4月 後編

11日 疑い




オフィスにて、遠くから通称アイツの声が聞こえてくる午後一番。
アイツとは上司である杉本さんのことで、まーた誰かに文句垂れているようだった。
よくあんなに文句が思い付くものだと周りから陰口を敲かれていることにも気付かない彼へ、来るな、来るな、と。
皆ただ只管にそう願うしか回避方法はない。けれど。

嗚呼。

「宇乃ー。お前は上司にコーヒーを淹れるくらいの気を遣うこともできないのか?」
脂ぎった頭に蛍光灯を反射させ、わざわざ道を逸れてまで近くにやって来た杉本さん。
「ハーッ。全然使えないのによくうちの会社入れたな? 何? 何かのコネでもあった?」


「あかちゃん大丈夫?」
席を外していた櫻井さんは杉本さんと擦れ違ったらしく、その後声をかけてくれた。

「大丈夫です、ありがとうございます」
言いながらコーヒーに口をつける。
「自分の会社だとでも思っているんですかね…。というかアイツ絶対宇乃さんが美人だから構ってくるんですよ」
「いやいやいや」

温くなってしまっていたコーヒーから顔を上げた私は向かいの河合ちゃんを眸に映してありがとう、と笑う。こうやって気にかけてくれる人がいるだけでどんな嫌味を言われても平気だから有り難い。

「アイツ四月になって新入社員が増えたからって見栄はっていつもの倍偉そうにしてますよね。…いいですよね、上から見てそれっぽいこと言って『俺が育てた』顔していれば良いだけの人は。そうではない人が多いことも解りますけど、それで給料貰っていることが腹立たしい」

河合ちゃんは饒舌に、去る杉本さんの背を睨みながら口にした。

「やはり、企画部長がアイツのコネで入社したって本当ですかね。本当だったら相当なズルですね」


え……?

「まあ、河合。それ本当かどうかも判らないし、あまり強く言い過ぎるの禁止な」
「はい」

櫻井さんの声は、もう私の耳には届いて来なかった。


お昼休み。
食堂に足を運んで和風定食の食券を買っていた。

「Aでおねがいします」
「はいはい和風定食ねー。ちょっと待ってね」
隣にずれて暫く待つと、食堂のおばちゃんが定食をお盆へ乗せてくれる。食堂は賑わっていて職員さんたちも忙しそうに動き回っていた。
「はい気を付けて持って」

「ありがとうございます」
適当に席に着いて、箸を割る。
「いただきます」

黙々と食べ進めていると、目の前で椅子を引く音がして少し顔を上げる。
「前良いですか?」

「ん、どうぞ……あ」

「こんにちは」

前の席に腰を下ろしたのは花吹さんだった。


先刻話題に出ていた彼。「お疲れさまです」と会釈しながら一人気まずくなってしまう。

というか、私は話しかけない方がよかったのでは……。

自分から話しかける分には良いってことなの、かな。

その場合は許されるってこと?
何それ。
都合良くってそういうこと?

「宇乃さんは和食派ですか?」

「…べつにそういうわけでは」

ムカムカと湧き上がる感情を抑えながら、冷たくも返事する。

どういうわけか、苛々する。
自分から話しかけることは良くて、私からは話しかけるなと言う。

彼が何を食べているかは気にならなかった。

「さっき杉本さんから何か言われてましたよね」

花吹さんには関係ない。
何か言ってしまいそうで、堪えながら早くこの場を立ち去ろうと箸を進める。

駄目。
今何か言われたら言ってしまう。

この憤りを思い切り。

だから、どうか今は何も言わないで。

お願い。


「気にしないでください」


「ーーっ」

私は目の前の花吹さん目掛けて、そこにあった水を掛けた。

「……」


一瞬驚いたようにも見えた彼は黙ったまま髪を掻き上げる。


『気にしないでください』?
何それ。
入社したばかりの人に何が解るの?
しかもズルをして入ってきたような人に。

自分の方が解っているって言いたいの?
何を?
自分の力じゃないくせに。


腹立つ。

どういう訳か視界は滲んだ。


私は、取り出したタオルを彼の目の前に投げ捨てるようにして放った。
顔すら見る余裕もなく席を後にした。




トイレを目指して早歩きしている時にはもう、既に酷い自己嫌悪に襲われていた。
眉間に力をこめていると通りすがりに誰かの肩に当たった気がして咄嗟に視線を上げ会釈する。

「宇乃くん?」

「……あ」

「やっぱり。……来なさい」

「え」

その人に言われるがまま、逆らうこともできず後をついて歩くことになる。

泣いたこと、気付かれただろうか。そんな不安を余所に、目の前を歩く人は影になって周囲に目立たないようにしてくれていた。

その人は、本部長だった。
各部門の責任者。

以前縁がありお世話になったことがあった。
歳は40代後半くらいだろうか。私と大差ない歳のお子さんがいると聞いたことがある。所謂ハーフで、仕草も紳士的に映って、それが印象的だった。

「成瀬さん」

裏庭までついて行って、私はやっと声を掛けたが想像以上に鼻声で自分を疑った。

「どうされました、か」

何と言ったらいいか考えてなくて、途切れ途切れに問いかける。成瀬さんはにこ、と微笑み、ベンチに腰掛けるよう促した。

「何かあった」

そう切り出す成瀬さんの優しい目に、再び堰を切ったかのように涙が溢れてくる。どうして涙が出てくるのか判らない。けど、泣いたらだめなのに。

「さっき、聞こえた?」

涙を止めようと息を止めていると、それには触れないでいてくれる成瀬さんが映る。
「廊下で、濡れた花吹くんが同僚に“宇乃さんに”と声をかけられていた」


その名前に肩を揺らす。成瀬さんはそれを見てか見ないでか、

「彼、“宇乃さんがどうかしたか”と返していたね」

そう微笑った。


「今この話をするのは空気を読まないってやつかもしれないが、宇乃くんは商品企画部だったね」

「…はい」

「君はどうして仕事を成すかな?」

「え?」

間を置いて拍子抜けする私に、成瀬さんは言い直す。

「商品を形にしていく上で君はどうやってその商品を提示する?」

「……イメージを言葉や資料に表します」

「そうだね。どれ程良く、最高品質で完璧、利益も得られる商品が思い付いたとしても、それを言葉を使って表さなければそれは君の頭の中で留まるしかない。今君は花吹くんから離れても涙が出ていて、私の目には何かを伝え忘れてしまっているように見える。だから是非伝えてみてほしい。君の考えは他の誰かに伝える価値のあるものであり、君はその能力に長けていると見込んで南野さんとーー配属を決めた」

