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今のMTGのスタンダード環境に必要なのは「奇跡」なんじゃね?っていう話

今日は僕が10年近くプレイし続けているある対戦ゲームの話をしたいと思います。その名もマジック・ザ・ギャザリング(”Magic the gathering”以下MTG)です。

かの「遊戯王」のモデルとなった世界最古のカードゲームで、一時期はコロコロコミックでの漫画連載やメディア展開もなされたので、名前だけでもご存じの方は多いと思います。
僕は小中学生時代に遊んでしばらく引退した後に近年復帰したクチで、久しぶりに遊んでみて何に驚くかと言えば色々あるんですが、まず第一にモンスターカードが強い!滅茶苦茶強い!(正確には『クリーチャー(=生物の意)』なんだけど、MTGを知らない人にもわかりやすさ重視で『モンスター』と呼称します。)

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MTGの世界では「マナ」と呼ばれる魔法のエネルギーを支払ってモンスターを召喚したり魔法を発動させたりするんだけど、同じ量のマナを使って召喚できるモンスターが、遊戯王でいう「攻撃力」「防御力」が昔と比べて1.5倍増しくらいはアタリマエで、その上役に立つ能力を2つも3つも持ってるんだから昔のカードが太刀打ちできるはずもない。

そんな訳で週刊少年ジャンプもビックリの戦闘力のインフレがMTG世界でも起こって、プレイヤー達はカードが強くなってハッピー、新弾のブースターパックが売れて販売元のウィザーズオブコースト社もハッピー・・・とはいかなかった。禁止カードが出ちゃったのである。

2020年6月1日 禁止制限告知
https://mtg-jp.com/reading/publicity/0034028/

禁止カードを出す理由、出さない理由

MTGでは「スタンダード」という、直近2年の間に発売されたカードセットだけが使えるルールが主流になっている。長年プレイしてきてカードコレクションの多いプレイヤーと新規プレイヤーとの間にカード資産の面で戦力的な格差が生じないようにするという大義名分ではあるんだけど、新しいカードセットが売れなきゃウィザーズ社が潰れちゃうっていう事情もある。
だから最低でも2年間は手に入れたカードを使って遊べることを保証するために、「スタンダード」というルール内ではなるべく禁止カードを出さないよという暗黙の了解があったんだけど、それが近年破られつつある。

「遊戯王」でちょっとでも遊んだ人なら解ると思うんだけど、「遊戯王」は禁止カードや制限カードを制定してカードゲームとしてのバランスを取っている。その目的は、

①環境に多様性を持たせるため。
②環境に変化をもたらすため

というざっくり2種類に分けられるだろう。
①の「多様性」っていうのは人種問題とかそういうのではなくて「個別のゲーム体験」のことだ。自分が気に入ったカードや偶然手に入れたカードを使って勝利する。どのカードを使うかを取捨選択する。カードゲームにおける「デッキを構築する楽しみ」のこととも言い換えられる。単純にどんな時も強いカードを使えば勝てるというプレイ環境になってしまえば、みんなが同じカード、同じデッキを使うことになって退屈になってしまう。「ああ、またそのデッキでそのカードね・・・」みたいな感じ。対戦相手がどんなカードを繰り出してくるか分からないという不確定要素、つまりビックリ体験が無くなってしまうのだ。

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例えばこんなカードが何枚でも使えたら・・・


こういう、自分の選択が対戦結果に影響を与えるというゲーム体験は「ポケモン」に近い。どんなポケモンと出会うか、捕獲に成功するか、どの技を覚えさせるか、自分の好きなポケモンでいかに戦うか、ポッポとオニスズメ、キャタピーとビードルのどちらを選ぶか、同じ「ポケモン」というゲームをプレイしていても、個別のプレイヤーの選択によって勝利やゲームクリアへのプロセスは少しずつ異なってくる。

