生と死
ばあちゃんが生死の境にいる。
もう今日か明日か。
呼吸は荒く、酸素吸入器の酸素量が増えていく。
目線はあわない。ちらっとは動くけど。
全身が動く動かないではなく ただ必死に呼吸をして生きている。
お医者さんからは「意識が失ったとき、それがその時」と伝えられる。
少し前まで、いつ家に帰れるのかと、自分にはやりたいことが家にあると、
ことばかすれ気味に。でも本人の意思は強く。
希望を伝えてくれる。
92歳という年齢。
何歳まで生きれば大往生なのかは、分からない。
それでも生きてきた92年は、孫の私には計り知れない年月と大変さがあったであろう。
4人の子どもを育て、各々個性やぶつかりがありながら今につながっている。
そして、私も存在している。
息をする。
傍からみれば、それしかしていない。
動きはそれだけ。
ただ、その息をすることは生きている。その証。
本人は、ただそれだけをしているのに必死なのか。それしかできないのか。
本人にしか分からないけど、望んでいることは“自由”を求めていることなのではないかと、勝手に思ってしまう。
ささやかな、私の体験。
かれこれ8年ほど前のコト。
自動車の免許更新のため、電車に乗った冬真っ只中のある日。
突如、胸の苦しみに襲われた。
はじめはただの風邪かな?と思っていると、徐々に冷や汗が吹き出し、着ていたコートを脱ぎ、気温の暑さとは違う漠然とした不安感が全身を駆け巡っていた。
次に次にと駅は過ぎていき、乗り換えが必要な駅で降りてみると、立っていられないほどの全身に力が入らず、ただ胸が痛み、血の気が無くなっているのを感じる。
乗り換えを済まし、なんとか目的の駅にたどり着く。
その駅で体験をした。
生と死のはざまを彷徨うということを。
人はいずれ死を迎える。
それはおぼろげながらに分かる。
ただ、突然、まったく予期しない時に遭遇すると訳が分からなくなる。
その駅は、電車を下車して2階の改札を出ないといけない駅。
階段を中腹までよたよたと一段一段のぼっていた時に心の声が聞こえてきた。
「もうダメかもしれない」
周りの状況とか関係なく、意識は自分の中に入っていく。
徐々に目の前の視界が丸く、そして黒く染まって、視えるものが狭まっていく。
意識が遠のきはじめ、ふと気づく。
「あ、意識がなくなれば、そこは…」
死。
命がなくなる。
死ぬってこういうことか。と開き直りはじめる。
いっそ、この苦痛から解き放たれれば、どんなに楽なんだろう。と。
ただ、自分の中に、もう一人の自分がいた。
「生きろ」
こんなに明確に、こんなに意思を強く持った声掛けはなかった。
これが「生存本能」なのだと気づくには時間が掛かったが、
その時は、
もうダメかもしれない
とあきらめかけ、そして意識が遠のいていく。それは死。
そこまで悟っていたものが、吹き飛ぶくらいの
「生きろ」
という力強いコトバ。
それが心の底から湧きあがってくる。
むしろ「死ぬかもしれない」を突っぱねるくらいの衝動的に。強情なくらいに。
視界が狭まってきていたのが、一気に晴れ、
まずは、自分の今の顔を見に行こうと、トイレに這いずる。
鏡をみた自分は。。。
完全に死ぬ間際。
絶望と不安と疲れが入り混じった、まさに死相という顔。
本当に忘れることができないその表情。
それでも、自分の顔を見れば、内に入り込んでいた気持ちから妙な解放感、客観的に自分を目視したのか、
まずは、駅員さんに声をかけようという意思が生まれる。
這いずりながらも、駅員さんに声をかけるとすぐに医務室に担がれ、横たわることに。
案外、人と接することで今まで自分とのある種格闘していたところから、冷静さや安堵感が生まれて、意識を取り戻すことができた。
この体調不良には紆余曲折があったものの、一命を取り留めて今も生きている。
まさかその時は、開胸して長時間の手術を受けるとも知らず。
単純に、人が死ぬってこういうことなのか。
紙一重に、自分の意識と取り留め方なんだと。
そして、今こうして書いているときに、
母の連絡から祖母が亡くなった事を知らされる。
さっきみた、命をつなぎとめている祖母の呼吸。
そして自分の体験。
祖母が92歳という年月を生きたのは、ひとえに生きたいという気持ち、心のバイタリティーというか、やりたいことがまだまだあるという意識なのかと思っている。
さかのぼる一週間前に、体調を崩したという一報を受けて駆け付けた際には、本人から意思を伝えてもらった。
家に帰りたい。
家に帰れば自分のやりたいことがある旨。
そして、手をつなぎたくて伸ばしてくれた、その手。そのぬくもり。
人が人として生きるというのは、自分ひとりで生きているのではなく、その人と関わる全ての人に影響をしているということ。
そしていま感じているのは、「自分は何を残せるのか」「私の関わる人にどのような影響を与えられるのか」
それは、エゴや押しつけではなく、存在として。
自分がいまどれだけ生命として自由なのか。
祖母から受けたものは沢山あり、それが今も自分の中でめぐっている。
ありがとう。
思いの丈を出したくなった。それだけ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?