「え…」

ふふ、と顔を綻ばせる成瀬さんと後悔いっぱいの私。私は、そう言ってもらえるようなことをできていないのに。

「私」
「花吹くん悪さをしたかな」

「流石に“コネ”は死にもの狂いで就活した私達の敵だ! と思ったし今までを知らないのに上から目線だったのには下手なプライドが働いたかもしれなくて…でも、花吹さんは何も悪さはしてなくて。私勝手に、一方的に、上手く言えないのですがこう…壁? を再建されたような…すみません」

支離滅裂。成瀬さんは声を立てて笑った。

「…………ん? “コネ”? 誰がかな?」


「え? 花吹さんーー」


「部の噂か。参ったな、急に花吹くんが可哀想だ」
成瀬さんは顎に手をやって考え込む。
「どういうことですか? 花吹さんは、杉本さんのコネだと」

「それは違う」

首を振ってはっきりとした口調で言われる。

「宇乃くんは数年前に自社から商品化された“笑って ポット”という商品を知っている?」

「それは、はい…勿論です。祖母も母も使っていていつもベランダにありました。TVもCMもやってましたよね」

「あれは当時学生だった花吹くんが協力してくれたから商品化できた物で。そうして彼は部を救ってくれたんだよ」


成瀬さんは横目で私を捉えてそう言った。








「あっ宇乃さん! 部長にしてやったって聞きましたよ!」

河合ちゃんは猪の如くオフィスに突っ込んで帰還した私に目を細めて言う。

「河合。あかちゃんそれどころじゃなさそうだからせめて嬉々とするの隠しなさい」


どうしようどうしようどうしよう……!

私は大阿呆だ。

大馬鹿だ!

オフィスチェアに勢い良く座り猛烈なタイピングを開始する。
「どどうしました宇乃さん!?」

「多分手出すと切られるよ」
「ヒィッ手だけは止めて下さいッ手だけは!」

「ほう、足ならいいのね。ほうらその美脚を出してご覧。宇乃マシーンの前に」

「宇乃マシーン!? もう名前が恐ろしい……!」

「宇乃マシーンと河合美脚、先方から資料来たから展開しておくね」






「お疲れ様ですっ」
「お疲れ様」
「お疲れ様です…」

華麗に立ち上がったつもりが長時間座り続けていたからか、若干立ち眩み。
それでも、本日は残業なし。お早いお帰りです。

河合ちゃんに関してはげっそりした顔つきで見つめてきている。
うん、見つめてきているというのがもう、ね。

椅子にかけてあった上着を手に取る。

「あかちゃん本気だったね」

櫻井さんに向けて歯を見せて笑うと、彼ははにかみ静かに頷いた。

「ああ恨めしい恨めしい恨めしや」
「悪霊退散」

などと言いつつ、内心バックバク。

「それではお先に…」

「夜道には気を付けて。お疲れ様」
「はい。…河合ちゃん」
「河合は現在退散されている途中です」
「下の自販にピーチジュース」

机に突っ伏した彼女が肩を揺らすのを見届けて、帰路についた。




とはいっても。

怒っているだろうな…花吹さん。

ズルだ何だ好き勝手思われてその上水までかけられて、怒らないわけがない。
恥まで晒されて。最悪だ。最悪。私は悪魔だ。

そういえば、すぐ言い返されなかったのはどうしてだろう。

折角応援していたお隣さんが同じ会社だったのに、その始めを台無しにしてしまった。罪悪感で胸がいっぱいになる。

「ふー」

家帰って、花吹さんと会わないまま明日会社で会うのだろうか。
その時彼は私と話してくれるだろうか。

そんなことを思い詰めていて、不自然な足音にすぐには気が付けなかった。


暗い夜道。

不意に、コンクリートに響く音が耳に纏わり付いた瞬間があった。

私のヒールの音に続く、

誰か別の足音。

不規則に聞こえてくるその音が、やけに妙だと感じて突然、ゾッとする背筋。

冷や汗が背中を伝う。

『夜道には気を付けて』

いつも櫻井さんが言ってくれるあの文句を今一番脳裏に思い出している。

まさか。
と嫌な想像をする頭を振りきろうと、深く息を吸う。


「……っ」


意を決して振り返ると、

そこには誰の姿もない。


恐ろしくなって、足早に家への帰りを急いだ。


もうその日その後は何も聞こえて来なかった。

早く、早く家に着くことを願った。




13日 続く闇




「乃さん」

「宇乃さん」


「は、い」
重たい頭を上げる。

「どうかしました? 昨日から何か疲れてないですか」

「ううん」
笑って頭を左右に振った。

「何かあった?」
続いて櫻井さんも振り返る。

「いえ、何も」

嘘。
本当は、一昨日に引き続き昨日の帰り道もあの足音を聞いた。
一昨日は気のせいだろうと思い込むようにして、昨日の帰りはその出来事も忘れていたくらいだった。でも、同じ。