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②の環境に変化を持たせるための禁止というのは、①の多様性とも関連していて、例えばSNSで一度強いカードや強い戦略が拡散されてしまうと、こぞってプレイヤー達は同じカードを使って同じ戦略を真似し始める。するとプレイ中に同じカードを使った人同士でしか対戦しないというゲーム環境になってしまう。これは遊戯王に顕著な現象で、カードゲームとしての「遊戯王」にはMTGにおける「スタンダード」に相当するルールがない。つまり発売されてからずっと同じカードを使い続けることが出来るわけで、強いカード、勝てるカードを手に入れたプレイヤーは新しくカードを購入する必要がなくなってしまう。そうなると発売元としては困ってしまうので、新しく更に強いカードを創り出して戦闘力をインフレさせるか、古いカードを禁止してしまうのである。
近年はMTGもこのドツボに嵌まり込んでいる。元々MTGには同じカードばかりを使えないように「5色のマナ」という概念があったのである。カードを使う前に、プレイヤーはどの色のマナを使うのが得意な魔法使いになるのかを選ぶ。赤は情熱の色、炎や稲妻を操ってあらゆるものを焼き尽くすのが得意。緑は生命の色、パワフルなモンスターを召喚して相手を踏み潰すのが得意・・・、といった具合だ。
ところが先述したSNSによる拡散でプレイヤー間での情報共有は活発になり、やはりすぐに似たようなカード構成の戦略で溢れるようになってしまった。その時分で強い色と弱い色の格差が開いてしまったのである。そこでプレイヤーの不満のガス抜きのためにウィザーズ社は、環境を支配するカードをやむなく禁止する処置をせざるを得なくなってしまったというのが現在までの流れである。

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「この魔法アイテムカードは強すぎる!禁止しろ!」「このモンスターカードは強すぎる!禁止しろ!」なんて怒号が飛び交い、MTGの禁止改定はSNSや各情報サイトでは一大イベントになりつつあります。
しかし個人的な意見なのですが、こうしたプレイヤーの多くが本当は禁止カードが出ることなんて望んでいる訳じゃなくて、本当は「対抗策」が欲しいんだと思うんですよ。強いモンスターを召喚されて、強い呪文を使われて、為す術なく敗北していく、これがもっと一方的な試合じゃなくて、何とか応手を繰り出して、辛くも逆転勝利する、あるいは惜しくも惜敗する、くらいの塩梅だったら、ゲーム体験としてもっと楽しいものになる筈なんです。それにはどうすればいいか。

「奇跡」が起きればいいんです!

(もしこのしがない拙文をガチの神話級MTGプレイヤーの方が読んでいたら、以下与太話だと思って笑ってやって下さい。)

奇跡も魔法もある!

かつてMTGの世界には「奇跡」と呼ばれる魔法が存在した。そこは次元「イニストラード」、狼男やゾンビ、吸血鬼のような不死の怪物たちが跋扈し、人間たちは陰鬱に怯え暮らしている。迫りくる怪物たち、絶体絶命の窮地の中、祈りを捧げると天使の業火が忌まわしき者たちを焼き尽くした。

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・・・という、モンスターに追い詰められた人間たちが起こした一発逆転の奇跡の魔法というニュアンスを、ゲームシステムで表現したのが、そのものズバリ「奇跡」という呪文です。

この「奇跡」が発動すると、その強力な効果でそれこそ遊戯王的な、カードゲーム漫画のような劇的な大逆転を起こせるんですよ。僕もこのイニストラード期のスタンダードで何度も逆転したし、何度も逆転されました。
この「奇跡」のミソは「勝負が最後までわからなくなる」っていう所です。強いカードを最速でプレイされてそのまま土俵際まで追い詰められた末に敗北っていう体験の何がイヤって、ほぼ負けるだろうというゲームを延々続けなくちゃいけない所です。「4ターン目にこちらのモンスターが全滅させられたら負けだな」とか「次にあのカードで攻撃されて負けだな」とか、ある程度ゲーム慣れしてくると、次に起こる展開が予想出来てしまうというのはプレイヤーとしての習熟の証ですが、ゲームとしてはちょっと退屈になってしまいます。この「奇跡」呪文がデッキ内に存在することで、プレイヤーは最後の一枚に引くカードまで勝敗の行方が逆転し得るというハラハラ感を持ってゲームに臨むことが出来るようになります。

言い換えれば「奇跡」というのは運要素の介在を大きくすることです。将棋やチェスは純粋にプレイヤー本人の実力だけが勝敗に直結しますが、カードゲームはあくまでもゲームであるために、カードの「引き」という偶然に近いファクターが勝敗に作用します。

