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夜話 『落下と移動』

『自殺者の霊が、同じ場所で自殺を繰り返す』

 この手の怪談はよくある。先日、小夜が仕入れてきた怪談もその系統で、飛び降り自殺者の霊が同じ場所で飛び降りを繰り返すというものだった。テンプレと言ってもいい話だ。

 でも小夜の話にはひとつだけ、テンプレと異なる箇所があった。

    *

 五月も半ばを過ぎて、吹く風は綿毛のようにあたたかい。海は凪いでいて、いつもは等間隔に並んでいるサーファーの姿も、今日はほとんど見えなかった。かわりにシロギスを狙う釣り人の姿がちらほらと。

 ヘリノックスのローチェアに沈みこんで目を閉じると、パーコレーターが珈琲を抽出するポコポコという軽やかな音が、波音の間に聞こえてくる。深夜テレビの天気予報の背景に使えそうな、穏やかで眠気を誘う風景だ。

 さっきから飛び交う、私と水鳥の場違いな言葉を除けば。

「ダッシュババア」
「赤いちゃんちゃんこ」
「光速ババア」
「あ……赤マント青マント」
「トンネルババア」
「……ババアばっかりずるくない?」
「戦略だよ、戦略」

 都市伝説しりとりなんて始めてしまうくらい、暇だった。

 木曜の午後は何もしたくない。だから私と水鳥は二人とも、木曜午後には講義を入れていない。水曜の民俗学のゼミで教授にけちょんけちょんにされて、夜はその憂さ晴らしで飲んで、木曜はたいてい燃え尽きているからだ。

 というわけで、木曜は午前にある必修の講義だけに出て、午後は気力体力を回復すべく、ぶらぶらだらだらと過ごすことにしている。今日は天気が良かったからキャンプギア片手に海に来た。

「ね、朱音。あのビル何が入んだろね」
 しりとりに飽きた水鳥が、シェラカップ片手に海に目を向ける。

 水鳥の視線は、みたま湾の右端に見える、全面ガラス張りのクリスタルみたいなビルに向けられていた。まだ建設途中で、よく見ればビルに乗った大型クレーンがゆっくりと動いているのがわかる。

 みたま市とまほろば市の境目にある再開発地区に建てられている『星城ビル』。再開発のシンボルだけあって、抜きん出て高く周囲の目を引く。地上3階の商業スペースの上に、20階建てのタワマンを搭載。あんなところに住んでみたいって、小夜が言っていたような。

 ビルに入る店についてああだこうだと予想していると、不安定に砂を踏む音が近づいてきた。振り返ると、小夜がふらふらと揺れながら近づいてくるのが見えた。子供の頃から海沿いの街に住んでいるのに、砂浜が苦手なのだ。

「おつかれー。あ、私にも珈琲ちょうだい」
「450円になります」
「PayPayでいい?」
「冗談だって」

 小夜は自分用のローチェアを組み立てて腰を据えた。いったん家に帰ったらしく、荷物はローチェアだけだ。小夜は木曜午後も普通に授業があるので、いつも遅れて合流してくる。

「小夜、『あ』から始まる都市伝説知らない?」
 水鳥が小夜に珈琲入りのサーモを渡して尋ねる。
「なんで私に聞くのよ」
「都市伝説詳しいじゃん」
「詳しくないけど、合わせ鏡って都市伝説じゃない? 死に顔とか悪魔とか映るやつ」
「それがあった! さっすが小夜」

 もともと怖い話の類は好きではない、というか逆に嫌いなのだが、私や水鳥に付き合ってあれこれ聞きかじっているうちに、そこそこ詳しくなってしまった小夜だった。

 小夜は珈琲をひと口飲んでから、そうだ、とこちらに顔を向ける。
「そういえば今日、怖い話を聞いたんだけど」
「まじ? ちょっと待って」
 すかさずスマホを起動して怪異蒐集用のメモアプリを起動する。

