4月 前編
1日 ベランダの壁崩壊
春になると
皆 浮足立って
「芸能人の○○似の人が異動してきた」
「○○が辞めた」
「近くに新しい店ができた」
加えてお隣の707号室
管理人さん曰く亡くなった旦那の若い頃似、な人が
「越して来る」
だとか、噂しだす
その人を一見する前の私は
「(ラ○オウみたいなひと…?)」
震えが止まりませんでした
日曜日の明け方。
飛び起きるような大きな物音が聞こえた気がしたけれど、気のせいかともう一度眠りについた明け方。
これが、そう。
すべてのはじまり。
目覚ましが鳴っていることに気が付いたのはそれから数時間後のことだった。
「…………」
目を開けられないままどうにか音を止め、ぼうっとしたまま起き上がり、椅子の背凭れにかけてあるパーカーを羽織る。身体は気怠い。
キッチンで水切りから取ったコップに水を注ぎ喉に流し込むとやっと目も覚めてきた。日課の野菜の水やりの為、ベランダへ繋がるドアを開ける。
ここまでは、いつも通りだった。
「……ん?」
んん?
何かがおかしい。が、スッキリ〜♪した筈の頭がその把握に追いつけていない。
視線はその違和感の方を向いているのに夢かもしれない思った。
ドアを出て右手にある、お隣さんとの隔たりの壁。
に、穴が開いている……ように、見えるのですが……。
崩壊? 否、破壊。そうだ破壊だこれは。破壊されている。
「えっ……? ちょっと待ってどういうこと」
まさに目が点になった瞬間だった。
穴は人が通れるくらいの大きさで開いていて、ええと、その、ただの枠と化した壁を隔ててお隣さんのベランダが丸見えである。
土だらけのベランダ。
空き巣!?
いやいや。
一応オートロックだし、空き巣だったとしても数少ない空部屋を偶然狙ってしまってなんてそんな恐ろしくドジっ子なことはないだろうからきっと管理人さんが仰っていたお隣さんは越してきている。
昨夜私は土曜の残業に疲れて帰って来るなりシャワーを浴び、即眠りについた。だからもしかすると昨日日中に越してきて荷解きでもしていたのかもしれない。土の。土の荷解き。
兎に角この壁どうしよう。
どうしよう。
とても不安だ。
引っ越し早々隣の壁をぶち破ることが趣味の、ラ○オウみたいな人だったらどうしよう。
走って逃げれば大丈夫かな。
追いつかれるかな。
ラ○オウって、足速いのかな。動作を停止して突っ立ったまま考えた。
数分後、お隣さんの呼び出し鈴を押していた。
穴から初めましてパターンも考えたけれど初対面だし、もし追い出されなければこれからお隣さんだし、ちゃんと玄関を通そうという結論に至った。
一体どうしたのか話を聞こう。
ええ? お隣さんよ。よくも壁をぶち破ってくれたな、と。
すっかり覚醒した頭にオラオラ系な自分が加わって、腕を組むなどしてみる。
返って来ない反応。勢い任せに二回目のチャイムを鳴らすと割と早く音声が開通した音が聞こえた。
『はい』
想像していたより低くない男声を耳にして、管理人さんの言っていた印象がラ○オウの印象に勝ってくる。
「おはようございます。708号室の宇乃と申します」
『っあ、どうぞ中に入ってください』
そう言いきり、プツ、と遮断された音がした。
え、入って?
入れと?
一人暮らしかどうか知らないけれどそんな簡単に入っていいもの?
