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感情に抗わず、手を止めていっそ浸かった方がいい。

私の仕事は「考えること」が価値の源泉なので、思考力の低下は価値の棄損に直結する。だから、感情の揺らぎはできる限り無くすべしと、以前は心に言い聞かせていた。自分の精神構造を、昔の耐震基準みたいにひたすら堅牢に設計していた。

しかしいつからか、その設計をやめた。特に、哀しみや怒りといったネガティブな感情の湧き上がりを、あまり抑えないようにした。もちろん、他人の目がない状況においてのみ。当然、それによって思考力は低下するのだけど、低下したまま踏ん張るのではなく、いっそ一旦手を止めて、その揺れる感情に意識を全振りしてしまう方が良いと気付いた。

揺らいだまま下手に仕事へ立ち向かい続けることが価値の棄損を生むわけで、揺れがおさまるまで、力が戻るまで、一旦その手を離せばいい。そのあいだじゅう、存分に思考と感情の揺らぎに心身を委ねて、風が凪ぐのを待つ。そういえば、気分が落ちている時はそれに似た調べの曲を聴く方が、無理にアップテンポな曲を聴くよりも回復が早いと聞いたことがある。それと同じかもしれない。状況が許す限り、抗わない方が良い気がする。

しかし現実の仕事の波は、こっちのそんな悠長な意図などお構いなしに、矢継ぎ早にやって来る。だからやがて私は、仕事の手を少しだけ止められるように、できるだけ害のない、小さな嘘もつくようになった。体調が良くないとか、他に優先すべきタスクがあるからは今それは少し待ってくれとか。

もちろん、そういう方便がまかり通る環境には感謝しかないし、私も誰かに嘘をつかれているかもしれない。でもそれを知る由がないまま全体の仕事が停留しないのならば何の問題もないし、すなわちそれは組織や社会を滑らかにする便宜と言ってもいいはずだ。いわゆる、持ちつ持たれつの側面のひとつではないかと。

こうして私は今日も、色んな人々に小さな嘘を付いて、それを勝手に正当化しながら、感情の波に揉まれて生きていく。しなやかに、と言えば格好は良いけど、全然そんなもんじゃない。他人をちょっと欺きながら、わがままに自己制御しようとしているだけだ。

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