まっしろなカレンダーの(#磨け感情解像度)
ある梅雨の朝、まっしろな6月のカレンダーに小さなメモを見つけた。
「梅シロップのめる」
ふたり暮らしのわが家で、僕が書いたのではないとすれば、書いたのは妻だ。梅を漬けて2週間。青梅が熟し砂糖水と混ざり、いい塩梅になるのが6月16日らしい。
書いた理由を聞くと、「んー、忘れないようにね」と言う。
ちなみに彼女は、忘れない。いくつものプロジェクトをタスク管理アプリみたいなもので管理し、どんな仕事でも期限の2日前に終わらせる、らしい。らしいというのは、僕には彼女の仕事がまったく理解できないからだ。大きなモニターを2個並べ、真っ黒な画面に暗号のような文字列を「よくまぁ、そんなに書くことあるね」と感心するくらい打ち込み続けている。
彼女は5年前に読んだ小説の登場人物の名前まで憶えていたりする。僕はいま読んでいる小説の主人公さえ、忘れてしまうのに。
彼女が忘れてしまうことといえば「休むこと」かもしれない。没頭すると際限なく働いてしまうため、休憩のために25分ごとのタイマーをかけている。僕はといえば、25分に一度はTwitterやnoteを開いてしまう。神様は集中力を平等には配らない。僕が願うことはシンプルで、どうか無理しないでほしいということだけだ。
そんな彼女が唯一、まっしろな6月のカレンダーに書き込んだのが「梅シロップのめる」なのだ。これを見た僕は、なんだかよく分からないけれども笑ってしまった。
この時の気持ちをなんと言えばよいだろうか。なぜか、ふいに谷川俊太郎の詩「生きる」が頭に浮かぶ。
生きるということ
梅が青いということ
梅シロップをのめるということ
カレンダーに書くということ
みたいな。
すべてのスケジュールがスマホに入っている時代に、カレンダーを壁にかける意味とはなんだろう。「忘れてはいけないこと」のすべてがスマホに入っているとすれば、カレンダーに書くのは「忘れたくないこと」かもしれない。
わざわざカレンダーに書くという行為は、長い文章における「、」のようなものだろうか。なくても読めるが、あると文が生きる。ちゃんと伝えたい時こそ入れる、息つぎのリズム。全力で走る姿と同じくらい、息つぎする姿に「生きている」を感じるのかもしれない。
つらつらと書いてきたが、やっぱりむずかしい。まっしろなカレンダーに「梅シロップのめる」を見つけたときの、あの感情は何だろう。
愛らしくて笑いたくなるのに、小さくかすれた文字に感じる小さじ1杯くらいの切なさ。なかなか言葉にならないけれど、夏がやって来る前に書かないと消えてしまう気がする、そんな何か。
あす、梅シロップがのめる。
どんな顔して飲むのだろう。