脳と心と魂
mamやひーちゃんたちに私の心は丸裸。口に出さなくても無意識にふと思うことってありますよね。普通はこれはいかんと打ち消し、口には出さないこと。それが丸見え。自分でも醜くて嫌になっちゃうようなことが頭をよぎるたび、「こんなこと思っちゃった」と誰に謝るでもなく、しょげることしばしば。そんなとき、ひーちゃんたちはいつも、こう慰めてくれます。
「脳が悪さをしてるんだよ。気にしない気にしない。」
脳が疲労していると、魂が思いもしないことを思いつくそうです。脳の暴走。私の魂が醜いせいでもないし、さほど脳が悪いわけでもない。大したことではないのだから放っておけばいいよ、と。毎回そう言われているうちに、少しずつ自分でもそう思えるようになってきました。
こう思えるようになると、気持ちがとてもラクになります。心は脳の働き。でも魂は違う。心を左右する脳を客観的に眺められるようになると、脳が疲れているようだから休ませようとか、脳がクリアに働くからあの仕事を済ませようとか、とても自由。
人間関係で気になることがでてきても、気にしているのは脳であって、魂じゃないと思えると冷静になれます。特に、私はちょっとしたことを気に病んで眠れなくなるタイプなので、脳から離れ、魂と向き合うための瞑想をするだけで、ずいぶんと気持ちが落ち着きます。
私は仕事上の見かけだけでなく、脳内もド真面目。それは幼い頃からクリスチャンの母に日曜教会に連れられ、キリスト教の理想論を叩き込まれたからだろうと思います。「こうあるべき」という理想の中で行動し発言する。これは私の人生の美学にもなっていて、そこから離れるのは容易なことではありません。
クリスチャンに対してよいイメージが持てないのは、私がド真面目だから。クリスチャンでもない私が幼い頃から叩き込まれた理想論で生きているのに、なぜクリスチャンの多くは、その理想とかけ離れた行動や言動をたびたび見せるのか。毎回懺悔すればそれでいいのか。ド真面目な私にはそれが理解できず、また受け入れることができなかったのです。
今後このnoteでは、ド真面目でつまらない私の文章ではなく、純粋で伸びやかなひーちゃんに登場してもらおうと思っています。ひーちゃんは光たちの中でも特に会話が上手で、たまにそれは死語でしょ!という語彙を私の脳内から見つけて使うことはあるけれど、言葉による説明がどの光たちよりもわかりやすいのです。
私が質問を投げかけて答えてもらうのか、ひーちゃんがみなさんに伝えたいと思うことを自由に書くのか、どうなるのかは私にも見えないのですが、ド真面目にがんじがらめになっていた私が解れていったように、このnoteを読んでくださるみなさんの気持ちが、柔らかく心地よいものになったならと願っています。
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