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【提言】学校改革は本当の意味での「働き方改革」とセットで推進しよう

こんにちは。私立高校で教員をしている中山です。
教員→民間→教員という往還型のキャリアを歩みつつ、今は私立の中高一貫校に専任教諭として勤務しながら校外でもいくつかのプロジェクトに関わっており、いわゆる「パラレルキャリア」を歩んでいます。

今日は、そんな私が「教育改革/学校改革は単体ではなし得ない=真の働き方改革とセットである」と考える理由をいくつかお伝えしたいと思います。
今、多くの学校が「改革」に取り組んでいることと思いますが、これらをセットでなしえている学校はまだほとんどないように思われます。
また、教育現場での「働き方改革」の議論はかなり偏っているとも感じています。

それらの議論に小さな一石を投じることになれば幸甚です。

目次
1 「教育改革」か「学校改革」か
2 「学校改革」を因数分解してみると
3 それによって何を目指すのか

1 「学校改革」か「教育改革」か
昨今の教育をめぐる議論を見ていると、両者が混在しています。
では、どちらを推進すべきなのでしょうか?

その前提として、まず両者の議論を整理しておきたいと思います。
当然ながら、より大きな意味を持ち、守備範囲も広いのは「教育改革」ということになります。
よって、議論の中で使われる頻度としても、当然こちらの方が多いかと思います。
さらに、狭義の意味であえて「教育改革」という言葉が使われる場合、そこには「学校の解体」が(遠い未来だとしても)含まれることがあります。
特にビジネス系の方の議論に多い論調です。
公教育の崩壊やICTの劇的な進歩により、「学校」という場は意味を失っていく。
だから、これからは「学校のあり方」ではなく「教育のあり方」を問うべきだ、というような議論です。

筆者はこの議論には賛同できません。なぜなら、このような議論の中で想定されているのは「学校に縛られている子どもたち」であり、彼らを「解放」すればまさに「主体的に」自分の興味関心を伸ばせるように学び始める姿が思い描かれているからです。
このような生徒は、確かにいます。しかし、極めて少数です。
「彼らを」学校から解放する議論なら賛同できますが、少なくとも我が国の社会のあり方として議論するのであれば、ごく一部の生徒像から全体を議論していることになり、ミスリードと言わざるを得ません。

加えて、特にwithコロナ時代の教育について考える文脈で「オンラインでも授業ができることが明らかになった。だから学校は不要だ」よいうような議論も見かけますが、これも一部を拡大した解釈です。
たしかに「情報の伝達」はかなり再現性高く、さらに言えば地理的・時間的制約を超える点でオフラインよりもより良い形で、オンラインは授業を行うことができます。
しかし、最も大切な「動機付け」の部分、つまり、子どもたちが「学びに向かいたいと思うための支援」は、今のICT技術だけでは到底できません。

(出典:ベネッセ教育総合研究所)

いくつもの研究成果が明らかにしているように、学力レベルの低い生徒、教育格差に苦しむ生徒ほど、「学びのための共同体」=学校を必要としているのです。

よって、本稿ではあえて、改めて「学校改革はどうあるべきか」を論じたいと思います。

2 「学校改革」を因数分解してみると
では、ここでいう学校改革はどのような要素からなっているのでしょうか?
私は「学校改革=教育改革+教員改革」という二本の柱からなっていると思います。
さらにそれらの柱は、

教育改革=システム面:カリキュラム、授業方法、授業内容、教育評価、教育環境など
教員改革=人的資源面:働き方改革

に分解できると考えます。

まず、前者についてですが、学校改革においてこれらの要素が求められることは当然でしょう。ほとんどの議論でもこれらは必ず登場しています。よって本稿ではそのほとんどを割愛し、一点だけ触れたいと思います。それは、「評価」についてです。
評価面の課題をさらに分解すると、
・評価の可視化=数値化の不足
・評価指標の画一性=偏差値(ペーパーテスト)のみの評価
・評価と目標の一体性の欠如=「目標に準拠した評価」がされていない現実
などが挙げられます。