 怪異蒐集というのは、私と水鳥が行っている民俗学の調査だ。内容は名前そのままで、私たちが住むみたま市にまつわる怪異譚を収集するという作業。収集した話を分類・分析して、時代ごとの傾向や、隠された類似点、話が流布した原因を見つけるというのが、その目的である……というのはただの建前で、怖い話が何より好きな私と水鳥の、趣味を兼ねたライフワークだ。

 みたま市は、山と海に囲まれた古い街で、年代物の神社や道祖神が、道を歩けば目にしない日はないくらい、たくさんある。人口あたりの地蔵数みたいな指標があったら、全国でも上位に入るはずだ。そしてそういう古い街の常として、怪談話が多い。

 私と水鳥は、大学に入学してから蒐集を始めて、1年かけて約百話を集めた。ようやく百物語1回分。でも分析するにはまだまだ数が少ない。

『見えない何かを見ようとすんだから、サンプルの数がモノを言うわけ。百話? ぜんっぜん少ないな。最低でも千話』

 という民俗学部の先輩にいただいたありがたいアドバイスに従って、今はサンプルを増やしている段階だ。

 そんなわけで私と水鳥は、怪談があると聞けばメモを片手に西へ東へ飛んでいく。友人たちに「怖い話は知らないか」と毎日しつこく聞きまくっていたら、最近は友人づてに知らない人がわざわざ怖い話を聞かせに訪ねて来てくれるようになった。

 小夜は怖い話が苦手だけど、私たちに手伝わされて、というより私たちがわいわい楽しそうにやっているのが羨ましかったらしく、自ら進んで小耳に挟んだ怖い話を教えてくれるようになったのだ。

 小夜は「怪談話をしている場に偶然居合わせる」という特殊な才能がある。そのエンカウント率の高さは、才能というより、もはや呪いと言っても良い。私たちが喉から手が出るほど手に入れたい、羨ましいアビリティだ。

「話していい?」
「どうぞどうぞ」
「えっとね、講義室で前に座ってた2人組が話してたんだけど。あ、男の子と女の子で、その女の子の話ね」

 小夜から聞いた話を要約すると、こんな感じだった。その女の子を仮にFさんとする。

 Fさんはこの四月にまほろば大学に入学した。
 大学入学を機に念願のひとり暮らしを始め、今はまほろば市の隣のみたま市にある、新築のマンションに入居している。

 四月も半ばを過ぎたある夜、Fさんはマンション9階にある自宅に戻った。時刻は0時過ぎ。コンパがあったせいで、いつもより遅い帰宅だった。
 部屋に入ったFさんは電気をつけて、開けっ放しにしていたカーテンを閉めるためにベランダに面した引き戸に近づいた。近くにはこのマンションよりも高い建物はなく、カーテンは開けっ放しにしているのが常だった。

 部屋は海を向いていて、昼間ならみたま湾が見渡せる。だが真夜中の今、窓の向こうは塗りつぶしたように真っ暗だった。
 Fさんがカーテンに手をかけた、ちょうどそのとき、目の前の闇を何かが音もなく落下した。Fさんはぎょっとして思わず動きを止めた。落下したものが人の形をしているように見えたからだ。
 でもすぐに、見間違えだと自分に言い聞かせた。地面に落ちるような音はなかったし、何より、コンパの後で酒が入っていたからだ。

 それでも気になったFさんは、恐る恐るベランダに出て下を覗きこんだ。部屋の真下にある駐車場には何も落ちていない。風に吹かれたビニールとか洗濯物とか、そんなものだろう、と現実的な説明をつけて部屋に戻ろうと顔をあげたとき、再び目の前を「それ」が落下した。

