見出し画像

「走ることについて語るときに僕の語ること(村上春樹)」からランニングとの向き合い方を考える-4/4

作家の村上春樹さんはランナーであり、ランニングについての本を書いています。ランナーなら誰しも感じたことがある感情を文章で表現されています。響くフレーズを引用させて頂き、自分の考えも添えて書きたいと思います。

何度かに分けて書いており、こちらは4回目(最終回)の記事です。
前回(1回目・2回目・3回目)はこちら

はじめに:この本と私

私は走り初めて3年ほど経った時に、偶然この本に出会いました。当時はマラソンを初心者でしたが共感することが多かったです。その後フルマラソンで夢だったサブスリーを達成して、燃え尽き、また走り始めたという私のランニング遍歴の中で、5-6回読み直しました。

その度に新しい発見があり、モチベーションをくれ、時にはランナーの迷い・悩みにも寄り添う文章に助けられました。今思えば、自分自身のランニングに対する考え方に大きく影響を与えた内容でした。

先日久々に読んでみて、やはり良い本だと思ったので、私に響いた箇所を引用させて頂き、自分の考えも添えて書きたいと思います。

走り始めたばかりの方、レースに興味のある方、レース熟練者の方、広くランナー全般に通じる感情や視点があると思います。それは、走ることの本質、良いところだけでなく醜く苦しいところも表現されていると思います。

タイムが伸びなくなったときに、レースとどう向き合うか。

今回は、マラソンで以前ほどタイムが伸びなくなったとき(加齢などで)、その後のランニングやレースとの向き合い方、意味合いの見つけ方について書かれています。

私自身もフルマラソンでサブスリーという目標を達成したあと、色々有り燃え尽きました。そのときにこの本を再読して、ランニングに対する姿勢や考え方を改めて整理できた部分をご紹介します。

レースはタイムが伸びているときが一番楽しい。けれどそれはいつか止まります。そのときにどう考えるか、という一つの道標として私はとても助けられました。

肉体の減衰という栄誉

タイムは問題ではない。今となっては、どれだけ努力したところで、おそらく昔と同じような走り方はできないだろう。その事実を進んで受け入れようと思う。あまり愉快なこととは言いがたいが、それが年を取るということなのだ。(中略)肉体の減衰という栄誉が待っている。その事実を受容し、それに慣れなくてはならない。

私がフルマラソンにハマった理由は多くありますが、その中の1つに「向上感」があります。走り始めた頃には絶対ムリと思っていた42.195kmを完走できるようになる。それをサブフォー(3時間台完走)で走れるようになる。1度のレースで20分も自己ベストを更新する。憧れだったサブスリー(2時間台完走)をする。まさに「右肩上がり」のこの体験、これは成長期を過ぎた大人にはたまらない体験であり、マラソンの大きな魅力の1つだと思います。

一方でこの「右肩上がり」だけに依存することは危険な一面もあります。どんなに優れたランナーでも、いつかは伸びしろがなくなります。さらに加齢による体力の衰えは、マラソンのタイム、という絶対的な指標にクリアに表現されてきます。

これまでは10分単位で自己ベストが更新できていたのが、10秒単位の更新になる。レベルがあれがれば、自己ベストを削り出すための努力は指数関数的に増えていきます。(5時間の人が10分縮めるのと、3時間の人が10分縮める努力の絶対量は、大きく違います)

あるタイミングでは自己ベストすら諦めるときがきます。「もう昔のようには走れない」と。しかし、それでレース自体・ランニング自体を引退してしまうのはとてももったいない。タイム以外の意義を自分なりに見つけていくことが、大事だと思います。

村上さん自身もタイムの伸び悩みを経験し、その後に以下のような考え方を持たれています。

タイムではなく充足感

大事なのは時間と競争をすることではない。どれくらいの充足感を持って 42 キロを走り終えられるか、どれくらい自分自身を楽しむことができるか、おそらくそれが、これから先より大きな意味をもってくることになるだろう。
数字に表われないものを僕は愉しみ、評価していくことになるだろう。そしてこれまでとは少し違った成り立ちの誇りを模索していくことになるだろう。

「充足感」という言葉の意味は人それぞれあると思います。

例えば、
・自己ベストではないけれど、自分が今回目標とするタイムではしれた。
・42kmの間、一定のペースで走りきれた、歩かなかった。
・きつい場面でリタイヤも考えたが、自分を鼓舞してゴールできた。

何より嬉しかったのは、今日のレースを僕自身が心から個人的に楽しめたことだった。他人に自慢できるようなタイムではない。細かい失敗も数多くした。でも僕なりに全力は尽くしたし、その手応えのようなものはまだ身体にほんのりと残っている。そしてまた、いろんなところがこの前のレースよりいくらかずつ改善されていたと思う。

こういったことを、自分なりに整理・消化して、レースにエントリーし全力で走ることが、大切な気がします。

私自身はまだあまりこれはできてません。フルマラソンは20回程走りましたが、やはりタイムが価値観の大部分を占めていました。けれど今後は”充足感”につながるレースをしていきたいと思います。

レースは楽しんでこそ

そう、マラソン・レースは楽しんでこそ意味があるのだ。楽しくなければ、どうして何万もの人が 42 キロ・レースを走ったりするだろう。
だって「ランナーになってくれませんか」と誰かに頼まれて、道路を走り始めたわけではないのだ。誰かに「小説家になってください」と頼まれて、小説を書き始めたわけではないのと同じように。ある日突然、僕は好きで小説を書き始めた。そしてある日突然、好きで道路を走り始めた。

