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愛という名でラッピングされたエゴ

NAKです。悪意あるエゴをぶつけられるより面倒で手に負えないエゴ。本人がエゴとは気づいていない、これこそ愛だと信じ切っているエゴ。私はそれを「愛でラッピングされたエゴ」と呼ぶ。

「貴方のためを思って」という最大級の圧力。それを選択しなければ、ときに蔑み、ときに憐れみ、ときにわかってもらえないと悲しむ。本人は心底相手のためを思っている、愛ゆえだと信じ切っているのだから手に負えない。

悪意ある相手であれば、無視すればいい、喧嘩すればいい、こちらの良心が痛むことはない。ところが、美しく丁寧にラッピングされたエゴは、投げ捨てるのが難しい。この圧力からどう逃れたものか、相手の良かれと思う気持ちを尊重しつつ逃れる術はないものか。どう自分を守ればいいのか。

思春期の頃、このラッピングされたプレゼントを投げ捨て、自らを守る道を選んだ。しかし、社会に出てもこういうエゴをプレゼントされることは、ままある。

若いうちは相手のエゴに気づけなかった。相手はズカズカと土足でこちらの人生に入ってくる。エゴを押し付け、ズシンとのしかかってくる。こうなる前に距離を置くことはできなかったのか、相手にとって心地よい人間になり過ぎた自分を省みる。

50歳を前にした今なら、近づいてはいけない相手だとすぐわかる。最初から距離を置いて接することができれば問題ない。けれど、若いうちはそれができない。しかも、若いからこそターゲットになりやすい。

相手の愛や優しさを息苦しく感じたとき、それは愛ではなくエゴかもしれない。それに気づくことは、自らの魂を守るのにとても大切なことだと光のひーちゃんは言う。

愛という名でラッピングされたエゴが、そこかしこに蔓延している現代。相手は笑顔で近づいてくる。しかも、自分のエゴを愛と信じ、自分をいい人間だと思い込んでいる。

たとえ苦しみが伴う結果になったとしても、自ら選択し歩むことが魂で生きるということ。それを尊重できない愛はエゴでしかない。

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