 Fさんは悲鳴をあげた。今度こそ。落ちてきたのは、真っ赤なワンピースに身を包んだ、逆さまの女性だったからだ。

「真っ赤なワンピース?」
「うん。そう言ってた」
「なるほど……あ、続けて」

 女性は長い髪を体に絡みつかせ、音もなく下に消えていった。海の方に体を向けているせいで、表情は見えなかった。Fさんは視線を外に向けたままでゆっくりと後ずさった。部屋に入って一気にカーテンを引いたが、カーテンが閉まる直前、目の前の闇を再び落下する女性が見えた。
 Fさんはそのまま部屋を飛び出すと、まほろば市内でひとり暮らしをしている彼氏に電話をかけた。そして眠っていた彼氏を叩き起こすと、近くのファミレスに呼び出して、自分の見たことを話した。

 彼氏はなかなか信じてくれなかったが、彼女の必死な様子に嘘ではないと納得したようだった。彼氏は現実的な人だったようで、落ち着いたFさんに次のように言った。
「何かの見間違えだと思うけど……仮に幽霊だとしたら、あのマンションには過去に自殺した人がいたってことになるよね?」
 彼氏はスマホで事故物件サイトを開いて、Fさんが住んでいる物件の自殺の有無を調べた。しかし、そのマンションでの自殺は登録されていなかった。
 だったら幽霊が出るはずはない、見間違いだ。それが彼氏の出した結論だった。彼氏はそれで終わりにしたかったようだが、実際に女性を目にしたFさんは納得しなかった。

 翌日、Fさんは物件を仲介してくれた不動産屋に行って、起きた出来事を説明し、担当者を問い詰めた。しかし、やはりこの物件での自殺はないという回答だった。
 そもそもFさんの住むマンションは新築で、昨年できたばかり。Fさんはその部屋の最初の入居者だった。マンションができる前は不動産屋が管理する駐車場で、その前は畑だったという。つまり、飛び降り自殺が起きそうな高層の建物は、少なくともここ何十年はなかったということだ。
 Fさんはそれ以上追求できず不動産屋をあとにしたが、まだ納得できなかった。自殺はきっとあったはずだ。でも何らかの理由で隠されているに違いない。しかし不動産屋からこれ以上の情報を引き出すのは難しそうだった。

 だったら自分で調査をするしかない。そう決意したFさんは彼氏に協力を求めたが、彼氏の意見は「見間違え」で、意見を変えようとしなかった。それが元となり、Fさんは彼氏と喧嘩状態になった。
 そのことを同じ学部の男友達に相談すると、「だったら、彼氏と別れて自分と付き合わないか」と言われた。

 Fさんの心は揺れた。Fさんは今の彼氏と付き合う前、その男友達のことが好きだったからだ。しかしその男友達には彼女がいたはず。そのことを男友達に言うと、気まずそうな顔をして言った。

「付き合ったあとになってわかったんだけど、その彼女って実は」

「なんか話変わってない?」
「そうなの。途中から恋バナになっちゃった。そこで講義始まって、講義終わったらどっか行った」
「え、待って。続きが気になる」
「幽霊のほう? 男友達の彼女のほう?」
「どっちもだよ!」
「残念ながらどっちもここまでしか聞いてないのよね。はい、この話、しゅーりょー」

 役目を終えた小夜は、怖い話を脳内から追い払うようにサーモの珈琲を飲んだ。煮えきらない気分で水鳥を見ると、水鳥はお預けを食らった犬みたいな顔をしていた。

「水鳥、どう? 今の話」
「入学して1ヶ月で彼氏とか彼氏の前に好きな人がいたとか、生き急いでんな」
「じゃなくて幽霊のほう」
「ま、ありがちっちゃ、ありがちな話かな」
「現場のマンションってどこだろ」
「みたま市で9階建て以上のマンション、新築で海に向いてるって言ったら限られるよね。海岸通りの裏にできたやつ?」
「ヴィラ・みたまだっけ。あそこなら近くにファミレスもあるね」
「あと、赤いワンピースの飛び降りって聞いたことあるような……朱音が話を止めたのも、それでしょ?」
「うん。集めた話に似たような話があったような気がして」