フルマラソンのレース本番スタート前には、いろいろな感情を持っていました。

・目標タイムに対する緊張感
・応援してくれている人への感謝
・沿道で知人・友人・家族に会える期待感
・そしてレース後の自分は満足できているんだろうか、という気持ち

とはいえ、これまで私は緊張感が一番大きかったです。数ヶ月の間トレーニングしてきた本番だし、性格的にも本番はシリアスに考えてしまう方なので。

「楽しむ」というのは、レースに限らず、ランニングを長く続けていく上で大切な気持ちだと思います。自分もそう思いながら、今後はレースに出ていきたいです。

温かい共通項

世間の一般的な常識から見れば、とてもまともな生活とは言えないはずだ。変人・奇人と言われても文句が言えない部分はある。だから「連帯感」というほど偉そうなものではないにしても、温かい共通項のようなものが我々のあいだには漠然と、晩春の峰にかかった淡い色合いのもやのごとく、存在している。(中略)レースに参加することは、勝ち負けよりはむしろそういう共通項の有り様を──つまりもやのかたちや色合いを──確認する儀式としての意味合いの方がより強いかもしれない。

好きな表現であり、レースという場の本質でもあると思います。

ある1つのレースに集まる人たちは、とんでもない偶然で集められた同じ趣味を持つ人々、です。

同じ日、同じ場所に、同じ距離を走る。全然知らない大勢の人と。

よくよく考えるとこれはとてもすごいことだと思います。

レースの参加は様々な要素で決まります。各個人の都合(プライベートや仕事の予定・住んでる場所・走力など)はもちろん、最近は抽選の大会も多いので運も左右します。

そんな中で、同じレースを走っている人は、偶然をくぐり抜けた強い共通性があります。しかも同じ集団やグループで走っている人はさらに。

このような連帯感・共通項は走るモチベーションを新たにしてくれます。うまく表現できないのですが、やっぱりランニングってよいな、とこういう時に特に思います。

たいした意味も持たない、はかなく無益なものとして、あるいはひどく効率の悪いもの

僕らは初秋の日曜日のささやかなレースを終え、それぞれの家に、それぞれの日常に帰っていく。そして次のレースに向けて、それぞれの場所で(たぶん)これまでどおり黙々と練習を続けていく。そんな人生がはたから見て──あるいはずっと高いところから見下ろして──たいした意味も持たない、はかなく無益なものとして、あるいはひどく効率の悪いものと映ったとしても、それはそれで仕方ないじゃないかと僕は考える。
たとえそれが実際、底に小さな穴のあいた古鍋に水を注いでいるようなむなしい所業に過ぎなかったとしても、少なくとも努力をしたという事実は残る。効能があろうがなかろうが、かっこよかろうがみっともなかろうが、結局のところ、僕らにとってもっとも大事なものごとは、ほとんどの場合、目には見えない(しかし心では感じられる)何かなのだ。そして本当に価値のあるものごとは往々にして、効率の悪い営為を通してしか獲得できないものなのだ。たとえむなしい行為であったとしても、それは決して愚かしい行為ではないはずだ。僕はそう考える。実感として、そいして経験則として。

市民ランナーの気持ちや、ランニングに取り組む意味合い、が書かれていると思います。

ランニングに限らず、多くのスポーツは、やっていない人からすると意味がわかりません。そこにどれだけの努力が投じられているか、は外の人からはわかりません。

だけどやっている人同士はいたいほどわかる。あの人がどれだけすごいのか、どれだけの努力をしているのか。

それが共通項や連帯感を生むものなんだと思います。

教訓と得心

個々のタイムも順位も、見かけも、人がどのように評価するかも、すべてあくまで副次的なことでしかない。僕のようなランナーにとってまず重要なことは、ひとつひとつのゴールを自分の脚で確実に走り抜けていくことだ。尽くすべき力は尽くした、耐えるべきは耐えたと、自分なりに納得することである。そこにある失敗や喜びから、具体的な──どんなに些細なことでもいいから、なるたけ具体的な──教訓を学び取っていくことである。そして時間をかけ歳月をかけ、そのようなレースをひとつずつ積み上げていって、最終的にどこか得心のいく場所に到達することである。あるいは、たとえわずかでも それらしき場所 に近接することだ(うん、おそらくこちらの方がより適切な表現だろう)。

私は今この考え方で今後のレースには臨んでいきたいと思っています。タイムを追っていた時期はだいぶ前になりますが、その時も1つ1つのレースで教訓や改善点をレース後に書いていました。

「自分なりに納得すること」が具体的にどういうことか、今はまだわかりませんが、またレースを楽しんでみたい(苦しんでみたい)という気持ちが芽生えてきているので、挑戦していきたいと思っています。

すべてのすれ違ったランナーへ

そして最後に、これまで世界中の路上ですれ違い、レースの中で抜いたり抜かれたりしてきたすべてのランナーに、この本を捧げたい。もしあなた方がいなかったら、僕もたぶんこんなに走り続けられなかったはずだ。

この本の最終ページです。

ランニングは孤独なスポーツではありません。

他のランナーとの共通項や連帯感を感じやすく、それがまた自分のモチベーションになっていきます。

日々走ってすれ違う事やレースで一緒に走ることで、自分自身も誰かのモチベーションになっているかもしれません。それがまた自分のモチベーションにもなりますね。

こういうサイクルが回って、多くの方が走り出したり、走り続けてくれると嬉しいと思います。


最後まで読んでいただきありがとうございます。好きボタン(ハートマーク)を押して頂けると励みになります。