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【サッカーから学ぶ人生】 ~2ヵ月間練習をやめたら、サッカーが劇的にうまくなった理由~

これは私が現役として筑波大学蹴球部に所属し、最も集中してハイレベルなサッカーに関わった大学時代の昔話…。

結論から言う。
それは、臆さず自己主張できるようになったからだ。

ある年オフシーズンの2カ月間、サッカーもトレーニングも全くやらない決断をした。身体能力・戦術的判断の瞬発力は明らかに低下すると思われた。
だが、オフが明けて自己主張できるようになった私は、試合における総合的なパフォーマンスという側面において、格段に能力が上がっていた。
…そして、人生で初めての明確なフロー(ゾーン)体験をした。

その理由を改めて分析するとともに、どうやって自己主張できるようになったのかを以下の順で振り返りたい。
(※これは2000年のできごとで、現在の状況とは異なることが多々あると思われます。)

(1)強豪校という環境と自分の立ち位置

私は1999年筑波大学に入学し、蹴球部(サッカー部)に所属した。
トップチームの戦績は、詳しく覚えていないがとにかく全日本〇〇大会で優勝、準優勝等複数回。
Wikipediaによるとこんな感じだ。(私の所属期間は1999年4月~2003年3月)

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入部当初、監督から「君達が日本のサッカー界を背負っていく存在になるんだ」と話された時には、まじでやべーところに来たと思った。(このトークの記憶はいろいろがごちゃ混ぜになってる可能性ありw)当初の部員数は約160名、6軍まであって、その後、一年生の数十人は春先で見切りをつけ、140人前後になり、チーム編成は5軍までとなる。
だいたいそんな流れだったように思う。
各軍はトップチームと全く同じシステム・戦術を採用しながら、独立して活動する。そのため大会でも、【筑波大学B2 】vs【筑波大学C1】が対戦したりする。シーズン途中でも調子のいい選手は上のチームに抜擢されるし、逆に降格もある。ただ、どのチームでも同じ戦術なので、求められるプレーは基本的には同じになるというシステムだ。
トップチームのスタメンはほぼ卒後Jリーガー。後に日本代表になった選手も複数名いる。
夢への階段が明確に見えていた。

そんな中での、私のスタートは3軍だった。

そして、捻挫をしてすぐに4軍に落ちた。負傷者はあっという間に降格する。復帰後プレーのレベルを再評価されて初めて、3軍に戻れるシステムだ。下の選手は、上の選手と入れ替われる日を虎視眈々と狙っている。ちなみに私はそこから、3軍と4軍を行き来する日々。
正直、屈辱だった。
日本中から、「サッカーなら俺が一番」と思っていたような奴らが集まり、突然「むしろお前、下手なんだけど…」という現状を突きつけられるのだ。これは、なかなか強烈な体験だった。レベルの違いこそあれ、同じ悔しさを感じていた選手は多かったと思う。
私自身、京都府北部選抜に選ばれたり(これまた中途半端だけどww)、高校時代に一ヶ月間のブラジル留学を経験していたり、井の中の蛙は、その強豪大学でもやっていけること以外何も考えていなかった。いや、それ以外イメージしてはいけないと思っていたし、ただただそこで活躍できる自分だけをイメージしていた。

が、現実は現実だ。

そんな私だが
ある時期を境に急激にパフォーマンスのレベルが上がったと感じている。今回は、その原因について考察した。

(2)ストイックな取り組み方と人間関係 

私の取り組み方は、とにかくストイックだった。24時間サッカーのことだけ考えられたし、『体育専門学群スポーツコーチング専攻サッカー方法論研究室』という環境が、さらなる拍車をかけた。ほとんどの授業が面白くてしょうがなかったし、日々学んだことを実践したくてしょうがなかった。スポーツ心理学、スポーツ栄養学、スポーツ医学、運動力学、バイオメカニクス。
しかも、それぞれの授業では、その後オリンピックやパラリンピックで活躍する選手たちが、普通に隣の席に座っているのだ。彼らにも、負けてたまるかと思った。

そもそも、推薦では受験資格すらない自分が、頑張って勉強してこの強豪校に潜り込んだのだ。「自分の伸びしろはここから」それしか考えていなかった。運動力学やバイオメカニクスで学んだことを活かし、いかに体全体を鞭のように扱って末端の足先スピードを速め、そのスピードを力学的に効率よくボールに伝え、速いパスボールを繰り出すか、キックフォームを研鑽する日々、といった具合である。