 スマホの怪異蒐集メモを開いて、いくつか流して読んでいると、目的の話が見つかった。その話は蒐集として単話にまとめる前の、メモの羅列の中に残っていた。

「あった。駅の裏通りのときわビルで、夜になると赤い服を着た女性が飛び降りる姿が繰り返し目撃されるってやつ」
「ときわビルってどこだっけ」
「1階のたばこ屋のガラス戸にウルトラマンのフィギュアがずらっと飾ってあるとこ。そこで店番してるばあちゃんの話。そのせいであのビルの2階と3階、ずっと空室のままにしてるんだってさ」
「あそこか。じゃあ別の話だね」
「だね。ときわビルのやつ、そもそも20年以上前の話だし」

 水鳥と改めて小夜の話を検証して、結局セオリー通り、自殺の有無から調べることにした。自殺がなければやっぱり、女の子の見間違えということになる。

「自殺の有無は爺ちゃんに聞けばわかるかも。今日ちょうど爺ちゃんに呼ばれてるし。あっ、今何時?」
「15時半」
「やばっ、もう行かなきゃ」

 もうしばらく砂浜でだべっていくという水鳥と小夜を残して、私は爺ちゃんの待つ黒崎不動産に向かった。

     *

 爺ちゃんはウキウキしながら釣り竿を磨いていた。

「釣りに行くの? また亜樹と?」
「ああ」
「亜樹は私の彼氏なんだけど」
「心配するな、夕まずめ狙いだから夜には帰す」
「別にいいけど……で、今日は何やればいい?」
「先月分の帳簿の入力を頼む」

 目が弱くなってきた爺ちゃんは、データの入力を孫娘の私に頼む。それで空いた時間は、たいてい釣りに出かける。相方はもっぱら亜樹だ。亜樹、最近は私とデートするより爺ちゃんと釣りに出かけることのほうが多いんじゃないだろうか。

「あ、ついでに聞きたいことがあるんだけど」
「時間がないから手短にな」
「みたま市の事故物件の記録とかって持ってない?」
「そんな趣味の悪い資料があるか」
 爺ちゃんが呆れた目を向ける。

「でも、表向きには隠されてるような情報とか爺ちゃんのとこに流れてきたりするでしょ」
「ないない。今どき事故情報を隠したりできんだろ」
「だよね。じゃあ、最近飛び降り自殺があったって話は聞かない?」
「聞かんな。そもそもみたま市は高い建物が少ないから飛び降りも少ない。あればすぐに噂になる。随分昔にあったことはあったが」
「ときわビルのことでしょ? 自殺者の幽霊が出るって話を聞いた」
「そんな話もあったな。あれもおかしな話だったが」

 おかしな話?

「どういうこと?」
「あれはな……おっと時間切れだ」
 爺ちゃんは会話を切り上げてクーラーボックスを担いた。
「え、ちょっと待って。最後まで教えてってよ」

 爺ちゃんは面倒そうな顔をして、棚から分厚いキングファイルを2冊取り出してデスクに投げた。

「じゃあ、帳簿じゃなくてこれを入力しておけ。フォーマットはないから、適当に作ってくれればいい」
「これやったら教えてくれるの?」
「頼んだぞ」
「え、ちょっと!」

 爺ちゃんは孫娘の声を軽やかに無視して出ていった。

 残された私は、デスク前の安楽椅子に沈み込んでため息をつく。あてが外れた。あわよくば自殺の有無を確認できると思ったのに。近道はできなくなった以上、地道に聞き込みで探すしかない。でも爺ちゃんがないと言ってる以上、ないんだろうな。そう思うとやる気が削がれる。

 仕方なく、自殺の話はいったん棚上げして、日銭を稼ぐために頼まれた作業を片付けることにする。パソコンを起動しながらキングファイルを斜め読みすると、ファイルのうち1冊は退去の手続き書類、もう1冊は居住者から届いた苦情の書類だった。