初対面の男の人の家とは。
一瞬沈黙を作った後、取り敢えず私はドアノブに手をかける。
恐る恐る玄関にお邪魔させてもらったはいいものの当人の姿はなく代わりに玄関から段ボールが点々と置かれた空間があった。
やはり、越してきたもよう。
「あの」
「い、ま行きます」
光の溢れる箇所から慌てた様子の声がする。
と、すぐにそこからタオルを頭に被ったままの男の人が姿を現した。
「すみませんこんな格好で」
そう言いながら近付くにつれ徐々に判る彼の容姿。
淡いベージュを腕捲りして、下のジャージも少し捲り上げている。タオルを掛けられた色素の薄い髪は濡れていてまだ水滴が滴っていた。
管理人さんの旦那さん? 本当ですかと声に出したくなるような顔立ちの彼は、背こそ高いがラ○オウにしては雰囲気が柔らか過ぎることは確かで。柔らか過ぎるというかもう背が高いことくらいしか共通点が見つからなかった。
「いえ、私もこんな格好なので」
部屋着の裾を握ってみせると、ふっと表情が綻んだ。
恐らく管理人さんが堕ちた笑顔だ。
「すみません、僕の方から挨拶――っと」
「!」
「す、すみません」
玄関端の段ボールに躓いた彼は急激に距離を縮めた。
腕が顔の横につかれ、突然のことに止まる呼吸。
背の高い彼の顔が私の頭上に来る体勢だから、髪から滴る水滴が落ちてきた。
途端、シャンプーの香りが漂う。
「つめ」
「あ、すみませんほんと、立て続けにご迷惑を」
静かな声で身体を離した彼を見上げると、その表情は紅く色付いていた。
「雫が」
彼は紅い頬を隠すようにしながら、私の頬に落ちた水滴をタオルで拭ってくれた。
思っていたより純情そうなお隣さんに、解れていく緊張。
「そういえば、何かご用があって?」
「あ、壁の件を」
「かべ――」
本気で忘れていたらしく一度不思議そうな表情を浮かべた彼は、思い出したのかみるみる内に目を丸くして後退る。
「す、すみません……!!」
目を瞑った彼は土下座する勢いで頭を下げた。
「何があったんですか?」
「あ……昨日の夜、土いじりを始めてしまって」
土まみれの原因は土いじりだったらしい。
空き巣じゃなくてよかったけど、何故土いじりから取り掛かったんだこの人は。荷解きは諦めたのか。
「立ち上がった時今みたいに花瓶に躓いてしまって……。で、こう、ドーンと行ったら」
「私の細々農園に辿り着いたと」
「立派な茄子が実りそうだと思いました」
「ありがとうございます」
暗くて足元の花瓶に気が付けなかったことくらいは想像つくけど、壁に穴空ける人間ってどんだけ、やっぱりラ
「いえいえ、僕は開けられてないです。物置に当たってそれが倒れて」
「ですよね」
確かにベランダの仕切りは非常時、突き破って隣へ避難できる素材で造られている。
彼は首を垂れたまま、申し訳なさそうに佇んでいた。
成程、一癖ありそうな青年が越してきたぞ。
「本当、申し訳ありません」
「いえ……ではとりあえず修理の件を管理人さんに伝えますね」
踵を返そうとすると肩を震わせた彼。
「カンリニンサン」
あ。
昨日越してきたばかりで問題起こしたじゃあ、上手くいくこともいかなくなってしまうか。
考えた私はドアノブに掛けていた腕を下ろし、代わりに口を開いた。
「やっぱり、言うの止めました。心配しないで」
声を聞き、やっと顔を上げた彼は驚いたような表情の後、戸惑いがちに安堵の表情を、でも、申し訳なさそうにふわりと微笑んだ。
笑う彼を見たら壁のことも、何だか困った隣人の困った話で済みそうな気がしてくる。
私は先のことも予想せず。
「有難いです。お隣さんが優しい方で」
途切れかけた話が続けられて、いやいやと困り笑顔を浮かべる。
「優しいひとは、自分で優しいって言わないから」
ふわりとした笑顔のように口にされた言葉が、贈りものみたいに耳へ届いた。
何だろう。
この人が持つ独特の、癒されるような空間は。
「名前」
