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「湧き上がるものに正直に生きる!石野慧太(前編)」

 解決策はいつも
 自分の中にある
 福島正伸

voicyラジオのゲストは、出会って10年20年の友人でも、サシで話すのは初めてという人は多い。いっしーこと石野 慧太も、その一人だ。知り合ってから14年経っているのに一対一で話すのは今回が初めてだった。再会のきっかけとなったのは「くるまざダイアログ大学」プロデューサーのあっちゃん(中村あつよしさん)

いっしーと初めて会った時のことは鮮明に憶えている。14年前、富士山の麓のロッジを男ばかりで貸切した、惣士郎ピースの2人が主催した1泊2日「坊主の会」だった。「ドリプラ世界大会」審査員仲間だった惣士郎とはあまり話せなかったが、ピースとのぼせる程風呂でサシ話をしたこと、若者同士が口論になって俺が仲裁に入ったこと、「甲州ほうとう小作」で山梨を代表する郷土料理ほうとうを食べたことなど思い出が詰まった旅だった。この旅で学業や事業の繁栄にご利益のある富士浅間神社で初めて参拝し「富士講」を知った。「東京から歩いて富士山登頂する人もいるらしいよ」って。「そんな人がいるんだ!」ってその時は思ったが、まさかその数年後、自分がお盆の猛暑の中、隊員たちと2度も「富士講」をやることになるとは不思議な縁を感じた。

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その後、いっしーが南青山で「ドリームワークカレッジ(ドリカレ)」校長を務めたイベントで、俺は夢を実現する8人に選ばれ「名言セラピー」ミリオンセラー作家ひすいこたろうさんとコラボトークライブをした時や俺が90分話すイベント「地球探検隊を知る夕べ」などで何度か会っていた。今回、収録を終えて、いっしーは、ずっとドリカレの趣旨の「大好きなことを仕事にして生きていく!」と考えていたことがわかった。今、彼は「組織のリジェネラティヴ(環境再生)ファシリテーター」として、「いのちのJUNKAN中心」の社会づくりに取り組んでいる。終始、リスナーのことを考えながら、心の中の変化を丁寧に分かりやすく話してくれた。今回収録した前編の1回10分、全7回のvoicyラジオ対談、フォローして聴いてほしい。

いっしーは、現在37歳。前編では30歳くらいまで話している。幼少期の思い出は竹登りが速かったことと北海道帯広の森の中にあった秘密基地で遊んだこと。父が転勤族で北海道から長野に引っ越してから、3月生まれの彼は体も小さく方言もあってイジメられた。小学校は生まれ故郷の宮城県仙台市に引っ越すも、そこでもイジメにあい中学生になっても続いた。いっしーは小学生から中学生までを「暗黒時代」という。彼に自分の弱さを言える強さを感じた。

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高校になると、たまたま同じ中学から行く人が少ない学校だったので彼の過去を知る人はいなかった。「環境が変わることで自分が変わる。環境に自分が変わる手助けをしてもらった」という。新しい人と出会うことで自分が変わっていくのを実感できたのだと思う。泣き虫でいじめられっ子、12歳までおねしょをしていた坂本龍馬が、姉の乙女や先輩の武市半平太と出会ったことで変わっていくことと被った。いっしーは硬式テニス部に入り、「テニススクールに通わせて」と親に言うほどハマった。身体を動かすことで眠っていた野生、自分を取り戻した。いつの間にか体も大きくなり、運動会ではリレーのアンカーを務めるまでになっていた。

福島の大学で学部の自治会に誘われ、2年生になると新入生を歓迎するマネジメントをやるようになり、その活動に没頭した。その時に「やり遂げること、後輩からありがとうと言われること、400人の前で話すこと」などを経験し、「何かを一緒に創り上げる喜びが体験できたことが財産だ!」と思った。お金では代え難い経験価値を得て喜びを感じる力を育みながら、「自分を生きる」軸ができたんだと思う。

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就活で人生で初めて「これをやる!」「こういう状態になる!」という夢を見つけた。最初は不安から始まった。周りは公務員志向の人が多かったが彼は消去法で民間に行くと決めた。「就職したくないな・・・好きなことをしたい。自分は何が好きなんだろう」今まで考えたことも問われたこともない。「仕事とはこういうもの」という固定概念が強かったが、「就活支援セミナー自体が仕事なんだ」と初めて気づいた。そこで人材業界に絞って就活した。「内定がゴールじゃない」と肚落ちするも、入社後、挫折を味わうことになった。仕事は求人広告の法人営業だったが、アポが取れないから売上が上がらない。真面目な彼は土日も返上して目まいがするほど励むも結果は変わらなかった。そんな時、メンターの一人となる惣士郎と「ゆかい村」の仲間たちと出会った。彼らは「働く」と「生きる」を明確に分けることに違和感を持っていた。