「苦情って……読んでてストレス溜まりそうだな」

 でもちょっと面白そうでもある。苦情のリストから取り掛かかることにした。

 書類は昭和中期のものからあって、書式もバラバラだった。言うまでもなく、ほとんど手書きだ。苦情の内容は隣室からの騒音と駐車場の無断使用が多い。苦情の内容は現代とあまり変化がないようだ。

 エクセルで適当なフォーマットを作って、順番に苦情の内容を転記していく。1時間ほど作業していると、気になる苦情を見つけた。

 「夜になると、隣の家の声がうるさい」というありふれた苦情だ。しかし、欄外に爺ちゃんの字と思われるメモがある。

「隣室の203に、居住者なし」

 苦情はそれ1枚だけだったが、退去手続きのファイルを探すと、苦情の主はそれから2週間後に部屋を退去していた。

「隣がいないのに騒音? もしかして、幽霊話?」

 がぜん興味が出てきた私は、入力そっちのけで似たような話を探した。ひょっとしたら怪異蒐集の金脈になるかもしれない。案の定、怪異が関わっていそうな苦情が、他にもいくつか見つかった。

  • 毎晩、深夜にドアをノックされる。

  • 夜中に勝手に家電が動く。

  • 天井裏から人の歩くような音がする。

  • 夜に家の外から何かを叩きつける音がする。

  • 壁のシミが夜になると動き回る。

  • 窓から知らない女が覗く。

 微妙なものもあれば、明らかに怪異っぽいものもある。続けて探していると、「赤い服」というキーワードが目に入った。

  • 赤い服の女が、窓の外を落ちていく

 住所を確認すると、ときわビルの2階の部屋だった。苦情の日付は20年ちょっと前。間違いない、蒐集した話だ。この時点では部屋は賃貸されていたらしい。しかし、そこにも爺ちゃんのメモがあった。

「過去、物件に投身自殺者はなし」

「……自殺者なし?」

 手を止めて考え込む。今回と同じだ。投身自殺する幽霊が目撃される。でも、その場所には自殺者はいない。

 都市伝説みたいにまったくの噂であれば、噂が広まる過程で舞台が別の場所に移ることは珍しくない。しかし、ときわビルでは実際に苦情が残っているし、その後、賃貸が外されていることから考えて、複数の目撃があったと考えられる。

 ヴィラ・みたまの女の子の目撃譚が本当であれば、ときわビルとヴィラ・みたまの両方で、住人はいるはずがない自殺者の幽霊を目撃したことになる。しかもその幽霊は、どちらも赤い服に身を包んでいる。

 この幽霊の話は、いったいどこからやって来た?

     *

 結局、資料ばかり読み漁って頼まれたことはほとんど進まなかったので、爺ちゃんにメールして資料を借りる許可をもらい、続きは家でやることにした。

 家に帰ると、亜樹が台所で釣ってきた魚を捌いていた。シンクにはカサゴとメバルとアジが何匹か。まな板には特大のアオリイカが乗っている。

「でっか! エギングもやったんだ」
「アジとイカは刺し身にして、根魚は煮る予定」
「おっけー。日本酒出しとく」
「もうすぐできるから、先に飲んでて」

 春鹿の生酒を冷蔵庫から出して、持ち帰った資料を読みながらちびちびやっていると、程なく刺し身と煮魚がやってきた。亜樹が釣りに行った日は、釣果で晩酌するのがいつもの流れだ。

 アオリイカの刺し身をつまみながら、小夜から聞いた話と、黒崎不動産で調べた話を亜樹に聞かせる。亜樹も私と同じ民俗学のゼミに属していて、怪異蒐集のメンバーでもある。こういう話には食指が動くはずだ。案の定、亜樹はこの話に強い興味を示した。