そう切り出した彼に顔を上げる。
「言い忘れていました。改めて、707号室に越してきた花吹太郎(はなぶきたろう)です。こちらからご挨拶に伺えずすみませんでした」
「いえ、宇乃灯(うのあかり)です」
言ってから、素っ気ない反応をしてしまったと後悔。けれど彼は微量の好奇心を含んだ眸をこちらに向けていた。
「何かあったらすぐ言ってください。雷が怖いとか、ゴキブリが出たとか、変な虫がいたとか……泥棒は、ないかもしれませんが」
突然真剣な顔で言い始める彼が視界に入ると、自然に笑みが零れる。
それを見た彼はきょとんとしたけれど。
「お隣さんですから」
やっぱりふわりと暖かい笑顔が降ってくるのだった。
それから自宅に戻った私は、貴重な日曜を大切に過ごさなきゃという焦りを抱えつつ、家事、掃除、時々テレビでお昼ご飯を作り始め、時計の短針が12を指す頃顔を上げた。
サブリミナル効果の如くチラついたお隣さん。
彼を通り過ぎた頭の中は段ボールが散乱していた様子を映し出した。お昼大丈夫かな。フライパンとか出したのかな。出してなさそうだな。そんなことを考えている内に足先はベランダへ向かっていた。
穴を潜って他人の家に入るのに抵抗はあったものの思ってもみなかった便利さにそわそわしつつベランダに顔を覗かせる。
段ボール箱を片付けていた彼はすぐに気が付いた。
「どうしました?」
そう言ってベランダに寄ってきてくれた時には着替えていて、乾いた髪が窓から入り込む春風に遊ばれている。
「お昼ご飯、もしよかったら一緒にどうですか」
「えっ」
彼を見て感じる春風が微笑ましいと思っていたら、明るく変わる表情。
いいんですかお昼どうしようと思っていてと続けられ、それに頷くと眉尻が下がった。
「あ、まだこの辺りあまり把握できていなくて役立たずかと思いますが」
「あ」
「え?」
「すみません、もう途中まで作っていて……家、ですがだめだったら」
「だめ、というか。一応男ですけど大丈夫ですか?」
気を遣ってくれたと解るけど、きょとんとしたまま口にされた言葉に思わず固まってしまう。
「は、い」
戸惑ったままそう答えると、ふと緩んだ花吹さんの表情が大人っぽく映った。
「お邪魔します」
「どうぞどうぞ」
席に着いた花吹さんを通り過ぎ、キッチンで手を洗いながら若干自分のお節介を恥じつつ、その後炒めた菜の花のチャーハンを食卓に運んだ。
「美味そ……本当、ありがとうございます。迷惑ばかりかけてしまっているのに」
「いやいやこれは私の独断というか、なので」
申し訳なさそうな彼に笑って、向かいに腰を下ろした。
「いただきます」
彼は男の人にしては長く綺麗な印象の指を、手前で重ね合わせる。
「いただきます」
私もそれに続いた。
「テレビ、観ますか?」
「あ、気遣わないでください。…菜の花の、初めて食べましたがすごく美味しいですね!」
リモコンに手を伸ばしかけたのと同時に、チャーハンを口いっぱい頬張った花吹さんを見て力が緩んだ。
彼が驚いた顔をした後はにかんだことで、無意識の内に嬉しくて笑ってしまったことに気が付いた。
「ありがとうございます」
「こちらこそです」
「花吹さんは一人暮らし初めてですか?」
質問を投げかけてから、チャーハンを口に運ぶ。
「はい。そう見えますか?」
花吹さんはチャーハンを飲み込んでから答えた。
「んー」
じっと見つめると、心なしか彼の額が近付く。牧場で暮らす動物みたいな、短く可愛らしい睫毛を見つつ「そんな感じします」と答えた。
「うわぁ何か恥ずかしい。でも納得…。今の所、自立した要素何も――」
スプーンを持ったまま恥ずかしそうに顔を覆う素振りを見せて感情を声にする彼は、若く目に映った。
「もしかして。学生さんだったりしますか?」
彼はゆらりと瞳を上げる。
「…そう見えます?」
再び悪戯に返す彼に、これははいと言っていいのか、頭の中を巡る判断。
「少、し」
