どこよりも楽しい動物病院をつくること in 山口。脇本 雄樹
2009年、「NHKプロフェッショナル仕事の流儀」に同姓同名の福井県の「名田庄診療所」中村伸一医師が出演したことがきっかけで、奇跡の3人の同姓同名、中村伸一(隊長、院長、所長)トークライブが東京四谷区民センター大ホールで実現した。その少し前、俺は山口県・中小企業団体中央会で講演が決まり初めて山口県を訪れた。その機会に当時、山口市で唯一の経営コンサルタントだった「やまぐち総合研究所」中村伸一所長と2人で同姓同名トークライブをした。その講演会にワッキー(脇本 雄樹)が参加、それが、最初の出会いだった。
その後、わっきーは当時流行っていたmixiに俺の2冊目の著書「感動が共感に変わる!」のレビューを書いて、「まず、モンゴル行きます!」と宣言し、一緒に「モンゴル騎馬隊の旅」に行った。
モンゴルを一緒に旅した仲間の一人、当時、20歳の学生だった、ねっち(関根貴寛)は立派な経営者になっていてvoicyラジオにゲスト出演している。
その後、2015年、再び山口県宇部市役所主催の講演会に中村伸一所長が俺を講師に呼んでくれた時には、山口県のソウルフード、瓦そばを食べたり、角島大橋を渡ったり、わっきーが山口県内を車で案内してくれた。
2019年には、わっきーと当時高校生だった息子18歳のカイリと沖縄・今帰仁の夢有民牧場で「海馬(うみうま)」を体験した。この時の親子の旅の感想文を「ようこそドラマチックジャーニーへ」に載せている。
そして、今年9月の連休、今度は21歳になる息子カイリに加えて18歳の娘ヒビキも一緒に3年ぶりに夢有民牧場に行った。俺も24歳の長女・未空(みく)と22歳の次女・七海(なつみ)も誘って一緒に旅をして、わっきーとは家族ぐるみの付き合いをしている。隊員(旅の参加者)の子どもたちと一緒に旅に行くのが、会社創業以来の俺の夢だった。
22年経営してた旅行会社が無くなってフリーランスになった3年前と今年、2回共、「家族の旅に同行してもらえないですか?」というありがたいオファーをもらった。一緒に旅する機会、仕事をする機会をもらったことで、彼は俺の人生に彩りと喜びを与えてくれる存在になった。だから、感謝の気持ちを込めて文字に残したい。この旅は、Kindle版で出版しようと思っている。
わっきーは山口県山口市の「西京の森どうぶつ病院」 院長であり、獣医師。なんと朝7時からOPEN、入口から犬、猫エリアを完全に分けて飼い主さんと動物たちに寄り添った唯一無二の動物病院を創業し7年目。連続放送1,072回目から1回10分、全7回のvoicyラジオ対談、フォローして聴いてほしい。
わっきーは、静岡県清水市生まれの45歳、3人兄弟の末っ子として育った。物心ついた時から40年以上、山口県在住なので自称「生粋の山口県人」。子どもの頃から運動が得意で野球やったりサッカーやったり、釣りをして友達と外で遊ぶのが好きだった。
周南市徳山動物園の裏が社宅で、毎日のように動物園に2人の兄と潜り込み、優しい飼育員さんと仲良くなって象を触らせてもらったり、カバの背中に乗せてもらったりした。母親が動物好きということもあって、自宅でも犬、猫、ウサギ、インコ、うなぎ、メダカ、カメ・・・など小動物を飼っていた。
野球少年だった彼は中学へ行くと、野球部がなかったこともありバレー部に入部した。高校からは「目指せ!花園」と本格的に部活にエネルギーを注ぎ込んだ。父親がラグビーをやっていた影響で足の速さ、俊敏な動きを活かしたステップとタックルが得意なラグビー部員になった。監督がほとんど来なかったので自主的に考える部活で副キャプテンを務めリーダーシップを発揮したことが、今の院長をやっている事につながっている。大学でもラグビー部に所属し、28歳までやっていた。
大学は推薦で山口大学工学部に進学することが決まっていた。大学1年の夏、ラグビーで顎を骨折し2ヵ月入院したことが人生のターニングポイントになった。治療のため歯を食いしばったまま動かせない。流動食と点滴で過ごした。そこで「狭い世界しか知らない今のままでは人生面白くない!」と一念発起、18歳の彼は、夢を探そうとアメリカンドリームを実現する北米を目指す決意をした。
大学2年、19歳の夏、2ヵ月のアメリカ横断一人旅を決行した。ホームステイをしながら、ラスベガスからNYまで大陸横断をした。LAのディズニーランドや途中、カナダ・トロントにも越境して世界三大瀑布の一つ、ナイアガラの滝など有名な観光地も訪ねたが、ひたすら長いアメリカ荒野の一本道やホームステイ先のことのほうが鮮明に憶えている。2ヵ月で訪ねたホームステイ先は10軒もあった。「プールでバトミントンしようぜ!」とスケールの大きな会話に驚きを隠せなかった。同時に言葉の壁を感じ、自分の伝えたい事を伝えられないもどかしさも感じた。様々な人や文化に触れたことで、「自分のやりたいことをして生きたい!」と肚の底から思えた。
