「普通」を死語にしたい
たまに心の中で(普通だな〜)と思わず呟いてしまう時があります。
どんな時に呟いてしまうかというと、
圧倒的な才能を持った人が目の前に現れた時、
ああ、自分は才能がないな〜、努力も出来てないな〜
そんな事が頭をよぎった時、使いたくもないのに普通という単語が浮かびます。
こんな経験、皆さんもないでしょうか?
対個人に対して「普通」という表現を使うとき、その意味は大抵
何もない様、対象より劣っている様
要は少々の侮蔑の意味合いをはらんで使っている事が多いでしょう。
しかし、これが対個人から社会全体へ対象を拡大させると、「普通」は全く違う意味へと変化しませんか?
「普通の家庭」「普通の会社」
これらの言葉で想像するものは、一体どういった家庭の姿、社会の姿でしょうか
おそらくですが、普通の家庭でイメージするものは、
適度にお金がある家庭、不自由なく生活できている家庭
普通の会社なら、
大きくはないが、それなりに利益がある会社、適度に長続きしている会社
こんなイメージがありませんか?
つまり、対社会へ拡大したとき、「普通」という言葉は、
適度にある様、平均である
という意味となるようです。
全然意味が変わりますよね、じゃあ、普通ってなんだっけ?ググってみましょう
普通・・・特に変わっていないこと。ごくありふれたものであること。それがあたりまえであること。また、そのさま。 goo辞書より
ほうほうほう。
で、なにに対して?
ありふれたものとはなにか、当たり前とはなにか、比較する基準が必ず必要です。
しかしこれ、難しくない?
「勝る」「劣る」という観点のみなら、一方を基準にすれば、2点を比較するだけで意味付けは容易ですが、「普通」となると、対象がありきたりであることを証明する「物差し」が必要になります。
ではその物差しの作り方としては、そうですね、ある価値観を定めて「多数派」を導き出すことで、多数派であるから、ありふれていると言え、よって普通を測る物差しとして効果を発揮できる。という作り方ですかね。
いやちょっとまった、その多数派を導き出す為に必要なその「価値観」
この価値観から「普通」を導き出すためには、価値観が「異常」ではないという証明をしなければいけないのではないか?
あーめんどくさい、というか、ここから疑問に感じるのは、「普通」は存在しているのか?
長々と屁理屈述べましたが、ここで趣旨をズドンと。
普通などない。死語にせよ
普通と異常は表裏一体。私の普通は誰かの異常。
そう考えると
普通とは異常である
こういう風に考えてしまいます。
大体普通という言葉の内包する意味、広すぎます
ひと昔前、大人たちが「ヤバい」という若者言葉を取り上げて、「若者はなんでもヤバいという!日本の没落だ!」などと言っていましたが、若者の私から言わせてもらうならば、
「普通」なんていう「ヤバい」よりはるかに不明瞭な言葉を多用してる日本、あなた達の世代からとっくに没落してるのでは?
最近特に「多様化」に社会的関心が寄せられています。
しかしここで悩ましいことですが、多様化とは「普通」を拡大解釈させる事のように考える人達がいます。
さも、「あなた達も、普通というカテゴリーに入れてあげますよ」と言わんばかりに
違う、そのカテゴリーはそもそも無いんだ、普通を取り払え。「普通教」から解脱しろ。
金子みすゞは「みんな違ってみんな良い」と言いましたが、私がアレンジするとしたら、こうですかね
「みんな違う だからどうした」
普通よ、お疲れ様、もう帰ってくるなよ
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