音が気になって振り返ると、そこには誰も居なかった。

「具合でも悪いですか?」

「…ちょっと、頭が痛くて」

「風邪?」

「風邪ではないと思います」

笑って誤魔化す。
不自然に映ってないだろうか。そればかりが気になった。

「今日は早く帰って寝てください」

「はい」

櫻井さんも頷いている。優しいふたりに、本当は怖くて、また帰路につくことが怖くて、席を離れることができなかったとは言えなかった。

「顔色悪いですもん」
廃棄書類の束を持った河合ちゃんが、私の顔を覗き込んで言う。

「そうかな」

『一緒に帰って』なんて、絶対言えない。

もし一緒に帰って河合ちゃんに何かあったらと思うと、それこそ怖かった。

櫻井さんも。
いつも遅くまで仕事している姿を見るのに邪魔なんてできなかった。


「じゃあ、お言葉に甘えてお先に失礼します。ご心配お掛けしてすみません」

頭を下げて、席を離れる。
その瞬間から頭の中は帰り道への恐怖でいっぱいになっていた。






ぼうっとしていると後ろで車道を走る車の音にさえ反応してしまうようになった今、聞こえてきた“あの“音にはすぐ肩が跳ねた。

「……っ」


今日、も。だった。

首筋から背中に掛けて寒気が襲い、指先まで震えが伝わる。
押し切るように暗闇の中を進みながら、視界の中では無意識の内に『誰かーー』と助けを求めて探していた。
誰かを見て安心したかったのかもしれない。
そうして探すことで気を紛らわせたつもりになっていたのかもしれない。

ただただ、怖かった。


一度、振り返ると、やはり誰もいなかった。


ここ数日、普段より数倍長く感じる帰り道を経て家に着くとどっと疲れが襲った。それなのに、どうしても眠りにつくことができなかった。



オートロックの先の、エントランスにあるひんやりとした空気がいつもは全く気にならなかったのに、最近は酷く静かで不気味に感じられた。
床に響く自分の足音でさえ、怖かった。
エレベーターに乗って、自宅の階を押す指先が震えていることに気が付いた。

音もなく開くエレベーターの扉。

ここまで来れば聞こえないはずの音が前から聞こえて反射的に顔を上げた。


「……ぇ…」


視線の先で、私を見下ろしていたのは。

お隣の、彼だった。


誰かを、知り合いの顔を見た安堵感を感じる間もなく瞬きしたら零れそうなくらい瞳に溜まっていた恐怖のそれを隠すように下を向いた。

「こ、んばんは」

「……」

エレベーターを降りてどうしてか何も言わない花吹さんの前を通り過ぎ、自分の家に入った。




14日 救世主




翌日の土曜日は夕方から出勤予定だった。

気が付くとお昼で、いつの間にか眠りに落ちていたようだった。ここ数日眠った気がしない。

シャワーを浴びても食欲はわかなくて、どうにかパンをつまんで済ませる。
スマホのロック画面には櫻井さんからのメールの受信が知らされていた。

『河合ちゃんのお昼』

絵本みたいな題にファイルが添付されている。
ファイルを開いてみると、添付されていた写真には河合ちゃんの小さめなお弁当の横に10缶ほど積み重なったピーチジュースが在った。
思わず噴き出す。早速買いに行ったんだ…。

すると、追ってメールが入った。今度は河合ちゃんから。

『蒼い顔した宇乃さんになら、一缶くらいあげてもいいですよ。十缶で千円ですから。これ程安く買える幸せがどこにあると思いますか? 弊社の自販機です』

再び笑う。恐らくふたりなりに元気付けてくれているのだ。

スマホに向かって小さな想いを込めて微笑む。

そして、尚更巻き込めないと思った。


だから、もし今日もだったらちゃんと警察に言おうと思う。ずっと暗いを顔してへこんでいる訳にもいかない。
こうして心配してくれる人がいるのに。



「お疲れさま」

「うのさん」

出勤後河合ちゃんの席を通り過ぎる時に声をかけると彼女は顔を上げる。
櫻井さんは席を外しているようだ。

自分の席に鞄を置こうとすると、机の上に付箋付きの缶ジュースが置いてあった。
付箋には『宇乃さん専用!』と書かれている。

「ピーチジュース…」

バッと河合ちゃんの方を見ると、こっちをチラ見している河合ちゃんと目が合う。

「河合ちゃん…」

「たまには宇乃さんを元気付けようと思い立ったまでです」

「可愛い河合ちゃん…!」

抱きつこうとして「ギャグですか。要りません」と一蹴されてしまった。危ない手はさっと仕舞って今度抱きついてやる、と決意する。

「ありがとうございます」

ピーチジュースを含め、河合ちゃんを拝んだ。






「ーー宇乃さん、もう終わりですか?」

「ん、んー。そうだね終わりにしようかな」

「下まで一緒に行きましょう」
「うん」

席を立った河合ちゃんに続いて私もパソコンを閉じ、立ち上がる。
櫻井さんは今日は私が入って割とすぐ上がったから今はいない。

「今日小山さんが実験室を爆発させてました」

「え!?」

エレベーターを待っている間放り込まれた話題に、一気に興味を持っていかれる。

「小山さんってあれ、この前も」

「そうです」

小山さんは社内の有名人だったりする。
下睫毛の長い綺麗な顔をしている男の人なのだけれど、ちょっと、実験バカというか…。
助手の笑花(しょうか)ちゃんにはよく相談されていた。