結果、曖昧になってしまう。
「凄いです宇乃さん。1か月前は学生でした」
「ということは…新社会人!」
「はい」
「おめでとうございます――お茶持ってきますね。……緊張してますか?」
「え」
席を立ちながら、言葉を詰まらせた彼を不思議に思って振り返った。
「今……ですか?」
私も思わずえ、と零す。
「あ、えと、社会人の方で聞いて」
「……。すみません、失言でした」
首に手を持っていき、ん゛っと唸る花吹さんの耳の端が紅く染まっていた。
「緊張、します」
仕切り直して小さく囁く彼が、目を合わせて微笑むから。また窓の外から、まだ少し冷たい春風が香ったような気がした。
どこに勤めるのだろうと思ったけど、そこまで踏み入れるのもあれかなと思い、聞くのを止める。
「頑張ってください」
キッチンから戻ってきて、烏龍茶を注いだコップを彼の前に置いた。
「ありがとうございます」
「もし助けになれることがあったら気兼ねなく言ってくださいね。友達に話すまでに間に合わないときとか」
含めた冗談の、割に合わない笑顔を魅せた彼はコップを手に取りながら言った。
「壁の件の恩返しが先ですね」
「いいですそんな」
「だめです。お詫びってお菓子とかよくありますけど、それじゃ気持ち的に足りないから」
「お菓子もケーキも好きです」
「欲しいものとか」
欲しいものって。
真顔で答えさせていただくとリップがきれそうだから買いに行こうと思っていたのだけれど。流石に、そういうことじゃないだろうし本当、気持ちだけで充分。
コップから顔を上げた彼は、カウンターまで食器を運んでくれながら口を開いた。
「ほんと、困ったことがあったら呼んでください」
「わかりました」
「今一番困るのは僕が壊した壁ですよね……ごめんなさい」
「ははは」
それには笑うことしかできなかった。
2日 新入社員、上司とコーヒー
「おはようございます」
「おはよう」
「おはようございます」
所属する商品企画部のオフィス内。スプリングコートを軽く折り畳んで席に着き早速パソコンを起動させていると、背中合わせの席に座る櫻井さんの声が飛んできた。
「あかちゃん、今日午前中会議だから」
櫻井さんはさらりと、いつか名付けられたおかしな渾名で私を呼ぶ。一応本名の灯からきている渾名だ。
「あれ、そうでしたっけ」
「うん。さっき急遽ね。昨日から新入社員が入ったから、その紹介メインにやるらしいよ」
そうか。
私も去年の今頃、緊張で破裂しそうな心臓をワイシャツの下に抱えてここに足を踏み入れたんだ。
「あれからもう一年ですか。信じ難いですね」
そう溜息を吐くのは、向かいの席の河合ちゃん。
彼女は同期だけれど年は一つ下。
「ねー。早いねー」
相槌を打っている後ろで、通りかかった上司が櫻井さんに「会議始めるぞー」と声を掛けたらしい。
彼に促された私達も続いて席を立った。
開いたばかりのパソコンは再び閉じられ、会議室への足取りを見送ることになる。
「よし。じゃ」
「うっす」
厳めしい顔付きの上司が言いかけるとゴマを擦ることもまだ知らないような若々しい社員が喰い気味に頷いた。上司は気にしていない。何だか微笑ましい。
彼も新入社員かと思っていると、隣の席に着いた河合ちゃんが「辞めないといいですがねェ……」とブラックな横顔を見せた。
その横顔に思わず目を点にしていると、会議室一帯に響き渡った声。
「本日より皆さんと共に働かせてもらいます、関っす!」
キーン、と。カラオケ映えするであろう声量、明るい声が書類に目を通していたり会話中だった上司たちを一斉に自分の方へ向かせた。
「まだ配属決まってないしこの会社はデカいし、まー滅多に会えないとは思いますが!会ったら宜しくお願いします!」
恐らく、「挨拶しろ」とでも言ったのであろう隣の上司さえ、びっくりしている。
「じゃっどーぞどーぞ」
