだ」の病理としての分裂病より
括弧内抜粋

外部から見た患者の様子を、「分裂病的印象」として

「ぎこちなさ」
「不器用さ」
「状況への不適合」といった
外から見て感じる違和感

「あいだ」 十八.  「みずから」と「おのずから」より
括弧内抜粋

と記し、これらを自然さの喪失、自己の不成立の状態で、分裂病の最大の特徴だとしている。

これは「もの」と「やること」のつながりが失われた現代がまさにこの状態のことではないだろうか。
そんな現代を生きる我々人間の内面はいつ分裂してもおかしくない気がする。
たとえ分裂病と診断されなくても、つながることがない分裂した環境を生きることの結果が 虚無感≒分裂した状態 なのではないだろうか。

わたしの分裂と統合

この「あいだ」という本を読みながら、
ああ、わたしも分裂しやすいわ、というか、分裂してたわ、と思った。

わたしが分裂したのは2年前、それは恐らく「コロナ鬱」のようなものの症状だったのかもしれない。小1から踊ることを好んで自ら始めて以来、初めて精神的に踊れなくなった。ケガや緊急事態宣言中のブランクなどで物理的に身体が鈍った、動かせなくなったからというわけではない。
音に合わせて身体は動く。外見は踊っているように見える。でもわたし自身は踊った心地がしなかった。
そこに「振付」と「音楽」と「動く肉体」という「もの」が並べてあるだけで、わたしは何ともつながっていなかった。全て「なにか良いような感じがするもの」として空間に浮遊しているだけな感じで、まさに索漠とした感じだった。

そこから何をしてまた踊れるようになったのか、わたし自身が統合できたのか、正直なところ具体的な答えは出てこない。ただ、今になって思うのは、自分が関わるひとつひとつの物事に対して、あるいはその物事に対する自らの一挙手一投足を感じることに時間をかけるようにしていた気がする。

  • 「もの」とつながるためにみずから「動くこと」をし、

  • その動くことでおのずから湧き上がる感覚に自分の身体を研ぎ澄まし、

  • その身体からまた「動くこと」が生まれ、それに対する「感じること」をする。

  • 感じたことから新たに「動くこと」をする。


「動くこと」と「感じること」のサイクルを繰り返す。
七面倒くさい、まどろっこしい、いちいち時間のかかることだが、この「みずからすること」と「おのずから感じること」の行き来を続ける。
でもそれは単純単調なルーティーンの反復に見えて、不変的なものではない。

毎日毎日同じ電車に乗っていても自分が視線を送る先、車窓から見える空、外の天気、季節の空気はその日ごとに違う。その時々で自分が思うこと、感じることも違う。

「みずから」と「おのずから」という駅のあいだの行き来は、そういう、いちいち、ちまちました、ささやかなことでつながりをつくる「動き」だと思う。

「つながる」ためには

自分がその「もの」に対して動くことと感じることのあいだに意識をおく。そうすることが「もの」と自分とのつながりを持てることの始まりになる気がする。
「動くこと」や「感じること」は現代人にとっては面倒なことかもしれない。そんなことをしなくても目の前には「もの」が溢れているから。
目の前の「もの」が答えだと思いやすい。手っ取り早くで簡単だから。
でも簡単に手が届いてしまうから、人は自分とつながってもいない「もの」に埋め尽くされ、動けなくなる。
動けず、感じるためどころか動くための感覚も麻痺していき、何ともつながることなく、じっとしたままいつか来る死を待つのみ。
そらまあ虚無るだろうね。

虚無で凝り固まってしまうのを防ぐには、「もの」に埋め尽くされていない、動けて感じられるスペース、「あいだ」が要る。
スペースが要るとわかるには「動く」ことでぶつかり、狭い、息苦しい、動きにくいということを「感じる」ことをやらないと気付かない。
気付いても、その不快さゆえに余計に動かなくなるかもしれない。「動き」は不快なものと思い込んでしまうかもしれない。
「動き」自体が不快なのか?本当に?と自分に問えるか、立ち止まれるかで「つながる」可能性は変わってきそうだ。

さいごに (余談とか謝辞とか)

わたしが入っている某奢られインフルエンサーのもと集まった読書サークル内では読書からコミュニティやネットワークについて研究会が発足している。(コミュニティやネットワークも「つながり」のことだよな、と思っている)

研究に応じて課題図書になっている本からコミュニティやネットワークの構造について仕組みを学ぶことは、社会的生物である人間にとって重要だと思う。
そういった本をよそに別の本を読んで思ったことで且つ、コミュニティやネットワークについての学習に限らず、どんなことにも言えることだと思うことだが、
つながるための「あいだ」を感じること、感じるために動くことが本の内容、その仕組みや知識を身に落とし込むために必要なことだろうなと思った。

とても抽象的で何のことかわからない内容を書いたと思う。本を貸してくださった方のnote記事がはるかにコンパクトにまとまってわかりやすいかと思うので、以下2つの記事を是非。

改めて、とてもおもしろい本を、とんでもないゆっくりペースで読書するわたしに長期間貸してくださったことに心から感謝したい。

「もの」に何も不自由しないのに虚無感に陥るときに問うてみたい。
その「もの」と本当に「つながっている」のか?
つながるための「あいだ」があるか?
その「あいだ」でみずから「動き」、おのずから「感じる」ことができるか?

数日前にTwitterでこんな投稿が流れてきた。

神経細胞は神経を通わせるために接続先を探して動いている。生物の身体を構成する目に見えない微細な単位で、生きるためにつながりを求めて動いているのだ。
「動く」からこそ「つながる」ことを細胞単位で我々は生きる物として知っているはず。


動くことを思い出そう。
動いたらそのときのあらゆる感覚を味わおう。
「つながる」までの「あいだ」を楽しもう。
たぶん幸せに生きるってそういうことだと思う。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?