連載小説 魂の織りなす旅路#58/赤ん坊
【赤ん坊】
ようやく流れ始めた彼の時間は、あくまでも彼女の波動に共振した、彼女の時間とともにある時間だ。彼の自立した時間ではない。だから僕は、相変わらず彼の体の境界線の内に閉じ込められたままだったし、境目に在る僕もひとりきりのままだった。
今僕は、再び彼の脳を揺さぶるであろう苦悩を思い描き、身震いしている。彼の脳が妻を助けて欲しいと、哀願するように祈り続けているのだ。
彼の脳は妻の意思を受け止めようと、懸命に足掻いている。僕はそんな彼の脳を、始まりの者の深い愛と慈しみの波動でひしと抱きしめる。彼の脳は知らないのだ。妻の魂が失われるわけではないことを。
妻の心臓が止まり、妻の魂が境目の向こう側へと導かれていったとき、彼の脳が悲痛な叫び声をあげた。すかさず僕は彼の脳を抱え込む。そして、波動をみなぎらせながら言霊を投げかけた。
《赤ん坊に慟哭の感情を向けてはいけない》
慈しみの波動とともに厳しく諭す。しかし、彼の脳はそれを拒絶しようと激しく悶えた。祈りを叶えてくれなかった何者かを恨み、憎み、烈火の如く怒り狂い、罵倒したかと思うと打ちひしがれ、嘆き悲しんだ。
彼の脳が妻の意思を思い出したのは、赤ん坊をその手に抱いたときだった。
《この子は特別なの。》
彼の脳が妻の言葉を思い出す。赤ん坊の温もりが両腕を通して彼の脳にじんわりと沁み入っていく。
このとき赤ん坊の波動を直に感じた僕は、驚愕すると同時に狂喜した。赤ん坊の波動が、境目の向こう側にいる妻の波動に共振していたのだ。境目に在る僕はその共振に加わり、その波動を体の内に在る僕に送ることにした。
僕は
妻と赤ん坊とともに
彼の脳を強く強く抱きしめた。
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