緊張どころかきらきらと輝く彼は、難なく上司に手を向け自分の話を終えた。彼の傍の席に着いていた上司が、笑いながら「この会社の人事はほんと毎回良い人選をするなぁ」と言ったことで会議室が沸き立つ。
「ああ。ゴホン、昨年度まで仕事を共にした南野さんだが、周知の通り定年退職された。それに伴って新任の企画部長を紹介する」
持ち直す上司の説明を聞いて、そうだとはっとする。
これから”南野さん”いないんだ。
私は入社してすぐ、まだガチガチに緊張していた頃から南野さんというおじさん――企画部長には本当に、本当にお世話になった。
右も左も分からなかった私達に、時に厳しく、時に優しく社会のイロハを教えてくれた上司である。
大好きだった南野さんのいない席が、酷く寂しい。
河合ちゃんもそう思っているのか、同じように南野さんがいつも座っていた席に目をやっていて。
その視界の奥で上司が開けたドアの向こうを覗き込んで誰かに入っていいと声をかけているのが見えた。
数秒後、改めて開かれたドア。
男性が身に纏うスーツの切れ端が明るみに出た瞬間、目を疑った。
「新任、花吹だ」
コッ――、と。
真新しい革靴の音を響かせて入ってきた人物。
それは私の眸に、いつか見た映画のスローモーションのように映り込んだ。
「本日より前任の南野さんに代わり企画部長を務めさせて頂きます、花吹太郎です。誰かの心に残るものを、皆さんとつくっていく覚悟です。与えられたこの立場である前に皆さんの後輩として、一社員として。宜しくお願いします」
そう言って頭を下げ、顔を上げて微笑む。
“部長”。そう呼ぶには想像を超えたその若さにか。
室内に入り、ネクタイに手をやりかけて真っ直ぐ前を見やった彼のその仕草に、笑みの似合うこの端正な顔立ちにか。ざわつく中で、私だけが目を疑った。
目だけにこの驚きを留まらせた。
だってここで声を上げるわけにもいかない。
常識を手放さずに、踏んだ。
昨日、寝癖を放って、優しく柔らかく笑った彼とは似ても似つかないくらいには雰囲気が違う。想像つかなかったスーツを着こなしていても、聞いたばかりの声と名前が私の中にこだましていた。
彼は私に気が付き、同じことを考えたのかどうかは分からない、が。
「どうも」
それだけ、周囲にバレないくらいの仕草で伝えたかと思うと、軽く会釈をした。
それだけ。
本当に、それだけだ。
他人へ向けられた、形式的な挨拶のように。挨拶ともいかないような素っ気ない言葉たち。昨日の一連のことは全て夢だったのかもしれない。
「――乃さん?」
そう、思うほどだった。
「宇乃さん。会議終わりました」
「え、あ」
河合ちゃんに肩をたたかれてようやくこっちの世界に戻って来た私は慌てて腰を浮かせ、配布された数枚の資料を纏める。
「どうしたんですかぼうっとして」
疑い深く見つめる河合ちゃん。
放心してしまった。
そうだ、と纏めた書類を抱えて辺りを見渡すがもうここに彼の姿はなかった。
既に出て行ってしまった後で。
「行きましょう」
「うん…」
会議室を後にする。
その後会ったら、と考えたはいいものの、見掛けることは愚か会う気配すらさらさらなかった。
だからか私もその内そのことは忘れ、仕事に没頭していた。
「宇乃さん。お先に失礼します」
「うん、お疲れさま河合ちゃん」
「お疲れ様です」
彼女がオフィスを出て行って一息つけばマグカップのコーヒーがなくなっていることに気が付く。
振り返ると、櫻井さんもまだ残っていた。時計に目をやると短針は8を指している。
「櫻井さん」
「ん?」
「コーヒー淹れましょうか」
「ありがと」
櫻井さんはパソコンと向き合ったまま返事だけした。私はその横から机に置いてあるマグを手に取って席を立つ。
「あ、ブラックで」
「はい」
給湯室へ向かうと、明かりの漏れるそこから、夜にも関わらず底抜けに明るい歌声が聞こえてきた。思わずうわあと足を止めかける。
“砂糖がないのはどうして?
どうして俺は家から砂糖を持参しているの?