笑花ちゃんは小柄な可愛らしい子で、常に小山さんに泣きを見ながらも一生懸命メモをとるような良い子だ。

「それだけでなく…クク」

口元に手をやり笑う河合ちゃんを不気味に思いながら話の先を待った。

「そこに通りがかった花吹部長がすぐさま現場に駆け込もうとしたのですが…。あ、私はその近くの自販機にピーチジュースを買いに行っていて一部始終を」

そっか、実験室は自販機と同じ一階だ。

「花吹部長、実験室のドアの目の前で…思い切りお転びになって」

「ヘェ!?」

変な声が出た。
ああどうしよう、ちょっと想像できる。困る。

「花吹部長、転んだ後すぐ起き上がらなくて。それで変な音がしたと思ったのか小山さんがミュージカルばりに盛大にドアを開けて」

「ふふ…うんうん」

「目の前で倒れている最中の部長を見ての第一声が

『…どうしたァ!? おい笑花、人が倒れている!! もしかするとこの爆発に巻き込まれたのかもしれない!! 早急に担架を手配しろ!!』

…なんですよ」

「アハハハハ!」
私達は爆笑を抱えながら到着したエレベーターに乗り込んだ。

「爆発した中にいた人間が全くの無事なのにどうして外にいた人間が爆発に巻き込まれるのでしょうか。ミステリーです。それで倒れているのが花吹部長というのがもう…ツボで」

「ドラマみたいだね」

「助手の方は小山さんの叫びだけを頼りにすぐ電話して担架を呼んで、廊下に出て部長を見てギョッとして、

『え!? この方、新任の企画部長さんでは……!?』

って」

「それで小山さんは」
「『なァ!?』と」

「ハ…もうお腹痛…」


「極め付けは何と花吹部長、そのまま迎えに来た担架に乗せられて、運ばれました」

「…………何故?」


「羞恥で起きれなかったのでは」
「運ばれた方が恥ずかしいよね!?」

「途中下車したでしょうね」

だめだ…可笑し過ぎる…コントだ…。


と、そこで私達は会社を出た。

「面白かった〜」
「なかなか貴重なものが見れました。では、私はここで」

「うん、ありがとう河合ちゃん」
「いえ」
電車通勤の河合ちゃん。笑みを浮かべて逆方向へ進んで行った。


私も、帰らなきゃ。


彼女が居なくなり、一人になると急に怖くなる帰り道。

また、いるだろうか。
聞こえるだろうか。

現れるのだろうか。

震える足を、暗闇に踏み出す。




コツ


暫く歩くとあの音は聞こえ始めた。

肩を揺らして足を速めても、追ってくる音。

自宅はもう、バレているのだろうか。
私のことを知っていてつけられているのだろうか。


どうしたらいい

怖い


弱みを見せた途端何かされるかもしれないという恐怖感が、ずっと在った。

さっきまで笑っていたのが嘘のように。

坂を上って、家が見えてくると安心する。いつもここで足音は途絶えた。


でも、今日は違った。

坂を上る途中も、その足音は途絶えることなく追いかけてきた。


心拍数が上がる。
息が上がって苦しい。

ーー今日、警察に行こうと決めていた私はマンションに立ち入る手前で思い切って振り返った。

やはり、電灯に照らされたそこには誰の姿もなく。

恐怖に駆られ前を向き直す。

「…っ…きゃ」

「ーーー…」
ぶつかった目の前には、何かを言いかけ私を見下ろす彼の姿が在った。

「…、え、花吹さ」
「しー」

目に溜まった涙に映ったスーツ姿。
彼は何を言うでもなく、私を見ず、通って来た道に視線をやりながら喋らないようにと示す。
そして腕を引かれ、明かりの点く方へ進んだ。

痛いくらいの力だった。


どうして。

何がどうなっているかも把握出来ないまま、力の抜けた私はその引かれる力に従うしかなかった。

エントランスに入り鍵を通される間も彼は何も言わない。でも。目の前の他人の背中が、これほど力強く感じたことはなかった。

頼っていいのか。
迷惑をかけているのではないだろうか。

ぐっと歯を食い縛り、嗚咽を漏らすことなく涙が溢れた。

冷たくなった腕を掴む指先は、温かかった。

エントランスを抜けて廊下に差し掛かるとき、花吹さんは私を連れて廊下の壁の窪みに身を潜めた。

「……」

暗くてよく見えないけれど、厳しい表情の中で心配そうに、私の腕を離したその手が頬に触れて涙を拭った。

「っ」
まだ、強張っている緊張感と警戒心、加えて見たことのない花吹さんの鋭い眸に肩を揺らす。
彼は、廊下の先へ視線を戻した。

救おう、と、してくれているのだろうか。

酷いことをしたのに。
まだ謝れていないのに。


その時足音はすぐ近くで聞こえ。

花吹さんは、ふ、と息をつき。


空を切る音に続いて鈍い音がした後にはもう、“誰か”が床に落ちる音が聞こえた。



「~~っつ~~!」


拍子抜けする声に思わず壁から身を乗り出すと、私を庇うようにして立っている花吹さんからは「あれ」と親しみ深い声が零れた。

彼はまだ怖い眸の色の余韻を残しながら、手の甲を振って床に落ちた人物を見る。

「………楓?」



「そーだよいってぇなぁ!!」


え?