▽参考記事
白饅頭日誌:8月25日「ジャイアントキリングのジレンマ」

https://note.com/terrakei07/n/n1f166e8dd197

 しかしこの「ジャイアントキリングが起きにくい=実力がものをいう=競技性が高い」という訴求性も、メリットばかりがあるわけではない。
 実力がものをいうということは、これまでに蓄積してきた練習時間やセンスがものをいう世界となることを含意する。すなわち、初心者には参入障壁が高くなってしまうのだ。
 「初心者狩りが多く新規参入が停滞する」というのは、あきらかな八百長接待プレイでもしないかぎり「ジャイアントキリング」が発生しないゲームでほぼ不可避に生じるものだ。「初心者をいたぶってやろう」などという悪意の有無は実際のところあまり関係がない。
 競技性を高めようとすると、初心者~中級者はほとんど成功体験を得られない時間を長く過ごすことを余儀なくされ、このジャンルの中長期的なファンになってれる前に離脱してしまう。
 かといって、初心者が上級者に勝ててしまうようなシステム「運要素」あるいは「ワンチャン一発大逆転」のようなものを入れてしまうと、競技としての訴求力は大幅に損なわれてしまうため、いわゆる「興行」としての適性は失われてしまう。
 つまり「競技性」と「ライトユーザーの抱き込み」は、おおむねトレードオフの関係となっているのだ。

「競技性」と「運要素」を両立させてゲームを楽しくするという難しい課題を最も巧く実現できているのがおそらく「スマブラ」シリーズです。ステージのギミックやランダムに出現するアイテムなどによって、実力者が理不尽にノックアウトされるということは珍しくありません。だからこそ、みんなでワイワイ盛り上がる「パーティゲーム」としての側面と、プレイヤー間の技術や鍛錬の差で勝敗を決する「競技志向の対戦ゲーム」という両方の側面の遊び方をプレイヤーに提供しています。
余談ですが「スマブラ」シリーズや「ストリートファイター」シリーズのようなオンライン対戦ゲームで特定の操作キャラクターによる戦略が支配的になってしまった時、ゲームの運営側は必殺技の威力を少し下げたり、技の発生速度を落とすことによるナーフ処理(弱体化)という措置をとることが出来ます。しかし対照的にMTGは元々はカードにルールが印刷してあるアナログなゲームなので「この魔法のダメージ、少し減らしちゃおうか!」というような、後から弱体化させる処理というのが非常に難しいため、一括してカードを「禁止」するという方向でゲーム体験の流動化を試みています。

「強い者が勝つ世界」は意外とつまらない

この「競技性」と「運要素(=初心者のとっつきやすさ)」の関係を実社会に喩えてみましょう。
お金持ちの家に生まれた人は良い教育を受けて、またお金持ちになるし、逆にそうでない生まれの人は暮らしを豊かにするためのリソースを捻出するのに苦労する、というのは割と多くの人が共有している認識だと思います。しかしお金持ちでない人がそのことに不平不満を漏らしても、
「そんなん自己責任やろ」
とシバかれて終了というのも、そこかしこで見かける光景かも知れません。
ですが対戦ゲームの初心者をその自己責任理論でシバいても、
「あ、すんません。別のゲームやります。」
となることは自明の理。私達の人生も易々と別のゲームに乗り換えられたらよかったのに・・・という話ではなくて、優秀な人間が、豊富な財力で人生の勝者になれる世界というのがほとんどの人にとって大変な社会になるように、強いカードで組んだ強いデッキを使った、強いプレイヤーが勝つのが当たり前のゲームというのはその他凡百のプレイヤーにとってはそんなに面白くなくなっちゃうんです。全てが順当な実力主義の社会ってそういうもんです。
だからカードを禁止するっていうのはその「強いカード」の部分を削り取って公平にしようとする措置に近いんだけど、それだと「禁止にされなかったカード」の中から次の最強カードが現れてイタチゴッコになってしまう。
そうではなくて、カードゲームとしての原点に立ち返って「強さだけでは全ての勝敗は決まらない」という理不尽さの部分をもう少し押し出してみてはどうだろうか。それは例えば「奇跡」とか、それに類するようなシステムを作ったりすることで。eSportsなんて概念が生まれる20年近く前からMTGは世界大会や賞金マッチがあるゲームだ。「競技性」という役目はもう十分に果たしているのは間違いない。

ほんの少しの「理不尽」がゲームを面白くする

例えば何不自由ない家庭に生まれて、順風満帆に人生を送ってきた人が、戦争や災害といった「理不尽」によって酷い目に遭えばそれは悲劇だけど、完璧なデッキを使った最強のプレイヤーが初心者と相対して奇跡のトップデッキで逆転負けを喫したというならば、それは「理不尽」であると同時に「劇的なゲーム体験」だ。

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そうそう、こんな感じで!

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