砂糖がないからだった、そうだった。
ウォーウォ。”
意味が解らない。
動け、私の足。
「あ、灯ちゃん……熱い視線をありがとう」
「……」
「アッ待って行かないで!ごめん、変な作詞してごめんね!?」
そこではない。
廊下の奥へ引き下がる私に手を伸ばしたのは、此処が社内だということを忘れてしまうほど自由な髪をしたTさん。
「熱い視線ではなくて冷たい視線です、仕事してください」
「ごもっとも」
口元だけで笑みを作ってワラう。
Tさんは微妙な心境を表した顔をしたが見なかったことにして、コーヒーを淹れるため隣に立った。
注いでいると、隣から伸びてきた指先。
私のマグカップへ角砂糖が一つ落とされて顔を上げた。
「そっちの趣味悪いマグカップは聖のだから砂糖要らないよね」
彼が『聖』と呼ぶのは櫻井さんのこと。
角砂糖が溶けていく間彼を見つめていると「ん?」とにこやかに返されて、この危うい柔らかさは流石だなあと思い。
香り立つコーヒーとは裏腹に、あまい笑みを浮かべる彼に口を開く。
「ありがとうございます」
「いーえ」
一応同じ部署ではあるけれど外回りの多い彼を給湯室に残してオフィスに戻る。
すると出て行った数分の間も惜しむようにパソコンと向き合い続けている櫻井さんの背が見えた。
なるべく音を立てないようにして湯気の立ち上がるコーヒーをデスクの端へ添える。
「ありがとう」
やっぱり気付かれてしまった後櫻井さんは椅子を軋ませてマグカップを受け取った。
「お疲れ様です」
「あかちゃんも。もう帰った方がいいよ」
相変わらず直らないというか直してくれないというか、この恥ずかしいあだ名は入社当時から変わらない。
「はい。これ飲んだら」
私は笑って、自分の机に置いたばかりのマグを手に取った。
「ん」
そう応えて再びパソコンと向き合う櫻井さん。
10分程経って、席を立った。
“お疲れ様です”を言いかけてやめる。邪魔しないようにしよう。
そうしてこっそりオフィスを抜けた。
今夜は、曇っていて星が見えなかった。
夜空を仰ぎながらいつもの坂道を上る。
一応天気予報を見てはいても、一日中オフィスで仕事ばかりしていると外の天気にも気が付けないでいる。
それが少し勿体無いような、残念なような気がして。
昨日が晴れていたかも曖昧で。
気にしてはいるけれど、あまり気が付けないというか。
何か。
何だか、寂しい、なんて。
あー、だめだめ。
見慣れたマンションに近付いていく中で、ふと思い出すことがあった。
そうだ。お隣さん。
閉まっているカーテンを目にして、きっと明日も、明日がなくてもその内、花吹さんとは会社で会うだろうと考える。何だか変な感じ。
それも、上司としてだった。
本当、複雑なお隣さんが引っ越して来たんだなぁ。
曇っている夜空じゃまだ何も見えない。
4日 警告を告ぐ
『気を付けてください』
こんなことになる前。
「あの」
お昼時。やっと、人も疎らなオフィスの端、通路を通り過ぎる瞬間を狙って花吹さんの腕を引いた。
振り返った彼は予想外だったのだろう。表情こそ変わらないまま眸に映していた。
よし、と腹を括る。
お隣さんであることと、これから。花吹さんがどうしようとしているのかやっぱり聞こうと思う。何と切り出したらいいかは分からないけれど動かないよりはましだ。
お昼ご飯を一緒に食べて以来家周辺でも会うことはなく、どうしたらいいのか分からなかった。
話し掛けない方がいいのか。
「あの、」
花吹さんは振り返ったまま、繰り返した言葉の先を見つめている。
「花吹さん、――!」
すると不意に、
背を曲げた花吹さんの手に口元を覆われ。
まだ核心に触れていない私を制すように、丁度柱が影を作る場所で、驚きに身を固める私は壁際に寄せられた。
突然のことに心臓は跳ね上がり、彼の作った影に取り込まれる。
冷たい手が触れ、視線が下された。
ドクドクと心臓の音ばかりが彼を目の前にして聞こえていた。
一体、何が起こったと。
距離をとろうと身を捩じらせると花吹さんはそれを解っていて無視をした。