花吹さんは叫ぶその人を無視してこちらを見たまま沈黙。私は困惑したまま花吹さんから床に尻餅をついている同世代に見える男の子を見つめた。

「ど、どうも、ってどうして泣いて!?」

「あ、いえこれは…っ」

急いで涙を拭うも、ぼろぼろと溢れ始めて急には止まってくれない。
もう怖くなかった。安心して気が緩んだから。

「……。どういうことか説明して? 楓」

「!! は、ハイ…ッ」

私から花吹さんの表情は見えず、唯々顔面蒼白になる楓さんの顔だけが不思議に映った。




家の鍵を開ける花吹さんの背中から醸し出される負のオーラの後ろに立つ私ーーと、“楓”? さん。
私も、怒られている気分になっている。

だって

だって

怖過ぎる花吹さん。

彼が震えるのも解る。
いや、ハッキリ言おう。

私も震えている。


「入れ」

「お、おー…」
「は、い…」

「何で宇乃さんまで震えて」

楓さんを中へ促した後、続いて入ろうとした私の前に立ち塞がる黒い影。

「じょ、条件反射といいますか」
「その条件反射いりません」

避けた花吹さんの隙間を縫って、私も中に通された。

二回目だ。

彼の家に通されるのは。

でも始めとはやっぱり違っていた。
散らかっていた段ボールは姿を消し、スッキリと纏められている。

ただ、彼らしい暖かい雰囲気は変わらずそこに在った。

「楓はそこ。正座」

「えええ」
「楓さん。ここは座っておきましょう」

私は率先して彼の隣で正座をきめた。

「だから宇乃さん」

壁に寄りかかった花吹さんが、私に続いて膝を付く楓さんに苛ついた視線を送りながら口を開く。

「しかしーーってどぇ!?」

不意に見た楓さんの姿。叫び声を上げずにはいられない。

「どうしたましたかその頬!?」

「……やっぱ腫れてます?」

「腫れているという境地を超えてます!?」

明かりに照らされ改めてハッキリ捉えられた楓さんの頬は、目元まで異常に盛り上がっていた。これ今花吹さんが殴った跡…!?

「太郎男バレだったんだから! 加減ぐらいしろよ!」

楓さんは涙目で花吹さんに向かって訴えかけた。

「…………………………ん?」

最早楓さんと私は以心伝心しているに違いない。
沈黙、長……!

両者そう思ったに違いない。

というか花吹さん元男バレ、男子バレーボール部! だから背が高いのかぁ。(?)

中学か、高校か。大学か。同級生とかだったのかなと思った隣の楓さんからは「痛い痛い太郎マジギレかよ帰りてぇぇぇ」と悲痛な叫びが聞こえてきていた。

「楓。そのくらいの報いは当然だよな」

「……!!」
「そ、それはもう……!」

楓さんはハッと泣いた後の私の顔を見る。

「俺の所為だった!?」
そうして勢いよく立ち上がり、私も立ち上がる。

が正座をしていた為お互いによろよろした。花吹さんの前で、よろよろした。

「ぷっ」
「ふふ」

「……」

「何か俺ら、生まれたての小鹿みたいっすね…」
「はい」

「かーえーでー!!」

「す、すみませんでした!! 本当に!!」

楓さんが頭を下げ、私の方が慌てふためく。
「いえいえ、大丈夫です! 結果何もなかったですし勝手に勘違いしていたのは私ですし」

「優しい」

チラ、と楓さんは悪さをした後顔色を窺うように横目で花吹さんを見た。
花吹さんは完全に座った目で楓さんを真っ直ぐ見つめ返している。

「だ、だって珍しく太郎が言うから気になったんだもん! お隣さんがき「オイ!!!」

花吹さんは楓さんの口元をぐっと抑えた。

あれ、デジャブだぞ?
これ私もやられたな……口止めの癖? なのかな……言い掛けた『き』って何だろう『気持ち悪い』だったら比じゃないくらい落ち込むな……尋くのやめよう…。

「むむっう!むむっううう!」
「……次、腹な」

花吹さんは何かを耳打ちし、それまでもがいていた楓さんはスンッと真顔で大人しくなっている。

「あの、おふたりは」

「言ってなかったですね。幼なじみです」
「っす」
「幼なじみ!」

「あ、改めて。伊藤楓です。歳は太郎と一緒で、太郎とは生まれた時から腐れ縁っつーか」
「そうでしたか…宇乃灯です。お隣の708号室に住んでいます」

楓くんは知っていたようにはにかんだ。

「…泊まって行く気だろ」
「おー」

「あ、じゃあ私もお暇します」
「泊まって行かないんですか?」

楓くんはニヤリと笑う。

途端、至近距離から花吹さんの手が飛んできて頭に命中した。

「気にしないでください」

「は、い。……花吹さん、送らなくて大丈夫ですよ?」

「え、…あ」
玄関を出ようとする私に続いて来た彼ははっとして動きを止める。
「そうでした」

照れ笑いを目にして、久しぶりだと思った。動きを止めてもなお心配そうな眸の彼を見て、私の“一人”を警戒してくれているのだと察した。
情が深いというか。

「……何か、眠れないとかあったら、何時でも呼んで下さい」

先刻の迫力が嘘のように微笑む花吹さん。私はそんな、大丈夫ですと答えながらドアノブに手を掛ける。
すると、楓さんがさっと壁に寄せて耳打ちした。

「太郎、酷いくらい心配してますね。多分灯さんが思っているよりも」

言葉を詰まらせると、

「まあ、原因は俺ですね。本当に怖い思いさせてすみませんでした」

そう言うから、私は首を左右に振って笑った。




15日 夜明けの僅か



鳥の囀りが聞こえてきて、窓を開けなくても天気が良いことを知る。
まだ少し眠れなかったけれど数日ぶりに目覚めが良くて気持ちが良かった。
もう、昨日も今日も怖くない。

私はいつものように、ベランダの野菜たちの様子を見に行く。


「あ」

外へ出ると隣から声がして、視線を向けると楓くんが手を振りながら「おはようございます」と小声で言ったところだった。

「わ、おはようございます」

今、6時半くらいだった気がする。まだ少し肌寒い季節の鉢合わせに驚きつつ私の方へ行っても良いか身振り手振りで聞いてきた楓くんに頷くと、彼はしゃがんだままカニ歩きで大穴を渡ってやってきた。
「お邪魔しまーす」

