母性
湊かなえ氏著作「母性」を読了したので、感想を綴っていこうと思う。
この作品も、U-NEXTのブックコーナーで見つけて購入。
なんなら、「流浪の月」と同じ時に買ったような。
湊かなえ氏が「この作品を書けたら作家を辞めてもいい」と言い放つくらいの傑作はどんな内容なのか。
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あらすじ
底の見えない完璧さが見せる奇妙
この作品には2人の主人公がいる。
母親である「私」と、娘である「わたし」。
まずはこの母親である「私」について話していきたい。
「私」は一言でいうと良い子ちゃんだ。
そして、「他人の目に映る完璧な自分」に酔いしれている。
その対象は自分の母親、旦那の田所、その義両親、その他登場人物ほとんど。
常に他人からの評価が上がるような行動や言動を自ら発信しており、誰の目にも明るい太陽のような存在であることに徹している。
これは解説の間室道子さんが最初に語っているのだけど、こういう良い人というのはミステリーにおいて信用できない語り手らしい。
確かに、この「私」の独白部分を読んでいて、その不自然なまでの演技がかった口調に終始違和感を抱いていたし、ここまで他人の評価を気にして、自分を犠牲にする姿は、あまりにも脅迫的で得体の知れない気味の悪さを感じた。
(筆者が読んだ限り、基本的に彼女が自分自身の意見を通し、誰かの意見に背いたことはなかった。)
ここまで本来自分を押し殺して、他人の目に映る自分を完璧に演じられると、この人の心の奥底には一切辿り着けない。
「私」の奇妙なまでの完璧さとポジティブさは、逆に彼女の抱える闇を全面に引き出している。
彼女は詳細に、結婚前から今までのことを一生懸命語っていたけれど、彼女のいうこと一つ一つを筆者は最後まで信じることができなかった。
娘でいたい母親と、母親になりたい娘
「私」は自分の両親、特に母親に完全に依存しきっていて、母という存在を神格化している。
異常なまでの母親への信頼と愛は、カルト宗教の教祖に対しての崇拝のようで、側から見れば不気味なものである。
作中中盤、夢の家が火事になる場面があるけれど、娘の「わたし」と母の命、どちらかしか救えないとなった時、「私」は真っ先に母親のことを助けようとした。
これは、作中筆者が1番ゾッとした言葉。
「私」は、ずっと母の娘でいたかった。
一方、娘の「わたし」はというと、そんな幼稚な母親である「私」とは真反対で、常に自分が守ってあげなければいけない。という気持ちで「私」を傷つけようとする人たちに立ち向かっていった。
まるで、母親が自分の娘に注ぐような無償の愛を、「わたし」は「私」に注いでいた。
本作はそんな2人の主人公の面白いくらいに真っ向から対立する生き方を、読み進めれば進めるほどに楽しむことができる。
また、そんな真反対の2人ではあるけれど、やはり親子は親子。
思っていることは一緒で、それは「こんなにあなたを思っている自分の気持ちを、どうしてわかってくれないの?」という一方通行なエゴ。
残酷かな。
深いところでは2人一心同体であるのに、2人ともそのことには気付くことはなく、そして気付こうともせず、お互いにすれ違い続ける。
母性とは何か?
世界保健機関(WHO)では
と定義されている。
子供を授かり、産み、育てること。
でもそれだけで、母性はちゃんと育まれるのか?
「私」は「わたし」を実際産み育てているけれど、それは自分の母親のお願いを聞いてるだけだし、次に授かった“桜“にも娘としての愛情ではなく、大好きな母の生まれ変わりと思っていただけで、母性ではなく「大好きな母に会いたい」という寧ろ親離れできてない娘としての欲求だったと思う。
筆者は母親になった経験はないから分からないけぉ、ただ育てるだけではそれは母性が育まれているのではないのではないか?
母性を育むとすれば、それは見返りを求めない聖母マリアのような純粋な愛が必要である。と本作を読んで感じた。
ーー愛能う限り、大切に育てなくては。
最後に
筆者がこの本を読んでいる時、母が隣にいたのだけれど、肩を叩けば「何?」と優しく応えてくれて、何か面白いことがあれば、笑って共有してくれていた。
今までこれは普通だと思っていたけれど、これは紛れもなく母が筆者を愛能う限り大切に育ててくれているからなのだと今更ながら気づいた。
筆者はそのことに安心し、ひっそりと感謝する。
母性、それは強烈な愛。
母と娘という立場のあり方を、見直したいあなたへ。
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