「おもしろいね。確かに特徴が同じだし、何か関連があるのかも」
「たぶん、どこかの自殺の話が元になって、ときわビルとヴィラみたまの話ができたんだと思うけど」
「でも噂レベルじゃなくて、両方で目撃譚があるのが気になる」
「そこなんだよね」

 これが噂という語り口であれば「都市伝説の伝播」で片をつけられそうだけど、両方の場所でしっかりと幽霊が目撃されている。

「飛び降り自殺の話って、他にはなかった?」
「そう思って探したよ。元の話があるかもって。けど見つからなかった」
「みたま市、そもそも飛び降り少なそうだしね」
「爺ちゃんもそう言ってた。あ、でも他にも幽霊絡みっぽい苦情がいくつかあったよ。ファイルの付箋挟んであるやつ」

 借りてきたキングファイルを亜樹に渡す。亜樹は切子グラス片手にファイルをめくっていたが、やがてその手が止まった。

「ちょっと気になるのがある」
「どれ?」
「これ」

  • 夜に家の外から何かを叩きつける音がする。

「これが?」
「これって、飛び降りの音っぽくない?」
「ああ……言われてみれば」

 そういえば、爺ちゃんはずいぶん昔にみたま市で飛び降りがあったと言っていた。ときわビルに自殺者がいなかったとすると、この音の場所がそうなのかもしれない。

 苦情があったのは三島ビルという雑居ビルで、時期はおよそ30年前だった。ときわビルの話よりも古い。事故物件サイトで調べたけど、時期が古いせいか情報は載っていなかった。同じ理由で、ニュースも見つからない。 

「自殺の有無は爺ちゃんに聞けばわかると思うけど、仮にここで投身自殺があったとすると、ここで幽霊が目撃されて、その話が元になって他の2つの話が生まれたってこと?」
「でも、この場所での幽霊の目撃譚はないんだよね」
「あるのは飛び降りっぽい音だけか」
「それにときわビルの話って20年前だよね。三島ビルが30年前だから、間が10年空いてるのも気になる」
「確かに。ときわビルからヴィラ・みたまも20年空いてるし」
「地図で位置関係を見てみようか」

 地図アプリを開いて話に出た場所にピンを刺す。3つの場所は、近所というわけでもないけど、そんなに離れてもいない。そもそもみたま市はそんなに広くない。しばらく眺めたけど、位置関係からわかることはなさそうだった。

「時期と場所だけじゃ何もわかんないな」
「じゃあ、明日行ってみようか」
「どこに?」
「現地に」

 まるで釣りに出かけるみたいな軽い口調で、亜樹は言った。

     *

 翌日、亜樹といっしょに、投身自殺があったと思われる三島ビルにやってきた。

 現地には3階建ての長細い雑居ビルが2つ並んでいて、三島ビルはそのひとつだった。どちらも薄汚れた外壁にひびが馴染んだ、年季を感じさせる佇まいだ。

「飛び降りがあったとして、どこに落ちたんだろ」
「ビルとビルの隙間かな」

 隣のビルとの隙間に、1メートルくらいの狭い空間がある。隙間を覗くと、隙間に面したビルの壁は、明かり取りの小さな窓しかなかった。

「目撃譚が音だけなのは、見つかりにくい場所だったからなのかも」
「飛び降りをする幽霊はいたけど、誰にも見られてなかったってこと? その代わり、音だけが聞かれていた、と」

 亜樹は頷き、躊躇せずにビルとビルの間に足を踏み入れる。続けて入ってみたが、狭くて暗い以外、特筆することはなかった。足元に花が供えられていたりもしない。まあ、自殺があったとしても、30年前だし。

 隙間から出ようと思って振り返ると、細長く切り取られた入り口から、向かいの民家の屋根瓦の上に、ぴょんと飛び出たビルの頭が見えた。

「あ。あれ、ときわビルだ」
「ときわビルが見える?」
「うん、屋根瓦の上に3階と4階の部分が突き出て見える」
「なるほどね。じゃあときわビルに行ってみよう」

 亜樹に促されてときわビルに移動した。ときわビルは上から見るとL字型をしていて、建物に囲まれた部分は中庭になっている。庭と言っても、束ねられた金属パイプやブロックが置かれていて、足の踏み場もない。資材置き場として使われているようだ。