「はい。楓くん早起きですね」
「いやー昨日の今日で図々しく寝てられないっすよ」
「え」

固まる私を見て「冗談です」と悪戯に笑う。
良かった。

「花吹さんはまだお休みですか?」

「はい。ぐっすりです」

ただでさえ疲れていたのかもしれない。社内にいる間は見かけなかったけど花吹さんも昨日は土曜日だというのにスーツ姿だったし…。

「その太郎から逃げる為に、俺は早起きです」

「逃げる?」

「灯さん、太郎の寝顔見てみます? 怖いくらいですけど」

「寝起き機嫌悪いとかですか?」

「いいえ、全くの逆です。太郎はですね……まじで寝起き可愛いですよ……」
「!」

「あれはねー。やばいっすよ。まー俺はちょっと違う意味もありますが」

何かを言いかけて遠くを見つめる楓くん。過去にでも何かあったのだろうか。
「フフ。あ、見ます?」

「いえ、疲れていると思うし」

「そうですか? ……それにしてもこの穴、凄いっすね。昨日太郎から聞いて見て滅茶苦茶驚きました」

振り返る彼につられてふたりして大きく空いたままの穴を見上げる。うむ。私も凄いと思う。近々はそれどころじゃなかったし既に当たり前の中にいるのか忘れかけていたのか、気にならなかったけれども。

「凄いといえば昨日の太郎は凄く怖かったですね……」

「はい……」

とうとう私も遠くを見つめる要員と化した。

「俺も滅多に見ないです、ああいう太郎。前に見たときは確か、高校? や、大学かな。あーあれ高校か。そうだ高校の時に太郎のズボンを降ろしたんです。いつもならまだしもその時の太郎めっちゃ機嫌悪くてですね……あれ、怖かったなー」

「アハハ」

「普段怒らない奴が怒ると迫力ありますよね」
「うんうん」
「で、こうやって体力消耗するんでしょうね」

「なるほど」
想像して思わず笑ってしまった。

「まあ、俺は昨日左向いて寝れなかったですけど」

「あ」
まだ若干腫れが残っている左の頬。

「ふふふ…もう痛いのなんのって」

「大丈夫ですか」
心なしか涙を浮かべたように見える楓くんは不憫だった。

「右ストレート喰らいましたからね」

「それは痛そうです…」
「しかも、太郎の高校時代ね。アイツのスパイクはやばかったですよ。打つ瞬間豹変してましたから。…見ました? 獣ですよね獣。いつもああいう感じなのに。女子の言う“ギャップ“ってああいうことを言うんですよね」
「は、はい」

あれは確かに迫力あったし、正直半端なく格好良かった。
回想すると楓くんからの視線を感じた。

「太郎、一人暮らしすることになって何気にお隣さんというか、ご近所さんとの付き合い楽しみにしてたみたいで。うざくないですか?」

楓くんは真っ直ぐな眸をしていて、何だかんだ心配しているようだった。
そっか、そうだよね。幼なじみっていっていたし。

「全然うざくないです。寧ろ私の方が迷惑ばかりかけてしまっています」

そうだ。昨日折角謝るチャンスだったのに。

「迷惑? それはないと思いますよ。アイツ意外と世話焼きで、性分というか…もう、世話焼きたいみたいな? 迷惑だと思ってないっすよ」

「あはは。そう言ってもらえて救われます。ありがとうございます」

楓くんはいやいやと頭を振り、「本当のことです」と目を丸くしていた。

本当のことでも嘘のことでも、私には救いの言葉です。
そう心内では思ったけれど、声に出して言うと何だか重たい感じがするから頷くだけにしておこう。
そして、私はまだ花吹さんに謝れていない。

喉に魚の骨が刺さったような気持ちがつっかえている。


「さて。そろそろこの体勢も辛いし戻りますか」
「はい」

「俺太郎起きたら今日の所は帰りますけど、また来ます」

はい、と笑う。

「太郎のことで判らないことがあったら、本人に聞けない場合、すぐ駆け込んで下さい」

「分かりました、駆け込みます」

冗談か本気か分からないけれど、私もその口で返した。

「じゃ! 俺は帰りまーす。本当に、怖い思いさせてすみませんでした」

「ハハ、今度はぜひ声かけてください」

「はい!」

彼はやっぱりカニ歩きで花吹さんのベランダへ帰って行った。






10時過ぎ。テレビはついているものの中々頭に入って来ずすぐぼうっとしている自分に気付いて観直す。その繰り返し。
時々時計を見ては考えていた。

花吹さん、もう起きたかな。

早く謝りたいと思うのは、私の勝手な都合だよね。
それに、ちゃんとお礼も伝えられていない。
ごめんなさいと、ありがとうございましたと。他に何か、云ってないことはなかっただろうか。

それだけで伝わるだろうか。

席を立てば足先はベランダの方へ向かい、どきどきしながらドアノブに手をかける。

ごめんなさい。ありがとうございました。
心の中で呪文のように唱えながら、隣のベランダを覗き込む。
サンダルを履いて、外に出て。それでも見えないから、とうとう足を踏み出した。

「花吹さーー。!!」


「へ」

彼のベランダの窓に顔を出し、気配を感じて呼びかけて。

その後で姿を見て、ひっくり返りそうになった。

「ごッごごごごめんなさ」

アッ。
違う違う。今のは伝えようとしていた方のごめんなさいではなくて。花吹さんが上を脱いだ瞬間を見てしまったことへのごめんなさいで。

私は目のやり場に困って困って困った結果、自分のサンダルを凝視した。
花吹さんも花吹さんで、脱いでしまったTシャツをどうしたものかとおろおろしていた。
着直す?

着直さない?

着直す?

「宇乃さん」

声をかけられて恐る恐る顔を上げると、顔を赤らめた花吹さんが横というかそっぽを向いている。因みに着直さず、そこにあったものを咄嗟に着たようだった。

うおおおお私はタイミングの悪さの神か!?

「ど、どうしました…か?」

花吹さんや。どうしましたかって!


いや謝れよ。
てめぇ勝手に誤解した上に俺に水ぶっかけただろ?
ああん?

