おばあちゃんッ子になりたくて。_その2

倒れてから一度も意識が戻らなかったおばあちゃんが、
主治医に「そろそろ」だと判断されたのは、
入院から半年経った頃。


当時はまだ、一人ひとりにメールをするのが当たり前。
全員が携帯を持っているわけでもない。


それでも、昼過ぎに連絡が来てすぐ、

みんな仕事も学校も、
なにもかも放り投げて病院に向かっていた。


おじいちゃんが死んだときは、
あまりにも急で、みんなに連絡が回りきる前に
すべてが終わってしまっていた。
それをみんなが後悔していた。

今度は違う。

私の家族、いとこの家族、
おばあちゃんの兄弟、
お母さんの従兄弟家族たち…


夜7時にはみんないた。


遠い県に住むはとこ家族も、
船に乗らなきゃ到着できない
遠い田舎に住む大叔母も、
みんなこっちに向かっているらしい。

夜11時を過ぎた頃。

もう、病室には入りきらないからと、
案内された広い待合室も占領してしまうほど
私たちの親戚は集まっていた。


順番におばあちゃんの病室に入って
様子を見守っている。


消灯を終えた病院内は、
全体的に薄暗い。

表情まで暗くしてしまうと、
「もう長くない」と言われた
おばあちゃんの命が、
さらに長くなくなってしまう気がして、

できるだけみんな、
おばあちゃんが
もっと聞きたくなるような、
明るい話ばかり口にしている。


これだけの人数が集まるのは、
いつぶりだろう。

集まった親戚の何人かは、
けんか別れしたきり
一度も連絡を取っていなかったはずだけど、

まるでなかったかのように、
私たちは団結していた。
謝罪の言葉もなく、仲直りをしている。

おばあちゃんに、
昔みたいな姿を
見せたかったのだ。


だけどそれはやっぱり、
私たちの願いでしかなくて。


あれは、何時頃の話だったんだろうか。


何回目かの順番で、
おばあちゃんの様子を見ていた
おばさんが血相を変えて待合室に現れた。

おばさんが
「はよ!」と手招いた瞬間、
みんな一斉に病室へ向かう。


それからのことは、
もうあまり覚えていない。


*  *  *

四十九日が終わって少し経った頃、
私の父が話してくれた。


「お義母さんはあの日、
心臓の動きが止まってたんや。

『0』

ピーーーーーーーーーー

や。

でもな、

みんなが「おばあちゃん」と叫ぶと、
少しだけ心臓が動くんや。


『5』


『12』

とかになって、
一瞬だけ、波打つねん。

でもまた


ピーーーー


って鳴って、


「おばあちゃん」
の声でまたちょっとだけ動くんや。

何度もやで。

お義母さん、
お前らの声
ちゃんと聞こえてたんちゃうかなぁ」

そのときの私たちは、
心電図の数字や音なんて
気にしている余裕はなかったけれど、
父はその画面をしっかりと見ていたらしい。


理屈ばかりこねる父が、
事実や現実よりも、
スピリチュアルな感想を述べるのは、
非常に珍しかった。

「体が大きな音に反射しただけ」
というのが本当のところだろうが、


それでも私たちは、
父の言う「おばあちゃんに聞こえていた」を信じた。


父の心が動くほどの光景が
そこにあったのなら、
それはきっと、
父の言うことが真実だったに違いない。


*  *  *

通夜の準備中、
葬式までの待ち時間、


私たち親戚の空気は
待合室にいたときとほとんど変わらなかった。

おばあちゃんの
思い出話で盛り上がって、
楽しい話でもっと盛り上がる。


話題が途切れそうになると、
悲しみがこみ上げてくる前に、
寿司やお菓子やお酒を
胃に流し込む。

そうしている間に一人、
また一人と親戚が現れて、


その人たちが話してくれる思い出話でまた、
明るい空気が戻ってくるのだ。

静かになってしまうと、
みんな一斉に涙が出てしまうのは
分かっている。

だから、
賑やかに過ごすのだ。

おばあちゃんはまだ、
そこにいるのだから。


急性で倒れたとはいえ、
おばあちゃんも高齢者だ。

人付き合いも昔に比べて、
ずいぶん減っていた。
最後の方は特に、
一人で過ごす日も多かったはずだ。


それなのに通夜、葬式には、
たくさんの人たちが集まった。


私の知らない人もたくさんいる。

香典はいらないと言い張っても、
派手な飾りの付いた祝儀袋を
置いて帰る中年女性。


準備が間に合わなかったのか、
そもそも悪気もないのか、
ジーンズで訪問する若い男性。


習い事の太極拳で世話になっていたと話す、
20代のスレンダーなお姉さん。


みんな親戚の誰かと親しそうに話して、
それからおばあちゃんの顔を見て、
(ある人は頬をなでて)

ハンカチ、タオル、ティッシュ、服の袖…
それぞれの方法で涙をぬぐいながら、
「それじゃあ」と帰っていった。


通夜を行ったのは、
小さく、質素な、地域の集会所。
お金なんて全然かけていない。


なのに
参列者の名前は
あっという間に
3桁にまで増えた。


翌日の葬式も、
同じだった。

冠婚葬祭のルールなんて問答無用な、
個性溢れる参列者がたくさん来て、
名前を記載して手を合わせていく。

次々と名前で埋まっていくノートの中に、
おばあちゃんの人生があった。

若い人も、知らない人も、みんなみんな、


「かっちゃんはほんまに
ええやつでなぁ」

「かっちゃんには
何度も世話になって」

「かっちゃんがおらんかったら…」


「なんで知らせてくれへんかったの」


「おばあちゃんのおかげで…」

「ほんまに惜しい人をなくしたわ」

それぞれの思い出話や、悔しさを語って帰っていく。


遅れてきたり、
終わってから到着したり、
誰かの電話が鳴ったりで、


病院での最後の夜から
火葬が終わるまで、

それどころか、
小さな骨壺になってからも、


おばあちゃんとの
思い出話が尽きることはなかった。


おばあちゃんは、
何日、何人語り続けても
終わりが見えないぐらい、

たくさんの人に愛を注いで、
その人たち全員に愛され慕われていた。


みんなおばあちゃんが大好きだった。


みんなおばあちゃんに、
「恩がまだ返せていない」と
悔しがっていた。


それを見て、分かったのだ。


あぁ、


そうか。

そりゃそうか。


私の大好きなおばあちゃん。


こんなにたくさんの人から
好かれているおばあちゃん。


私がいくら好きでも、
「おばあちゃんッ子」になれないわけだ。


私の好きなんて、
ぜんぜん特別じゃない。


血のつながりも、年齢も、
そんなのぜんぶ飛び越えて、


あなたはこんなにもたくさんの人から、
「大好き」をもらっていたんだ。


私の「おばあちゃん大好き」は、
ここにいるみんなとまったく同じ。


「おばあちゃんッ子」って
認めてもらえないわけだ。

おばあちゃん、

私、「おばあちゃんッ子」にはなれなかったけど、
あなたの孫で本当に良かった。


あなたに「自慢の孫だ」と言ってもらえて、
本当に誇らしい。


あなたの人柄が、
私の人生の目標です。

どうして最後、
あんな病気になってしまったのか、

助けてあげられなかったことが、
悔しくてたまりませんが、


本当に「ありがとうぉ」。


今年の11月は、お墓参りに行くからね。

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