特に、学校現場はかねてから「可視化」「数値化」にアレルギーを示す傾向があります。
また、「目標に準拠した評価」についても、学校現場に浸透しているとは言い難く、現場にいるといまだにほとんどの先生方が「絶対評価/相対評価」という言葉を使っていることに驚かされます。
(本稿をお読みの教育関係者なら皆さんご承知かと思いますが、文科省はかなり前からこれらの言葉を使用しなくなっています。)

エビデンスベースの教育を実現するためにも、「評価」改革は不可欠です。

どうしても「教育改革」=「授業改革」となってしまい、小手先の議論に陥りがちです。
しかし、「評価」なども含めて、複数の要素からなっていることを強調しておきたいと思います。

以前の記事でも書かせて頂きましたが、教育現場は特に「問題を切り分けて考えること」を意識しないといけないことを、自戒を込めて書き記しておきます。

https://note.com/very50/n/n5ef47326a712

そして、後者についてです。これこそ本稿の「本丸」なわけで、筆者としてはこの点が昨今の「教育を改革すべし議論」に欠けていると思っています。
ご承知の通り教育現場でも「働き方改革」が掲げられるようになりましたが、そのほとんどの文脈が「過酷な教育現場をなんとかしよう」「教員の負担軽減を」というような文脈となっています。
これらを否定するつもりはありませんが、これは単一の文脈に位置付けるべき議論ではないと、筆者は考えます。

(出典:朝日新聞デジタル2018.6.17)

そこでこれまでの議論と繋がるわけですが、まさに働き方改革は「学校改革」の中に位置づけられるべきであり、「教育改革」と相互作用的に働くものなのです。
なぜなら、そもそも働き方改革とは「生産性向上のため」に始まった議論であり、それゆえ働き方改革を考える上では「いかに生産性を上げるか」という視点が欠かせないからです。
学校に関しても当然で、教員が生き生きと働いていなけばさらに新しい教育に挑戦したり、改革を進めることはできないでしょう。

我が国では多くの場合、「足し算」で次から次へと新しい「お題目」が学校現場に降ってきますが、これは持続可能性が極めて低いのは明らかです。何かを得るためには何かを捨てなければいけない、というのは、アニメ『進撃の巨人』のOPを引くまでもなく明らかです。


つまり、
働き方改革=労働時間削減+労働生産性向上
なのですが、民間の取り組みでも後者がなおざりにされがちであり、いわんや学校での議論では存在すらしなくなっているように感じます。

労働時間を減らし、日本的「長時間労働」を止めるからこそ、短時間の中で生産性をあげる工夫が生まれ、生産性をあげる工夫があるからこそ労働時間を減らし、労働者のQOLも上げることができる。
労働者のQOLがあがるから、より労働時間での生産性も上がり・・・
という相互作用・良い循環が生まれます。

これらはあくまでも不可分なのです。

3 それによって何を目指すのか
では、これらの車の両輪をそろえ、どこに向かうべきなのでしょうか?
それは、一言で言えば、最初に申し上げた「学びのための共同体」だと筆者は考えます。

学びの共同体を作るには、言葉の通り参加者全員が「学び続ける」マインドセットやスキル、環境が欠かせません。
実際、平成24年に出された中教審の答申(「教職生活の全体を通じた教員の資質能力の総合的な向上方策について」)でも「学び続ける教員像の確立」が掲げられていますし、これから始まる「探究」の時間でも求められるのは「生徒とともに探究する教員」のあり方です。

冒頭で述べた通り、「普通の学校」の「普通の生徒」たちは、特にやりたいことも夢もないまま、「なんとなく」毎日を過ごし、学んでいるかは別として、「授業に出席」しています。

彼らに必要なのは、学びの動機付け(エンゲージメント)であり、教員も含めて、ともに学ぶ仲間であり、学びつづけるための環境です。
これからも(少なくとも向こう20~30年は)学校に存在意義があるとしたら、これしかないと信じています。

その実現のために、小手先の「授業改革」にとどまらない「教育改革」を進めるとともに、同時に「働き方改革」すなわち「無駄な時間・ルーティンワークの時間の削減と、生産性の向上」を進めることで、「学び続ける教員像」を実現する。
それこそ重要なのではないでしょうか。

これらは「普通の学校」にこそ求められる改革です。
ぜひ多くの教育関係者の方と協力し、成し遂げて行けたら、と妄想しています。

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