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日本史における教科書

前回の文章が思った以上に読まれていて次に何を書くか迷っていたが、大学での授業中にふと思ったこの題材について書いていこうと思う。
前回に続いて今回の文章の題材で察しがついた方もいるかもしれないが、今回も堅苦しい内容となっていることは許してほしい


教科書的理解とは

まず、内容に入る前にこの質問について考えてみてほしい。「教科書的理解という言葉についてあなたはどのようなイメージを抱きますか?」

教科書的理解という言葉を辞書的に定義づけるならば「各科目に対して教科書に書いてある通りの理解を行っている状況」とでも言えるだろうか。今回の文章では日本史の教科書に限定して述べていく。
このような意味だとして+のイメージを持つか-のイメージを持つかは人によって様々だろうが、私の周りでは-のイメージを持つ人の方が多いように感じる。より具体的な場面を想起するならば、文献史学においては教科書を批判する際に用いられる語というイメージが私個人の中にはある。


批判ツールとしての「教科書的理解」

現在私が所属している論文を講読する少人数編成のクラスの担当教授はよくこんな話をしている。「教科書の中には実像もあれば、虚像の部分もそれなりに多く存在している。」
この指摘に関しては私は何も間違っていないと感じている。何しろ、高校時代の私はその虚像の部分を探し出して自分の言葉で説明する行為に楽しさを見出していたからだ。
この話を聴いた同じクラスの人たちが「教科書が正しいと思ってきたけど、あれは信じちゃあかんねんな」と言っているのを聞いて少々不安になった。

私の立場を簡潔に述べるならば、教科書には虚像の部分もそれなりに存在している=教科書は取るに足らない書物なので唾棄すべき存在だ、と言うことは不可能であり、教科書はあくまでも1つの歴史観だと前提を付けたうえで批判・継承するべきだという立場だ。


誰もが持っている学術書

試しに、このnoteを読み終わったら日本史の教科書を少しでも読んでみてほしい。
教科書の文章は確かに無味乾燥なものだが、何を言っているのか文意が全く取れない部分は無いと思う。受験生たちは確かに教科書よりも参考書を好む傾向があることは知っているが、教科書ほど受験の先の歴史学という部分を意識して書いてある参考書は存在しないだろう。

教科書には歴史学を学ぶ上で必要な史料批判の具体例や説明も本文外ではあるがされており、高校生が歴史学を学ぶ土台を作る本としては十分高いレベルだと思う。

確かに教科書は最新の知見を反映しているとは確かに言い難いが、現在の学会で通説とされていることを纏め上げている。そして、高校生が最初に触れる通史を纏め上げた本=高校生にとって初めての学術書だとも言える。


史学科の人間に伝えたい教科書活用法

結局はこの部分が書きたかっただけなのだが、少なくとも教科書が馬鹿にできる本ではないという点は理解してもらえたと思う。
最後にどのように教科書と付き合っていくべきかだけ書いて終わりにしようと思う。

私の経験上、教科書の内容を一通り理解するだけで同学年の大半にアドバンテージを取れると思う。
ここで言う理解とは書いてあることの定義を自分で考えて体系的に歴史を捉えるということだ。

教科書で太字になっている単語の歴史的文脈(何故、こんなことをしたのか、何を目的としたのか)という点を考えてみる。そうすれば、個々の単語が徐々にある意味を持った束になってくる感覚が理解できるだろう。その束をより大きくしていった先に教科書を理解したという次元がある。

1回生の頃に出会った人でこの行為を完全にできている人は誰もおらず、出来ている人でも3割程度だと感じた。しかし、この行為をしていなければ、歴史知識とは結局のところ1問1答式の使えない知識のままである。

じゃあどのように歴史的文脈を考えれば良いのかと問われたら、私は沈黙せねばならない。
何故かと問われたら、私は歴史とは他者から教授されるものではなく自身で考察し、構築するものだからと考えているからだ。


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