エッセイ、言葉と思考の合わせ鏡

おはようございます。朝。
早く寝たのに全然早起きできなかった。いつも通り家を出る30分前に無理矢理起きた。そして無理矢理化粧をして出た。昨日買った下地とメイクをどうしても試したかった。

何が書きたかったんだっけ。

・おもしれー書き手
今週はしつこく文學界9月号の話をさせてもらおう。特集は「エッセイが読みたい!」
エッセイにまつわる柿内正午さんの論考があった。読みながら「これはもはやエッセイではなく論考では?」と思って、柿内さんの次に書いている宮崎智之さんの文章を読んで「いや……その曖昧さこそがまさに、エッセイがエッセイたる所以……ッてコト……?」と思ったのだけど、いま目次を確認したら、普通に柿内さん・宮内さんは論考という括りで寄稿されていました。

文芸誌はたまに買う程度で、熱心な読者ではないので、柿内さんのことはこれまで存じ上げなかった。柿内さんは会社員作家で、哲学的思考を得意としている方らしい。
私、悩みとか思考の経緯を人に話して「哲学が向いていそう」と言われることが何度かあって、でも実は哲学を独学でもやったことが一度たりともないんです。関心はあるの本当に。でもやっぱり純文学や社会問題を扱う書籍に当座の興味は持っていかれがちで。
今回の柿内さんの論考、これ、これが哲学的分析っていう理解で合ってます?違う?分かんない、分かんないけど感動しました。たぶん論考全体の4~6割は理解できてなくて(特に前半)、後半戦になってどんどん込み上げてくるような、未知の洞窟に吸い込まれていくようなそんな感覚になった。もしもこれが哲学の一種であるなら、なるほど確かに、好きなのかもしれない。

ああこうやって書いている、言葉にすることでこれが私の思考だったということになる。言葉と思考の逆説性。エッセイ特集、作家たちの言葉に揉まれてエッセイとは何かを考えさせられながら、思考とは何か、言葉とは何か(ここまでだと鈴木孝夫先生とか今井むつみ先生的)、いっさいの文章表現とは何なのか、じゃあ私のこの言葉はいったい何なのか、そんな足場の心許なさを突きつけてくる。ああこの言葉すらも………。

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