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オペラ歌手の師匠に出会った話

俺が育った関東地方の片田舎にある団地は、自転車のカギをかけ忘れるとほぼ確実に次の日には無くなってる程度には治安が悪くって、俺もヤンキーに殴られたり殴ったり、それなりにお行儀の良くないガキだった。
そんな俺が、何故か大学に行けることになったのだ。

学内の敷地の地下を電車が通ってて、トンネルを抜けるとそこはまるで山みたいな土地だった。快速の止まらない小さな駅舎を出て、歩くこと10分くらいで正門が見えくる。舗装された道路が木々の生い茂る山中へ続いていて、アスファルトの一歩外側の地面は木陰に覆われて落ち葉が降り積もっている。
大学の中も山、山、山。千葉のテーマパークよりも広いんじゃないかってくらいの敷地面積で、教職員は舗装された道路を車で校舎の近くの駐車場まで行けるのだが、学生はそれぞれの学部の校舎に辿り着くまでプチ登山をしなければいけない。電車を降りて2、30分は山道を歩いて辿り着いた大学の外れにある煤けた壁のオンボロ校舎。雑木林の影に隠れたその建物の廊下や教室の床ではたまに親指大のサイズのクモやカマドウマがピョンピョン散歩をしているんだけど、それぞれの部屋には立派なグランドピアノが置いてある。教室が全部防音壁と金属扉の音楽室なんだ。いつも誰かがホルンとかクラリネットとか、管楽器の練習をしている音色が何処からか聞こえてくる。そこが俺の修行の地だった。

俺が通っていた大学は自由な校風で、自分の専攻科目の授業じゃなくても他の学部の授業が受けることできたのである。その中に芸術系の科目があった。
中学生高校生にもなると、始業式とかのイベントの時の校歌国歌斉唱なんてみんな声出して歌わなくなるだろ?俺はそんな時にいつも馬鹿デカい声出して歌ってる程度には空気が読めない奴だったから、歌を歌って単位を貰えるならコレ幸いとばかりに「声楽」の授業を受けたのである。
声楽の他にも色んな科目があった。「ピアノ」「作曲」「管楽器」「弦楽器」、授業を受けてる学生にも色んな層がいる。ガチで音楽家やプロの演奏者を目指してるヤツ、小中学校の音楽の先生を目指してるヤツ、ただなんとなくこの場所に来てるヤツ、俺は一番最後のグループ。
生まれつき声は大きかったから、デカい声で歌って褒められることが多かった。それだけで大学の通信簿の平均点が上がるのだから気分がいい。歌を専攻している学生が集まるサークルみたいな所にも出入りして、友達もできた。でも自分が気楽に歌を歌っていることを思い知らされたのは大学2年の終わりの頃だ。

確か声楽科の主任の先生が定年で退職するとかだったと思う。お祝いのパーティみたいな場面で歌を歌う席で、4年生の男の先輩が就活か何かで来られなくなったそうだ。コーラス系サークルの常なのか女性比率の高い所で男声は貴重だったから俺は意気揚々と手を上げた。
「じゃあ俺が代役やります!」
俺の意気込みに反して周りの反応は冷ややかなモノだった。「お前に出来る訳ないだろう」という態度を隠さない先輩もいた。「どうして!?」と俺が食い下がる程に顰蹙を買った。半ば最後は俺は逆ギレしたみたいな態度になってしまって、先輩達とも衝突してしまった。
今になって考えれば当然だ。副専攻の授業しか履修していない音楽の知識もほとんどなかった俺が、専攻で歌の勉強をしていた2コ上の先輩の代役を務めるなど、おいそれと出来ることではないだろう。しかし、その時の俺はその力量差を感じ取ることすら出来ないヒャッハーであった。未熟であった。
周囲との意識や音楽への取り組み方の違いをはじめて意識せざるを得なくなって、納得できなかった俺は、当時の先生に談判してある無謀な決断をしてしまった。「声楽」を自分の専攻科目にしちゃったのである。楽譜を読むことすらできなかったのに。

2年次まで俺の歌の授業を受け持っていた先生は女性だったので、同じ男声の先生に師事した方がいいだろうということで、新しい先生を紹介してもらった。
防音扉を開けてピアノの前の長椅子に座っていたのは180センチ以上はあろうかという大男で、ヒゲに覆われた顔で頭髪は薄く、ワイシャツの腹部は前方に張り出していたが、仕立ての良いスーツを着ていて、まるでジブリアニメに出てくるムキムキのオッサンのような風貌だった。
その強面ぶりにビビり散らかした俺はつっかえつっかえになりながら、声楽専攻に転向したこと、先輩達のように歌が上手くなりたい旨を話すと、師匠は椅子にふんぞり返って尊大な態度ながらも、初対面の相手に対して挙動不審を発揮した俺の言葉に寛大に耳を傾けてくれて、本来自分の担当学生の枠の外でレッスン時間を設けてくれることになった。