2年目になると、エリアが変わって急に売れるようになった。いくら頑張っても結果が出なかったのは、いっしー本人の問題ではなく、担当エリアのシェアが狭いことが原因だった。なぜなら1年目と同じことをやっても2年目はアポが取れたから。あるキャンペーンで全国1位を取ってもMVPに選ばれても大型案件を取っても達成感がない。先輩を見てもしんどそう。学生時代、後輩の相談に乗っていた時のほうが楽しかった。

変わるということは怖さを伴う。「自分がどうあると気持ち良いのか?」「今日からできることは何か?」いっしーは自分自身に問い続けたんだと思う。会社を辞めて惣士郎、ピースの運営する「ドリームワークカレッジ」スタッフとなり第6期校長に就任した。1年後、惣士郎に「ハワイ島に行って修行してみないか」と提案され表参道のアパートを引き払い、ハワイ島に向かった。オーガニックファームで農業したり、ヨガや瞑想したり、般若心経を唱える3ヵ月の「女神修行」の生活が始まった。もともと日本人女性のためのプログラムだったが、彼は土と触れ合うことで本来の自分を取り戻していく。良い意味で隔離された生活空間の中で福岡正信(著)「自然農法わら一本の革命」、ポーラ アンダーウッド (著)「一万年の旅路 ネイティヴ・アメリカンの口承史」などの本をむさぼり読んだ。スナックエンドウ(スナップエンドウ)をカットした時、土、雨、太陽、人間・・・自然と歴史と自分へと想像が拡がり全て繋がっている「命の循環の本質」と出合った。同時に貨幣価値が中心になって生きる「都会生活の歪み」にも気づけた。男女共に個としても集団でも大事にしていくメッセージが降りてきて歪みを解決できるヒントを得た。いっしーは本質を見抜く力を持っている。母親のように与え続ける地球を感じ、大きな愛を受け取った。抱えていた何かが削ぎ落されて浄化され、心が軽くなり身体も引き締まり、58kgあった体重は3ヵ月のハワイ島修行で50kgになっていた。

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ハワイ島の女神修行もゲストハウスの女将修行も「ゆかい村」のコミュニティも、いっしーが受け取った大きなギフトは「愛」。濃密に過ごしたそれぞれの時間の中で、人と深く関わりココロが育まれた。それが愛され愛する「愛の循環」を起こそうと、教育ビジネスをやっているコミュニティリーダーやコンサルタントのサポートに繋がっていく。いっしーは言う。「人とのご縁に恵まれてた」。

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アタマxカラダxココロ、全人的な成長を発揮することを目標にしていた25歳のいっしーにとって、須田達史さん、平井ナナエさん、斎東亮完さん、鴨頭嘉人さんなど使命を持って生きる年上の人たちと関わったことが、今に大きく影響している。20代に、「こんな大人になりたい!」と思わせてくれる人と行動を共にするって大切だと思う。その一人、須田達史さんの熱海道場のサンドバッグでミドルキックが「スパン!」と決まった時、いっしーは、「こんなふうに身体を使って生きていきたいって思っていたんだ!」って脳がスパークした。友人、高橋歩の言う、BELIEVE YOUR トリハダ。鳥肌は嘘をつかない。

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体幹を鍛えてカラダを整えアタマとココロでは喜びに、志に、使命に生きているつもりだったが、心の中にモヤモヤが出てきた。そこで各界のリーダーを内弟子のようにサポートする仕事を卒業した。30歳になって、「今死んだら、どうする?」自問自答すると「後悔する!表現したい!」に辿り着いたイッシー。ダンス、ゴスペル・・・いろいろ試すも「なんか違う」。「これだ!」と思えたのは、メンターの惣士郎が提案した、「フィリピンの離島プロジェクト、一緒にやらない?」だった。大切なのはホンモノの経験値、心躍る冒険心、体温を感じるコミュニケーション。

オモシロキ コトモナキ世ヲ オモシロク、後編につづく・・・

 先のことを考えすぎると、
 取り越し苦労をしたり、
 誇大妄想に陥ったりして
 必ず人生に裏切られます。
 大切なことは1つだけ。
 明日の朝、
 もしも目が覚めなくても、
 後悔しないと思える毎日が
 送れればいいのです。
 「愛の話 幸福の話」美輪明宏より 


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