Jリーグ、日本代表の試合もできる限り毎試合見に行った。練習直後、シャワーを浴びたら高速バスに飛び乗る。(当時はつくばエクスプレス開通前) 毎試合、自分が出場している気持ちで、プロのプレーを感覚としてインストールし続けた。テレビと生では、インストールできる情報量が全然違った。

肉体的な限界まで、身体能力面・スキル面・戦術面を高めるトレーニングには毎日取り組んだ。食事も常に、タイミングや栄養面など最善の状態が作れるよう気を使っていた。体が動かせない時間は、イメージトレーニングやテレビでのサッカー観戦、知識としての戦術論や運動力学など各分野で学んだことをサッカーにどう転換できるか考え続けた。

ここで厄介になったのが人間関係だ。
正直、このストイックな選手生活において、友人関係は邪魔だった。練習後、みんなで「飯行こうぜ~。」とどこに行くか相談したり、メニューを選んでいる間に、逃げていくのだ。トレーニングで破壊された筋細胞を修復させるための、栄養素を取り込む最高のタイミングが…。
見ていたかったのだ。コンパをしている時間があったら、リーガエスパニョーラやらセリエAの試合を…。

そこで、割り切れる人間ならよかった。
でも、そんなに強い人間ではなかった。
一緒にご飯を食べに行っては、壊れゆく筋細胞にばかり気を取られて友人との時間を楽しめなかったし、コンパを断っては勝手に孤独感に苛まれ、どんどん自分に自分が押しつぶされていった。

(3)認知とプレースタイル 

今から思えば、当時の自分に対する認知は、客観的に戦況を分析・判断する力を、大きく削いでいたと感じる。

それが、知らぬ間に形成されていた、「みんな自分よりサッカーがうまい」という漠然とした認知だ。

3軍の時点で、総合的パフォーマンスとしては4軍や5軍の選手よりは優れていたということもできるし、1・2軍の選手より優れていた特性もあったはずだ。例えば持久走をやれば、私は少なくとも同期では1軍~6軍まで合わせてもほぼトップだった。(今から思えば入試でも陸上部以外の選手ではトップだった…。)
ただ、私の認知は「一般化」「白黒思考化」され、「みんな自分よりサッカーがうまい=自分が一番下手」という考え方になっていた。

結果、プレースタイルは、ただただ全体のプレーのバランスをとる後手後手のプレーとなった。そして、できるだけパスを受けたくなかった。下手な自分を、みんなの前で晒したくなかった。自分が関わることでチームに迷惑をかけたくなかった。
…ちなみに私のポジションはボランチで、全体に指示を出しながら積極的にボールに絡んでゲームを組み立てていくのが仕事だ。ボランチがこんな状態でチームが機能するわけがない。

※ボランチ(守備的MF、真ん中らへんにいる人)…思いつく選手→柴崎、長谷部、遠藤、稲本、ドゥンガ、中村憲剛?名波?グアルディオラ?(当時、彼のプレーを一番参考にしていたけど、ボランチであってたかな…?ww)

(4)サッカーからの逃避(ヒッチハイク、バックパッカーetc.)

蹴球部には、1~2月に2カ月のオフシーズンがあった。ただし、2カ月後にその年のスタートラインを決めるセレクションがある。
つまり、この2カ月をどう過ごすかで、3月からの新体制のチームで何軍からスタートするかが決まるのだ。自己責任でのトレーニング期間とも言える。

入学初年度のオフでは、筋繊維を太くするバルクアップというウェイト・トレーニングを中心に取り組んだ。トレーニングとしては重要だが、シーズン中にこれをやってしまうと身体に負荷がかかりすぎるため、サッカーそのもののパフォーマンスが落ちる可能性が高い。そのため、オフシーズンで体全体の筋量を増加させ、シーズン前もしくはシーズン中に、その筋肉をサッカーのための筋肉に転換していく。そんな考え方の選手が多かったように思う。

大きな変化が訪れたのは2年目だ。
2年目のオフシーズン、私は、2カ月間全てのトレーニングを放棄した。

正直、心が病んでいた。
ストイックな自分と自分が創り上げた認知に、押し潰されていた。
何かがはじけた。
砕けた。
とにかく完全にサッカーから離れることを決意し、それまでやりたかったけど「サッカーがあるから我慢してやってこなかったこと」に片っ端から手を付けた。

・バンドを始めた。
・マニュアル一眼レフを買って写真を撮り始めた。
・パステル画を描き始めた。
・ヒッチハイクで横浜から京都まで帰った。
(つくばでスタートするのを友人に見られたくなかった)
・タイ~カンボジアへ3週間バックパッカーをしにいった。