「目撃されたのってどこだろ」
「窓が多いのは中庭に面した部分だね」

 いちおうたばこ屋のばあちゃんに断ってから中庭に足を踏み入れた。隣のビルの側面がすぐ横まで迫っていて視界はよくない。亜樹は中庭を歩き回りながら空の方を見上げている。

 私は地面を調べてみたけど、何も見つからなかった。まあ、ここは噂だけで実際に飛び降り自殺が起きたわけじゃないから、それも当然だけど。

 名前を呼ばれて振り返ると、亜樹は足を止めて隣のビルの方を見上げていた。

「三島ビルの話が元になって、他の場所に話だけが移動したのかもって言ってたよね。でもそうじゃないかもしれない」
「そうじゃない?」
「三島ビルに幽霊の目撃者がいない以上、三島ビルの幽霊の話が広がったっていうのは考えにくい。だとしたら移動してるのは噂じゃなくて……」
 亜樹はそこで言葉を止めると、立っていた場所を横にずれた。
「幽霊自体が移動したのかも」
「えっ?」
「ここに立ってみて」

 亜樹の立っていた場所に立つと、建物と建物の細い隙間から細長いマンションが見えた。

「あれ、ヴィラ・みたまだ」
「三島ビルで実際に飛び降りがあって、幽霊が飛び降りを繰り返してたって仮説するとだけど、その幽霊が三島ビルからときわビルに移動して、それからヴィラ・みたまに移動したんじゃないかな」
「それは……どうして?」
「高い建物を見つけて、移動したんだと思う」
「え? ……ああ」
 少し遅れて、亜樹の言わんとすることを理解した。

 自殺者の霊が、同じ場所で自殺を繰り返す。この手の怪談はよくある。

 死後もなお、飛び降りを繰り返す幽霊。その怪談の根底にあるのは、死んでも苦しみが終わらなかったら、死が救いではなかったとしたら、という恐怖の感情だ。

 でもそれが、怪談だけの話ではなかったとしたら。実際に死んでなお、苦しみの続きがあったとしたら。果てなく続く苦しみの中で、より高い、自殺に適したビルが目に入ったとしたら。

「それぞれのビルの落成年を調べてみないとわからないけど、三島ビルで飛び降りを繰り返してた幽霊が、ときわビルができた後にときわビルに移動して、ヴィラ・みたまができた後にヴィラ・みたまに移動した……って流れだと思う」
「……いま見えてる中から、一番高い建物に向かったってこと?」
「たぶん、だけどね」

 再び自殺するために。
 再び落下するために。
 いまいる場所から見えている、より高い建物へ。
 より完全な救いを、完全な死を求めて。

 死に続きがあるなんて、怪談のうえでは気軽に語っていることだけど、実際に死に囚われて、長い時間を死に場所を探してさまよう幽霊の姿を想像すると、ゾッとするよりも先に、救いがなさすぎて寂しく思えた。

「……どれくらいの速さで移動するんだろうね」
「さあ。そもそもみんな移動するものなのかわからないね。飛び降りという形態独自のものかもしれないし、その中でも特殊なケースなのかもしれない。まあ、これだってひとつの怪異を追っただけの、ただの仮説に過ぎないけど」

 亜樹の言う通りだ。仮説を重ねないと見えてこないものがある。何かを論じるには、まだまだサンプルが少ないのだ。

 最後に、この仮説の終着点であるヴィラ・みたまに向かった。女の子が幽霊を目撃したベランダの下には、アスファルトで舗装された真新しい駐車場があった。吹いてきた海風に顔を上げると、目の前にパノラマでみたま湾が広がっている。

