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連載|創業は赤いリンゴの時代①

これまで、マモちゃんや菊炭の今西さん、里山の服部先生はじめ多くの方に、しい茸のことや里山の事について教えていただきました。しかし、実はまだ仲しい茸園の創業当初のことについて良く分かっておらず、気になっていたぼく(努)。今回、義理のおじいちゃん仲富男(なかとみお)さんに、創業に至った経緯や歴史、どんな想いで取り組んでこられたのか、教えていただきました。


■きっかけは終戦後の食糧不足

努  突然すみません。これまでまとまってしっかりお話を聞くことをしてませんでしたので、今日はおじいちゃんに、我が家のしい茸の歴史を教えてもらいたいとお時間いただきました。

仲富男(以下、富男) なるほど、なるほど。ええこっちゃ。

努  是非、教えてください。

富男 それで…自分のキノコの事の発端は大東亜戦戦争(第二次世界大戦)なんよ。食べるものが無くてね、百姓もね全部採れたもの、ほとんど国に供出して、なにんも手元に残らんかったんよ。ほんで、わしら百姓は何を食べたか。米やら麦は全部国ださなあかんやろ、だからさつま芋とかいろんなリストに上がってこないもんを作って、隠れて食べて生き繋いでいたんよ。その時に、何か食べるもんはないかと思って調べていくと、山にある木を使えばキノコが生えるぞっちゅうことが分かってきたわけや。キノコやったら、そのリストに誰もあげようがないわけや、それで「これや!」となったわけや…(笑)

努  なるほど、大東亜戦争がきっかけだったんですね…

富男 そうや。その時は食べるものがないくらいやから、燃料も薪か炭かしかなかったんよ。ガソリンなんて全くなかったんよ。その時代は、この辺一帯というか日本全国中と思うけど、この山の木が一本もないところまでみな切ってしまって、炭にしたり薪にしたりして…。町を走っている車はどの車も薪積んで町に向かって走っていたもんや。終戦後のことや。

努  一本も無くなるほどですか。大変な時代ですね。

富男 大東亜戦争で負けて、神戸の国鉄のガード下は闇市ばっかりや。ぶつぶつ交換のそんな時代があったんや。そんな時に、美空ひばりの「赤いリンゴ」の歌が出たんよ。あの時の感動はすごかったよ。ぱぁーっと世の中に火が灯ったような感じやった。その時分、この地区の山は全部裸になったわ。その時代は、砂糖はなくて、サッカリンとかズルチンとか、甘いっちゅうだけやで、砂糖の代用として暮らしてたんよ。ところが田舎は、吊るし柿を作ってそれを砂糖の代わりしよったんよ。そしたらうちのお寅のおばん(おじいちゃんの祖母)がな、たくさん吊るし柿作っていて、ずーっと二階まで端から端まで並べていたんよ。それで、取ったら怒られるけど、わし、取っては怒られ、食べては怒られ、そうして大きくなったんよ…(笑)

努  終戦後の食糧が少ない時期に、生きていく為の方法として考えたんですね。

富男 それが原点や。そのひもじさでね。キノコを思いついてやったんや。

ノートを見ながら話してくれました


■初めてできたしい茸は市場で扱ってもらえなかった!?

努  それでキノコを作ろうと思ったんですね。

富男 うちは山があるやん。キノコを作ったらやな、食べるものなる。田や畑で採れたものは全部国に供出せんなんのよ。

努  戦後でもまだ食糧を供出しないといけなかったんですね。

富男 そうやがな。そんな時代やったんや。国に食べ物があらへんもん。貿易もないので、日本は日本だけやもの。国同士のものの出入りがあらへんやん。今だって戦争になれば、食料自給率は39%なんやから三人に二人は食べるもんがないっちゅうことや。これが事実や。な、みんなそんなん頭にあらへんと思うわ。我々の年代と若いもんの感覚が全然違うと思うわ。

努  そんな時代で、おじいちゃんがキノコを作りたいっていったらお父さんは喜んだんじゃないですか?

富男 それがな、実は勝手に作って、おやじに見つかって怒られたんよ…(笑)

努  えっ!?怒られたんですか?

富男 なんでいうたらな、現実に薪やら炭にしたら今日現金になるわけや。ところが、しい茸やったら二年間は売られへんがな。それで、木を腐らすわけや。だから親父からは「そんなもったいないことをしてやな、何をさらすねん!そんな暇があったら、田んぼ行って草刈って牛の餌をとってこい!」といって叱られたんや。全くそのとおりや…(笑)

努  でも、なんでお父さんに怒られたのにどうして、しい茸を始められたのですか?

富男 いや、ナイショでやったんや…(笑)

努  ナイショで!?

富男 うん、1mの原木あるやん。あれがはじめた時は五百本あったんや。

努  どうやって菌を手に入れたのですか?

富男 菌?そんなんあれへんがな。うん。その当時、しい茸の栽培の本があって、ほいで菌を試しに郵便かなんかで取り寄せたんよ。それで、植えたんや。その菌を。そしたら…(笑) 採れたのは見ても似つかん、真っ黒けのしい茸やったんよ。商品になれへんねん。そんで、池田のマルイケ市場に持って行ったんや。そしたら市場はどうやって言ったと思う?「こんなもん毒キノコやないか、食べるキノコとちゃうわい」と言われた。そりゃぁ、頭にきたぞ(笑)

努  それでどうされたのですか?

富男 そいで困ったわけだが、西宮にね、そこにわしのおじさんが鷲林寺で百姓をしていて、そこが野菜を作って毎日市場にもっていって自分で売っていたわけ。あそこは、自分で売るねんで。こちらとはごろっとやり方が違うんやけんど。鷲林寺のおじさんに相談したところ、おじさんは「いや、そんなもん市場がどないこないいわんかて、自分で売ったらええんよ」というわけや。しかし、「そんなもん出来るかい!」とわしが言うたら、おじさん「うち持ってこい」というさかい、おじさんのところまで朝起きて自転車で行ったんや。それで、ああして売れ、こうして売れとに教えてもらって売ったんや。そしたら……、売れたんや…。

努  真っ黒けがですか?

富男 真っ黒けが…(笑)そんで、こうた人の中で八百屋が「もっと明日持ってこい!」いう訳や。そんで、なんぼでも売れるから、しい茸が面白いという事が分かったんや。

努  その時おじいちゃんは何歳だったんですか?

富男 いくつかなぁ。たぶん18くらいやったと思うわ。


今回は、長くなってしまいましたのでここまでとさせていただきます。続きは次回に書かせていただきます。おじいちゃん、18歳でひもじさからと山の木を活かしてしい茸をおもいついて、始めたという事。年齢から逆算すると1948年。終戦1945年の3年後くらいですね。その時代の大変さと生き抜くための力強さを感じました。


次回へ続く…

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