専攻の授業になるとそれまで複数人で一緒に授業を受けて歌っていた時とは打って変わって、マンツーマンのレッスンになる。先生とのタイマン勝負、ソロデビューだ。当然、周りに合わせて歌っていたそれまでとは違って自力で楽譜を読めなくちゃならない。そこで必要になるのが「ソルフェージュ」の授業である。4分音符は8分音符2つ分の長さ。16分音符は4つ分。文章にすると簡潔だがそのリズム感を身体に馴染ませるとなると話は別だ。足でステップを踏みながら手拍子で違うリズムを刻む。音楽未経験者向けの初級クラスの授業を1年生と一緒に受けた。ドレミを聴き分ける「聴音」もやった。やっとの思いで楽譜に書かれている歌のメロディがなんとなく読み取れて、適当にポーンと叩いたピアノの鍵盤の音がドレミファソラシドのどれかを聴き分けられるようになったのは二十歳か21歳くらいの時だった。

師匠とのレッスンは激烈だった。師匠がちょっと力を解放して俺に手本を聞かせてくれる時はレッスン室の窓ガラスが弾け飛ぶんじゃないかってくらいの声を響かせた。いつも吹っ飛ばされそうだった。本場イタリアでオペラ歌手としての修行を積み、自分の主催で地元で芸能人の地方巡業のように音楽劇オペラの興行を打っている凄い人だった。未熟だった俺でも理解するのに充分な次元の違いを見せつけられた。「声が小さい」なんて言われたのは、生まれて初めての経験だった。
俺のモチベーションに陰りが出てきた時は「適当に生きるな!」「男なら勝負は勝て!」と激してくれた。
クラシック音楽をやる人間らしい身嗜みをしろと言われたので、当時ビジュアル系バンドが好きで金髪にして伸ばしていた髪も黒染めして短くして、レッスンがある日はスーツで学校に行った。

歌を頑張って歌うだけじゃダメだとも教えてくれた。色んな音楽や芸術に触れなさいと。オーケストラの交響曲は長くて聞こうとしても途中で爆睡しちゃうけど、ショパンやリストのピアノはエモくてカッコイイなって思った。音楽の歴史の授業も受けた。モーツァルトとベートーヴェンのどっちが先に産まれたかなんて、クラシックを少しでも齧った人なら誰でも知ってることを知らなかった。美術館にも足を運んで、月並みな表現だけど、今にも動き出しそうな絵っていうのをはじめて見た。歌いながら身体を自由にするためにダンスの授業を受けたりもした。誰でも名前を知ってる音大の公開授業を聴きに行って、自分はまだまだ井の中の蛙だって思い知らされることもあった。

そんなこんなで大学4年間は過ぎて行って、俺は同級生の歌の専攻生の中で2番の成績を修めることができるようになった。

一人だけどうしても敵わない奴がいたんだけど、それはまた別の話だ。


この後、俺は声優養成所に入所するっていう人生最大の愚行を犯してしまうのだけれど、それも全部が全部無駄だった訳じゃない。今でも付き合いのある友人もできたし、何より誰と関わるにしても挙動不審だった俺が、多くの音楽や芸術に触れることは人間性を育む機会になったような気がしている。アートセラピーと言えるかもしれない。

今は世界中で、芸術興業も大変なことになっているけれども、あの時知り合った師匠達は絶対大丈夫だっていう根拠のない確信がある。

この話の教訓っていうか、一番言いたいこと。
俺は今までの人生で何度も『ジャンプ』したんだ。
努力と、根性と、運と、色んな人の助けによって。
治安の悪い団地の子供だった俺が、オペラ歌手の師匠に出会うという人生のステージまでジャンプしたんだ。
無才と天才の間をジャンプして、ちょっとした秀才くらいにはなれたのかも知れないし、無職になってた時期から今は社会人として働く所までジャンプした。
現在も投薬によって障害者と健常者の間をジャンプしているし、これからもジャンプし続けるだろう。
コミュ障とコミュニケーション強者の間を跳び越えたいし、貧乏人と大金持ちの間をジャンプするのも面白そうだ。

現在は大学時代の研鑽とは全然違う仕事をしていてそれなりに満足しているけれども、まだまだ次のステージがあると思っている。自分の中の狂ったコンパスを指針にして、彷徨い続けてきた人生だったが、歩みを止めない限りは絶対に何処かへ辿り着ける。

次は何処に跳ぼうか。

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