 その端っこに、全面ガラス張りのビルが、五月の光を受けてクリスタルのように光っていた。

     *

「移動ねぇ……そんなんあるんか」

 椅子に沈み込んだ水鳥が、空を見ながらつぶやく。その向こうの小夜は、どことなく浮かない表情で、手に持った珈琲の表面を見つめている。死に場所を探してさまよう、幽霊の人生を想像しているのかもしれない。

 土曜日の海岸は晴れ渡っていて、あちこちに建てられたテントから、焚き火やらバーベキューの匂いが漂ってくる。今日はそこそこ波があるせいで、サーファーの姿も多かった。顛末を報告するにはうってつけな、平和で穏やかな休日だ。

「まあ、単なる仮説ではあるんだけど」
「でも、その仮説だとしっくり来るよね」
「私、タワマンとか住みたくなくなったわ……」
 小夜がげんなりして言う。
「星城ビル、住みたいって言ってなかったっけ」
「そんな話聞いたあとで住みたいわけないでしょ」
「小夜、幽霊とか信じないじゃん」
「幽霊を想像する余地があるってのが嫌なの」

 3人揃って星城ビルに目を向ける。星城ビルは太陽の光を受けて、その存在を誇示するように輝いていた。完成すればこの付近では一番高くなる。ここみたま市だけでなく、隣のまほろば市のどこからでも目に入るくらいに。

 女の子の話では、幽霊は海の方を向いて落ちていると言っていた。だとしたら、もう星城ビルを見つけたのかもしれない。すでに移動を始めているのだろうか。

 あそこなら、今度こそ、そんな思いを抱えて歩いているのだろうか。もしかしたら他にも、確実な死を求めて、星城ビルを目指して移動している幽霊がいるのかもしれない。

 夜の闇に紛れて、ゆらゆらと。無言でビルを目指す半透明の幽霊たち。その目には、星城ビルは救いのように映っているのか。

 そんな想像をしながら、白く輝くビルに目を凝らしたけど、もちろん、落下する人影なんて見えなかった。



 目の前を赤いワンピースの女が歩いている。
 月明かりに照らされた海岸沿いの道を、うつむいたままで、とぼとぼ、ゆらゆらと。風が吹けば押し戻されそうな儚いその歩みを、ガードレールに腰掛けたまま、見るとはなしに目で追いかける。
 女を囲むように、数匹の青白い魚が遠巻きに泳いでいた。そのうちの一匹が、歩みの遅さにしびれを切らしたように離れていく。
 海岸線の果てに墓標のようにそびえる黒いシルエット。おそらくは、そこを目指しているのだろう。
 高い建物がないこの街でも、稀にこんな移動が起きる。そう言えばずいぶん昔にもあった。あれは前のお役目のときだっただろうか。同じ女だったような気もするが、思い出せなかった。

 女が立ち止まる。

 自らの血で汚れた足先を見つめたまま、その場でゆっくりと、船を漕ぐように前後に揺れている。
 何かを見つけたわけではない。ただどうして歩いているのかわからなくなっただけだ。思考はもう無いに等しい。わずかに残ったその断片も、やがては夜の冷たい空気の中に消えてしまう。そうなってようやく、女自身も消えることができる。
 おそらく、もう数年で。
 普通なら、もう少し早く消えることができたはずだった。でもこの土地は、他の場所よりも消えるまでに時間がかかる。

 ここはそういう土地だ。そういう呪いが、この土地には染み付いている。

 だからもうしばらく、女は落下を繰り返すだろう。
 それが幸せなことかわからない。
 落下を望んだのが、女自身だったとしても。

「歩かなくても、いいよ」

 聞こえるはずもない言葉を、戯れに投げた。
 女はしばらくの間、答えに迷うようにその場で揺れていたが、やがて単調に繰り返される波音に背中を押されるように、一歩、また一歩と、夜の淡い闇の中を歩いていった。

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