つーか礼も言えよ。
てめぇ助けてもらって何、何も言わねーで帰ってんだ?
ああん?
上等だ。
やっちまうぞオラァアア!!

くら、い。
言っても……ちょっと違和感あるけれど……。

「花吹様!!」

「は、はい!?」

「あのですね!」

私は両手を広げて威嚇のポーズをとった。何故わざわざ自分を辱めているのだろうか。

「!? は、い!」

花吹さんは何故かファイティングポーズをとった。

何故だ。

「ごめんなさいと、ありがとうございましたと!!」

「ごめんなさいとありがとうございましたと!?」


えっ鸚鵡返し……!?

私もそのまま言うという痛恨のミス!!

「違くて、私、今謝ることとお礼言うことをしたのです実は」

実はとは。
隠してなかったくせに。

「実はそうでしたか」

何でノってくれたんですか。
何て優しいんですか。

「昨日は、助けていただいて本当にありがとうございました」

深く深く、頭を下げた。

このまま頭が地面に着いても足りないくらいだ。


「顔上げてください」

「……」

「よかったです」

彼はそれだけを云って近くに来て、私の頬に触れた。

そしてそのまま抱き寄せられた。

「ぇ」

「よかった…宇乃さんに何もなくて」

心底、安心したことが体温を通して伝わって来て、声が、再び涙を誘う。

「あと、謝りたいこともあって…」

折角顔が隠れているのだから、声の震えは悟られないように。
あの石鹸の香りがする服に涙が溢れてしまわないように。

花吹さんの左手は、私の髪に置かれている。

大きくて、綺麗で、優しい手。彼は、私を抱きしめたままだ。

どんな表情をしているのか今は見えない。


「水をかけたこと、本当にすみませんでした」

「あー、そんなことありましたっけ」

降ってくる優しい台詞に、言葉が詰まる。
すると花吹さんは溜め息をついた。

「それなら、頼みを聞いてくれますか? そうしたらこの件はどちらが悪いもなしです」

「頼、み?」

思わず顔を上げた瞬間、思ったよりも花吹さんの綺麗な顔との距離が近くて驚いた。
でも、花吹さんは上から微笑んで私の額に自分の額を寄せている。

「付き合ってくれますか?」

「そ」

「そ?」

「それはあの、お決まりの、何処かに行こうという付き合ってですよね」
「は?」

彼は小首を傾げて、

「何処かって? 夜、お酒、に付き合ってほしいです」

そう言ってぽ、と頬を紅く色づかせた。

ってどうしてそこで紅くなる!?
この近距離は紅くなる案件には満たないと!?

て、天然か……?

働く姿勢も見ているからどうもこの人が天然と結びつかない。

「ぜんぜん、お安い御用です……」

「ほんとですか!?」

一瞬、小動物の幻覚が現れた。
その長身からは想像つかないふにゃ、という笑い方をするから。
何だか可愛くて笑ってしまう。

「えっどうして笑って」

拗ねるでもなく怒るでもなく、ただショックを受けた顔をする。

「いえいえ、何でもありません。取り敢えず…離れましょうか、花吹部長」

「!!」
“部長”は物凄い勢いで後ろに跳び下がった。

「……っ……!?」

たった今自覚したようだ。
声にならないらしい。
そしてどういうわけか警戒されている。
いやいや私が抱きついたみたいになってますが、違いますよ?

「……」

「宇、乃さん」

「ワッ!」
「!?」

案の定肩を上げて驚いた花吹さんを、指をさす勢いで笑いつけると彼は真っ赤な顔をして、それから、困ったように眉尻を下げた。

「もー…」




真夜中のお茶会。は、少しだけキケン?





呑まれぬのは

今の内だけ?





「花吹さん」

「はぁーい。あっ」
月の光に照らされた花吹さん宅のベランダに足を踏み入れて網戸から顔を覗かせれば、テレビを見ながら頭にタオルをかけて胡坐をかく姿が目に入る。

彼は反射的に返事をして、膝をつきながら網戸までやって来た。

綺麗だなぁー…なんて。

差し込む月の光が、花吹さんの髪や瞳に当たって。美しい顔立ちが月の魅惑的な光に照らされて少しだけ、ゆらゆらと輝いている。

綺麗…。


「丁度お酒二本冷蔵庫にあって。花吹さんの頼み、今夜どうかなぁと思いまして」
笑って、両手に一本ずつ持った二本の缶を見せた。

「こんや」

きょとんと返す彼に急過ぎたかと思い「すみません、またいつか…」と缶を下げる。
「そういう訳じゃなくて…! 喜んで! 今そっち行きます」

そう言うと、花吹さんはタオルで乱暴に髪をぐしゃぐゃっと拭いて、サンダルを履いて来た。まだ髪が濡れている。
また、タイミング失敗しちゃったかな。

私達は穴を通って戻り、私のベランダでゆっくりと腰を下ろした。彼のさりげない誘導で戻って来たけど、そこにはいつか言っていた“気軽に男の人の家に居るのは危ない”という花吹さんの紳士的な思いやりあってのことだったと思う。

風が吹くと肌寒くて、髪が濡れたままの花吹さんを見上げると風邪を引いてしまわないか、申し訳ない気持ちが込み上げる。

「宇乃さん」

「はい」

「やっぱり、まだ寒いですね」
花吹さんは濡れた瞳でそう言うと、私の肩にふわりと、着ていたパーカーをかけてくれた。

「え、や、いい、いいです。花吹さん風邪ひいてしまいますから。私も上着取って来ます。あとおつまみも持って来ます」

私は早口になり持っていた缶を窓際に置きフローリングへ上がる。

「わーありがとうございます」

柔らかく笑う彼の肩にパーカーをかけ直して、私は上着を取りに行った。


「……っ」

うわあああああびっくりしたー…!