voicy内のコメント欄に、わっきーから、こんな投稿があった。
2ヵ月の旅から帰国して、「やりたいことを仕事に!」と考え、「やりたいことリスト」を書き始めた。すると、「動物に携わる仕事=獣医になろう!」に辿り着いた。獣医学部を調べると、全国に国公立大学が10ヵ所しかない。各大学30名、全国の定員が300名の狭き門で偏差値も高い。
周りには「絶対無理!」と言われたが、「動物を手術している自分」の明確なビジョンが見えた彼には、大学入試はハードルの低い通過点でしかなかった。それでも両親の説得には1年かかった。両親とは、工学部を2年休学している間に獣医学部に合格する約束を取り付け、見事難関を突破して合格、工学部を退学した。本当に努力した人は努力したとは言わない。彼もそんな一人だと思う。獣医学部の6年を経て、10年間の大学生活を終えた時、わっきーは28歳になっていた。
学生結婚した彼には、大学3年の時、長男カイリ、そして大学6年の時、長女ヒビキが生まれた。同級生の奥さんは半年ずつ留年して1年遅れで卒業した。獣医学部で子どもがいたのは彼だけで、サッカーのワールドカップが盛り上がっていて金髪にしていたワッキー。保育所での送迎でカイリを背負って行ったので目立った存在だった。年の離れた小学生の次女が同じ保育所に通った時、当時、新任だった先生が副所長になっていた。わっきーは、3人の子に慕われる父でもある。
山口県庁で獣医師として9年間、目標を持って仕事をした。大学入学時、借りていた奨学金が9年間働くと返済不要になること。「9年で県庁の仕事を卒業する」と、いつまでやるかを決めていたこと。開業するつもりだったから、獣医師法、薬事法だけでなく雇用のための税務関係などの知識の習得、農家のベテラン先輩たちからワクチン接種を教えてもらったりして社会性も身に着けた。また、畜産試験場で子牛を生ませ、育て、人工授精で繁殖まで牛の一生を追う仕事もできた。
モンゴルを一緒に旅した仲間つっちー、よーこ、てらっちの3人が山口県にワッキーを訪ねていくと、慣れた牛に乗せたり、人工授精の体験などをしたらしい。「旅は手段であって目的じゃない。旅は終わってから始まる」。この地球探検隊、旅のコンセプトを実践し、旅が終わっても交流を続けている話を聞けた。
今、副院長の同級生と「6年半後に開業する!」と決めていたワッキー。サービス残業は当たり前、年休がないなどの課題を変えたいと思っていた。どこよりも楽しい動物病院にするためにできることを考えた。「スタッフが楽しめる」「動物と飼い主さんが楽しめる」「自分自身も楽しめる」。この3つを叶えるために、2年目まで赤字でも大丈夫なように借入をして、2015年、スタッフ6人と一緒に開業した。
「こんな動物病院があったら良いなを作りたかった」に激しく共感。俺も、そんな唯一無二の旅行会社を創ったと思う。でも、今から思えば、わっきーのようにお客さんと同じくらいスタッフを大事にできていなかったと思う。彼がスタッフを思う気持ちがストレートに伝わって来てウルっとした。わっきーは優しくて思いやりを持った人徳のあるリーダーだ。
共働きで子供を保育所に預けて助けられた自らの経験から、同じように「共働き世帯の人が出勤前に動物を預けられれば」と朝7時からOPENさせた。「ワンちゃんの体調が悪いから休ませてください」は、まだまだ会社に理解を得られないからだ。実際に早朝OPENをやってみると、想像を超えて7時台が一番混む動物病院となった。また、入口から犬猫エリアを完全分離することで犬猫のストレスフリーを実現させた。
「助かるよ、ありがとう」というお客様の声がやりがいに繋がっている。また、「獣医」を天職に育て上げた経験から、小中学校で、「好きなことを仕事に!」という講話を依頼されるようになった。
わっきーは、常にスタッフや飼い主さんなど地域の人や犬にも猫にも常に優しい眼差しを向けている。そのために、あらゆる努力を惜しまず、貫いてきた自分のスタイルを持ってきた。山を買って犬と人の遊び場にした。今ではドッグラン、ドッグパーク、展望台になっている。わっきーはビジョンとポリシーを明確に持ってブレずに行動できる人。対談して、ますますリスペクトした。今回の放送で彼の視線の少し先が見えた気がした。わっきー、俺と出会ってくれてありがとう。出会いのきっかけをくれた中村伸一所長にも感謝だね。
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