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「虚数」と「気」「意」

パンサー尾形がメインキャストの、NHK「笑わない数学」。

どう見ても数学が得意なわけがない尾形が「ポアンカレ予想」とか「フェルマーの最終定理」とかを解説するものだから、つい「大丈夫か尾形!?」とハラハラ感で見ているうちに、いつの間にか数学に親しめる…
という、前代未聞の戦略の教育番組。

小2の次男がこの「笑わない数学」にハマり、なんと「虚数」に関心を持った。

 虚数の本がほしいというから、ジュンク堂書店で好きに選ばせたら、こんな本を選んできた。 
ううむ。私にもわかりやすい^^

おかげで、私も改めて「虚数」を復習した。 

虚数とは、2乗するとマイナスになる数。 
そんな数字はあり得ない。 
数直線上に存在しない数。 

あり得ないが、それを「ある」ことにすると、数々の数式や法則の筋が通り、現実世界を説明できるようになる。

どういうものだか、日常感覚ではさっぱりわからないが、それを「ある」ことにしないと筋が通らないんだから、それはもう「あるもの」として扱うべきではないか? 
ということで、虚数は「数の一員」として市民権を獲得し、代数学や量子力学などでめざましい成果を上げている。

『どういうものだか、日常感覚ではさっぱりわからないが、それを「ある」ことにしないと筋が通らないんだから、それはもう「あるもの」として扱うべきではないか?』

 このへんが、武術における「気」「意」などと似ているわけである。

武術は、最終的には、使えるかどうかがすべて。 
生き抜けるかどうかがすべて。

 「気」や「意」など空想だ、と言いたくなる気持ちはわかる。
 見えないし、さっぱり感知できない。
 それを否定するのも自由だ。

 しかし、それが何ものか完全にはわからないとしても、「気」や「意」を捉えようと研究し、研鑽し、先人に教えを乞い、努力を続けた者と、そんなもの空想だと片付けてしまう者とでは、時間が経つに連れて必ず差が出る。

 「使えるかどうか」
「生き抜けるかどうか」
で差が出ることになる。 

「わからないものを、わからないまま学ぶ」 

この重要性を、虚数は教えてくれている。

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