あれは、ああいうことを自然にやってしまう花吹さんはちょっと、心臓に悪い……。

火照った頬を摘まむ。
こういうお隣さんがいるお宅はどれくらいあるのだろうか。

お隣さんとは“こう”なのだろうか。

花吹さんが越して来て勤め先が同じということがあったからかもしれないけど、ご近所付き合いというものがどこまでなのか、いまいち距離感が掴めないでいる。

これは、アウト? セーフ?

分からない。

間違っていたらどうしよう。
もう、もう誰かに見て、審査してもらいたい。

落ち着け。落ち着くんだ私。

私…は、楽しい。
楽しい分には、それでいいのだろうか。
それともいけないことなのか。
ぐるぐると無駄に部屋の中を巡回してちょっとだけ、盗み見るようにして、花吹さんの背を見る。

「——…」

やっぱり、綺麗。


肩で羽織ったままのパーカー。

まだ濡れている髪。

その髪は月の光に照らされて。

しゃんとした背筋も。
何か、ちょっと、憧れてしまうのは何故だろう。

眩しさに目を細めて、上着を手に取った。


「お待たせしました」
おつまみを盛ったお皿を窓際に置きつつ隣に腰を下ろし、ふわ、と薫ったお酒の匂いに早速私も缶に手を伸ばす。
缶の開く良い音が夜空に響いて、口をつけた。


「っぷはー! 美味しい」

「———」


……。

ん?

何だか隣がやけに静かな気が……。


「はなぶ」

私はそこでやっと隣に目をやった。

「き、さ……」


え、寝てる——!?

こて、とズレて床に転がってしまった彼に声をかけようとして、一旦顔を前に戻す。

どうしよう。
寝るのは良いのだけれど、早寝はとても良いことなのだけれど。
私じゃ流石にこの大きな身体を背負えない……。

「おーい、はなぶきさーん…」

ごめんねごめんね、わいが背負えないばかりにごめんねと心の中で謝りながら、顔を近付けてすっかり夢の中にいる彼を起こそうとする。一応試みる。
ふと一般人A、か・わ・い・いー!!と叫びたくなるような寝顔を見せてくれる(?)彼を揺すりながら段々と起きなかったらどうしようと考え始める。

楓くん? は、連絡先を知らなかった。
管理人さんを呼ぶべきか否か。そもそもこの時間じゃ。

そんな困惑真っ只中、突然目が開きびっくりして飛び跳ねた。

心臓に悪い。
寝るのか寝ないのかどっちだ—って、あれ?


「花吹さん?」


彼は、虚ろな眸に私を映していた。
ぐらぐらと身体を起こすと後ろで開いていた窓を引っ張って閉め、背凭れにして寄りかかる。

「ね」


突然の、耳に慣れない切り出し。何を察したのか身体は硬直した。

「僕何でも言ってくら……んー舌がまわんね……くださいって、いいましたよね?」


「え」

何のことを言っているのか分からないけどもしかして花吹さん
「あっ、の」
怪しむと同時に缶を片手に覗き込む姿が視界に揺れる。

花吹さんは私をじっと見つめて急に距離を縮めた。

「ゎ」

近付いた花吹さんを避けるように反射的に身体を左に避けるも窓淵に手をつかれて退路を絶たれる。

「ちょ、ちょ、あの」

慌てて彼の肩を押した。

けれど驚くことに彼はびくともしない。

近い近い近い!

「聞いてる?」

「き、聞いてますから離れて下さいっ」


「そんなに僕のこと、嫌ですか」


「……へ」

母音になりきらない声。それに気が付かないくらい心臓がドキドキいっている。
花吹さんは肩から落ちかかっていたパーカーを羽織り直して表情を歪めた。

そして私の真横から手を離して元の場所に戻った。

「僕また間違ってますか」

その何だか辛そうな表情も、僅かに笑みを湛えているように見える口元も、月の光に照れてやはり綺麗に映った。

「心配で、気にかけたら貴女は何故か怒って」


何と返せばいいか戸惑って言葉に詰まる。心の中では猛烈に土下座をして地面に額を叩きつけていた。

「困ったときは頼って欲しかったのに、…言わないし」

「…はい」


「……。でも、それで僕、宇乃さんの腕隠れる時強く握ってしまいませんでしたか」
「え?」

まさかと思って握られた腕を見てみるもやはり何ともなっていない。

『大丈夫ですよ』そう返そうと顔を上げた時、その腕は拾い上げられる。


ちゅ

「!!!」

「力任せに連れて行って、すみませんでした」


目を瞑った花吹さんの唇が腕に触れて、謝罪の言葉と同時に解放されるも触れた部分が熱を持って脈を打ち始める。

「この距離も、おかしい?」


あ。

同じ。

この人も、距離感を掴めないでいるのか。

彼が身を引いて再び窓に寄りかかった後、私はおつまみに手を伸ばした。

「おかしい、ですかね? やっぱり」
膝を抱えてポツリ、ポツリと繰り返す。

すると花吹さんは、ふふと笑った。

不気味に思いながら見上げる。

「…おかしくないといいな」

そう柔らかく口にした花吹さんと、目が合って。その眸に金縛りに遭ったように動けないでいると、ふっと近寄った彼の唇が。

今度は、頬に優しく触れた。


「〜〜〜~!?」

「可愛い人」

クスクスと楽しそうに云うから何かと思い眉を潜めると、「ピーナッツが付いていた」と返される。

「教えてくれたらいいのに…」

「言うより早いと思って」

花吹さんは教えてって言ったのに!

羞恥に目を見開く。

「ね? 僕の気持ちが分かりましたか」

花吹さんは悠々とおつまみに手を伸ばした。

「まあ、僕のとは少し、違いますかね」

「?」
意味が解らなかった。


解ったのは、お酒を嗜んだ花吹さんがいつもより少しだけ、自らの照れを手放すということだけだった。






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