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「しんちゃんやちびまる子ちゃんを違和感なくずっと観られるのはなぜ?」

「クレヨンしんちゃん」や「ちびまる子ちゃん」を、小学生の時からずっと見ている。30年以上経つにも関わらず、当時と変わらない気持ちで、同じ目線で観ている気分。違和感はない。

それよりも少し前の作品、「じゃりん子チエ」や「あさりちゃん」に比べると、「クレヨンしんちゃん」や「ちびまる子ちゃん」はだいぶコンテンツがマイルドに見える。時代が進んで過激な表現が全体的に減らされているというのはもちろんあるとは思う。

「クレヨンしんちゃん」や「ちびまる子ちゃん」の中でさえ、アニメ放送開始当時のものと現在のものとを観比べると、現在はだいぶマイルドになっている。現在はいずれの劇中でも、母が主人公に対してげんこつを食らわせる場面がなくなっている。しんちゃんの発言は当時はだいぶ攻めたことを言っていたと、大人になった今よく分かるし、ちびまる子ちゃんもだいぶ今よりひねくれていたなと、振り返ってみて分かる。


「しんちゃんやちびまる子ちゃんを違和感なくずっと観られるのはなぜ?」

結論、この問いに対する答えは、
コンテンツ側が時代に適応していたからだと思う。


ということは、自分という人間が時代に乗せられていたのかなということも気付かされる。自分で車を運転して「時代」という道路を自分の意志で走っていたつもりが、実は自分で運転している"風"ふうの乗り物に乗せられて走っていただけだった。


自分という自我は子どもの時から変わらず、そんな変わらない自分が観ているしんちゃんもちびまる子ちゃんも、変わってないと思っていた。
ところが、しんちゃんもちびまる子ちゃんも僕も、同じ「時代」に乗せられて、一緒に等速で移動していたから変わっていないと錯覚しただけだった。


時代の変化に合わせて自分も変わるのはある意味健全だと思う。
だけど、一緒に等速移動しているものを見て「変わっていない」と錯覚するのは少々危険だなと思った。

自分は無意識でも、時代と共に不可抗力で変わってるんだという気付き。