そんなこんなで、私は成人式の日をカンボジアで迎えた。今から思えば、サッカーのプレーに大きな影響を与えたのはヒッチハイクとバックパッカーだ。

自分から何かアクションを起こさないと、周りにどれだけ人がいようと、何も起こらなかった。そして、ただただ孤独だった。
自分から行動することを学んだ。
逆に行動し続けて何か歯車が合わさった瞬間、動いた分の何乗もの大きな力が生まれるということを知った。動けば動くほど、動いた分の何倍も、世界は変わり続けた。
断固たる自分の意思を、示さねばならぬことがあることも知った。
死ぬかと思う体験をしたのだ。
タイとカンボジアの国境(陸路)では、密林で、ライフルを持った兵士10人ほどに銃口を向けられ囲まれるという経験をした。
タイの宝石店で押し売りに合いそうだったので適当にはぐらかしたら、店員が指パッチン、あからさまにゴツイ黒人二人が黒ずくめのスーツで現れ…ヒョイと担がれ…。…本当に殺されるかと思った。まるで映画だ。
(バックパッカーの話は、別記事で後日w)

とにかく、リスクを負って飛び込まないと何も得ることなんてできないし、自分の身は自分で守らないと、本当に命を落とす。
その匙加減・方向性は、全て自分次第。
そして、自分の責任。
すごく極端かもしれないけど、この経験は、ぼくのあらゆる価値観を変えた。

そして、それこそが

その後のチーム昇格に繋がる大きな要因になったと感じている。

(5)セレクションでのフロー(ゾーン)体験

濃密なオフシーズンを満喫し、フィールドに戻ってきたのはセレクションの3日ほど前だったように思う。ケガをしないように軽く足慣らしをして、ボールを蹴った。
迎えたセレクション(紅白戦を数試合)…

私は人生で最も素晴らしいパフォーマンスをしたと感じている。

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自分の視界と同時に、フィールド全体を俯瞰する上空からの景色が見えた。
誰がどこにいるか、手に取るように分かった。
次の瞬間、誰がどこに動くべきで、ボールがどこに運ばれるべきかは、もはや私の判断するところではなかった。
ただただ、自分に見えている次の展開を味方に伝え、そう動くよう要求し、ボールを動かし、自らも従った。動いているのか、動かされているのかもわからない。
あっという間の、できごとだった。

(6)昇格したとき、何が変わったのか

フロー体験は、その後も続いたわけではなかった。
だが、私はそのセレクションで、1年半到達できなかった2軍入りを果たした。(1軍じゃないんだけど…。)

プレーも変わった。
チームメイトに自分の意思を伝えるようになった。動いてほしい動きを要求するようになった。驚いたのが目と目を合わせられるようになったことだ。アイコンタクトが重要なサッカーをやっておきながら、私は味方と視線を合わすことすらできなかったらしい。その事実にも、初めて気が付いた。おそらく、他人と目を合わすこともできないほど、自分に自信が持てなくなっていたのだと思う。

何が変わったか。
私は、決して自分に自信がもてたわけではない。
言ってみれば、
極端な度胸がついただけなのだ。

自信があろうがなかろうが、自分の意思を強く発信しなくては「死ぬ」。その感覚だけが残っていた。私はたぶん、死にたくなかった。当時の自分に選択肢はなかった。問いが「Go? or Die?」しかなかったからw。
そこから、自分のやりたいことを主張しながら、チームとの調和をはかるというプレーができるようになった。ゲームのバランスを取るだけでなく、自らゲームをコントロールする関わり方ができるようになった。上手くいくとは限らない。でも、上手くいっても失敗しても、全ては自分の責任だ。命があるだけラッキー♪

(7)おわりに

さて、ここまで書いて、正直今も変わらんなーと思ってしまった…。
生き方が下手くそ過ぎるw
問いがだいたい「Go? or Die?」のままなのだ。
あれから、もうすぐ20年。
もう少しくらい、選択肢を増やしたい。いや、いちいち「Die」というパワーワードを持ち出さなくてはならない時点で、弱すぎる。
はてさて。
目指せグレー。増やせ選択肢(現実的な)。
人生って、もうちょっと気楽に柔軟に、生きていい気がする。
…と、感じられるようになったのが
わずかでも進めることができた、その後の20年の学びだ。

というわけで
それでは後ほど、経過報告はまた、20年後。
みなさんお元気で。

では、すこし寂しいので…

今年はいろいろとnoteで報告していくことにしま〜す!!よろしくどうぞ〜(*`・ω・)ゞ!!

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