強く押さえ付けられているわけでもなかったが、力で敵うわけもなく。
「気を付けてください」
「へ」
シー、と。唇に触れそうになる人差し指。
意味が汲み取れない私はそれを見つめることしかできなかったが、彼の表情は何も言うなと口にしているようだった。
話しかけない方がいいということなのか。
息ができなくて、苦しい。
5日 昼の噂
「灯お疲れー。今日お昼お弁当?」
「お疲れさま。ううん今日は外だよ」
お昼休み、オフィスから出てすぐの廊下でひらひらと手を振るショートヘアの彼女に気が付いて歩み寄る。
所謂受付嬢の制服の胸元に、“山下”とネームプレートが付けられている彼女――奇跡(きせき)とは高校からの親友。大学は別だったけれど、また会社で一緒になった。お昼休みが合う時は待ち合わせたりしている。
「パスタ食べ行かない?」
そう言って親指を外に向けるキセキに賛成し、ロビーに向かって歩き進める。
「お店どこ?」
「裏入った所にあるらしくて行ってみたくて。裏とか隠れ家とか限定とか、女子人気高そうだよね」
「確かに」
疼く探究心のまま浮かび合う笑み。
特別感ある言葉に惑わされ、もう頭の中はボンゴレスパゲティのことばかりだった。あるかも判らないのに。
「ボンゴレスパゲティのお客様」
「はい」
「失礼致します」
「カルボナーラのお客様」
キセキの前にも明かりに照らされてつやっつやに輝く料理を置き終えたウエイトレスさんが一礼して下がる。
女性客で賑わう、木造で居心地のいい店内。
店員さんの制服にある茶色のチェックが可愛いと呟いてからキセキはフォークを取った。
お互い、一瞬で料理に釘付けになる。
「美味しそ~」
「ん美味い!」
同時に呟かれた別の言葉に、思わず「はやっ」と顔を上げる。
本当に口一杯頬張って嬉々としていて、美人な彼女の表情が綻び可愛さ増し。
キセキはいつもご飯を美味しそうに食べるから見ていて幸せだ。
「あ、ねえねえ。今年……どこだっけ、あれあれ」
突然何かを思い出せなさそうに、眉間にフォークを持って行って考え込み始めた。
ボンゴレから視線を上げて首を傾げると、「どこだったかは忘れちゃったけど」と続けられる。
「今年も新入社員のパンチが強いって」
「パンチが強い?」
半笑いのままパスタを巻いていると、ふと脳内に会議室での――関くん?が思い出されてまさかそういうことかとはっとする。パンチが強い……。
当てはまっているぞ?
「あーいいなーあたしも見たいそういう話題の人。見逃してるだけかなー」
そして不服そうに巻かれるカルボナーラ。
「何の為に受付やってんだか」
「はい?」
「いいえ?」
「……おぉ」
「オウ」
オウオウ。
再びボンゴレに集中する。
味付け、濃くもなく薄くもなく麺もパサパサしていなくて、つまり凄く美味しいからリピートしよう。河合ちゃんにもお知らせしよう、うん。浅蜊美味しいなぁ。
「ちょっと、あさりばかり突いてるあかり。聞きなさいよ」
「凄い語呂良いね」
「イケメン紹介しなさいよ」
出たな。
山下・ミーハー・奇跡。
「またそんなこと言って。キセキか「あー!そういえば灯、商品企画部じゃん!」
私の言葉を強く遮り向けられたフォークに、反射的に身を引く。
「え、な、どうしたの」
ギラギラした眸が向けられている。スポットライトを浴びているような熱さだ。
こういうのが本気の熱い視線っていうのでは。
いつかの誰かにお知らせしたい。
「灯の所に女ウケ凄いやつ入ったでしょ!」
女ウケ凄いやつって。
あっ。
解ってしまった。険しい表情の前で手を組み、しかと頷く。
確かに姿が見えなくても廊下の方で黄色い声があがって、それが「花吹さん」と聞こえたりすれば、そこに彼の姿が在るってことが分かるくらいには人気者な人物が。
「どんな感じ」
「どんな感じ?」
どんな感じ、とは。
目で訴えると聞き返すなと視線の返信があった。
一度動きを止めた私のフォークに代わって聞こえてきたのは目の前からの期待を呑み込む音。
「例えば」
「例えば?」
「……」
反応が早過ぎる。
殆ど被っている。
「『せーの、花吹部長ー!』『ハァッ、キャーー!!イヤーー!!こっち向いたああッショイワッショイイケメンワッショイ!!!!』って声が」
「あれ、祭り始まった?」
「この祭りは順応性が高かった女の子たちにより毎日開催されています」
女の子たちの「年下うめぇ!!」という声が叫びになっているようで。
彼女らの殆どが同僚ですが。
生き生きとしています。『水を得た魚』とはこのことをいうのかと思いました。ええ。
「それ三次元の話? 競馬場のおじさまではなくて? 大丈夫?」
「三次元の同僚+先輩です。大丈夫ではありません。『……止めてください』って声も聞こえます」
「それがその人か」
「YESキセキちゃん。多分部長って呼ぶの止めてってことだと思うけどその後も皆の叫びは聞こえるから、照れながら言ってるのではなかろうか」
「成程。君の推測は合っているだろうな。もう想像は完全にイケメンだわ。見ずとも判る」
気が付くとキセキはもうフォークを手にしていなかった。
焦り始めた私に「いいよゆっくりお食べ」と声をかけてくれる。
「ありがとう。けどどうしてそこでイケメンって判るの」
「『……止めてください』はイケメンが言いそうだから。あとその祭りにはどこで参加できるかな」
「ん?」
「続けて」
「後はもう叫声の繰り返しです。あ、でも」
「でも!? 何!?」
「でも」
「早く言ってくれ頼む」
「たまに上司の『静かにしろ!』の声も」
「はい激しくどうでもいいで賞の受賞おめでとうございます」
「大分重要なのに」
向かい合う真顔に真顔で返すと同じタイミングで噴き出す。
ひとしきり笑った後再度フォークを動かし始めると「で、見た目は?」と続いたキセキの声。
視線を上げて、もう一度。
ん? と耳に手を添えて、菩薩の表情。
終わったかと思いきやまだ尋問は終わってなかったようだ。
しかも対する笑顔が怖い。かなり怖い。菩薩の効果はいまひとつのようだ。
「部長さん。見た目は。どんな感じなの?」
向かい合う、目が……。
三日月の形をしているのだけれど心から笑っていないように見えるのは何故だろう。
「いいじゃんせめて想像くらいさせてくれたって……ウッウッ」
「うん……解ったよ……」
不憫だ。
「髪は?」
不憫消えた。
「髪は、柔らかそうだった。色素が薄い感じで柔らかそうで、春風とかお日様がよく似合って…」
初めて会った時の濡れ髪からゆっくりと、会社でもう一度会った時の雰囲気まで辿って思い出す。
「目は」
「メ。目も真っ黒ではなかったかなぁ。あ、睫毛が可愛い感じだった」
「グオオ……ッ!うっ羨ましい」
「ね。苦しまないで。私たちもまつ育頑張ろう」
確か、笑って、目を開ける仕草の中で彼の眸が陽の光に透けていたのを無意識に感じたはず。
「鼻筋は」
「流石にそこまでは見れておりません、申し訳ありません隊長」
「頑張って思い出して」
「……綺麗だった、と、思うます」
もうこうなったら自棄だ。
「思うます? 眼鏡似合いそうだね」
隊長は、うっとりと口にした。
「そういうことかぁ。イメージなかったなぁ」
冷静な自分が何だこの会話、とつっこみを入れる中でどうしてイメージしづらいのか考える。何というか、彼にはあの石鹸の香りが途轍もなく合っていて、それで他の印象がないのかもしれない。
そして花吹さん、すみません、勝手に盛り上がってます。
「色白?」
「そ、うーん、元々はそうかもしれないね」
「……筋肉は?」
「知るかー!」
「見たら教えて」
「見ないよ!」
「出来たら電話じゃなく写真撮って送って!?」
「写…!? ないよ!?」
何てことを言うのだこの子は……。
真っ赤になって叫ぶ私と机を叩くキセキ。
その内気のせいであってほしい周囲のお客さんからのイタイ視線を感じたため、真っ赤な顔はキセキを連れてお店を後にした。
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