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【Give】の背景(第3回・完結)

いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。

私、先日より『【Give】 and 【Take】』という言葉を、『相互利益がある』という意味と、(『しっぺ返し戦略』の初手として)『求めるならばまず与えよ』という考え方で【考察】しております。

前回は、いざ『(他人へ)【Give】してみる』立場に立って初めて【認識】できる、『【Give】のハードル』とでも称すべきものの存在を導いてみました。『【Give】した相手からの、そのものズバリの見返り』とは別の、『自分なりの【Give】の意義』というものを求めたくなる心理ですね。これ自体は別に欲張りでも何でもありません。『【Give】する相手や状況を選ぶ心理や基準が存在する』ことが【認識】できるようになるプロセスです。

今回はここから発展させて、『【Give】する立場に立って初めて【認識】できるもの』の存在へ話を導いてみようと考えます。よろしくお付き合いのほどを。

【Give】するからには、意義などといった“別の形”でもいいので【Take】が欲しくなるものなのです(少なくとも私は)。逆に「いかなる形でも【Take】を得られない」と判断したなら、その時は『【Give】のハードル』を越えることはできないことになります。
 もちろんここでいう“別の形”は人それぞれ、私一人で決め付けられるものではありません。

ただ、我が身が誰かへ【Give】した時に、多少なりとも報われた気分になる例を挙げることはできます。

例えば、【Give】した【相手】から感謝が寄せられた場合。中にはもちろん当てはまらない場合もありましょうが、ここで大事なのはまず『【Give】した【自分】』としての感覚です。
 例えば、【相手】が「これ好きなんですよ!」と【Give】にいい意味で食い付いてくれた場合。もちろん感性の相性によりますが、相性がよかった時は嬉しくなりますね。
 例えば、【相手】が「ここを頑張っているんですよ!」という分野に共感して支援(という【Give】)を出したとしたなら、「今後も頑張ります!」と応じてくれた場合。

逆のケースを考えるなら。

例えば、【Give】した【相手】ががっついて「もっと! もっと! くれくれ!(意訳)」という態度を示した場合。少なくとも私には「あなたのくれた【Give】では物足りませんよ!」という意思を読み取れてしまいますね。「間接的に【Give】を否定された」と取れる場合もありそうです。
 例えば、【相手】が「あ~これ嫌いなんですよね~(どっちらけ)」と【Give】を否定された場合。これも感性の相性にもよりますが、少なくとも『【相手】は表現を選ぶ手間さえ惜しむ人物だ』と受け止める場合は大いにありそうですね。
 例えば、【相手】が「ここを頑張っているんですよ!」という分野に共感して支援(という【Give】)を出したとして、その分野であからさまな手抜きを晒され続けた場合。「頑張っている」と称する分野で手抜きを晒しているのですから、「それほど頑張っていない他の分野は、もっとひどい手抜きが晒されていると推して知れる」ということにもなりそうです。

以上の例は私の感じ方ですし、さらには【Give】した後の反応に過ぎません。ですが、『【Give】に対して“別の形”で【Take】を得る』欲求の存在を示すには、例として挙げる価値はあろうかと推察します。

こういう経験を通じてみれば、今度は『【Give】に対して、“別の形”なりに【Take】を示してくれそうな【相手】』を『選んで【Give】したくなる動機』も働こうというものです。

例えば、『【Give】する立場に立った【自分】を“一個の【人格】”として【認識】してくれる』傾向を持つ【相手】はどうでしょう。【Give】に対して血の通った感謝の念を示してくれる可能性は大いにありそうです。【人格】同士として対等の付き合いも期待できそうですね。

なぜこの例を挙げたかと申せば、逆の傾向に救いがない――と私が感じているからです。つまりは『【Give】する立場に立った【自分】を、“一個の【人格】”としてではなく、“無機質な【数字】”としてしか【認識】してくれない』という傾向を【相手】が持っている場合ですね。これは、“毒になる親”にも通ずる【価値観】でもって【自分】を扱われる可能性が高い――という危険性を、私は嗅ぎ取ります。『都合のよくない者は【人格】として【承認】しない』という扱われ方ですね。関われば関わるほど精神的な傷が深まるばかり――という可能性もあるので、この場合は「さっさと縁を切りたい」あるいは「最初から関わりたくない」ということにもなりかねません。もちろん例外がないとは申しませんが、「あなたは“【数字】に繋がるから好き”(意訳)」という態度からは、こういう危険を汲み取られる場合もある、ということではあります。

この辺りの観察を発展させてみると。
 例えば「読まれ(観られ)なければ意味がない(意訳)」とのたまう人々はどうでしょう。そう主張するからには、『読まれる(観られる)ために、読む(観る)側の心理を研究している』でしょうか。例えば『自ら進んで他作を読みに(観に)行き、【観客】が【作品】で抱く心理や、【作品】を探す・選ぶ際の行動原理といったものを研究している』か否か、というようなことになりますが。
 実行しているなら、それは言動が一致していることになります。『言ったからには実行する【人格】』が予想されますね。
 逆に実行していないなら、それは言行不一致ということです。つまりは『言っていることとやっていることが噛み合っていない』わけで、そうなると『支離滅裂、もしくは【不誠実】な【人格】』が予想されますね。

もちろん、これらは私個人の【考察】でしかありません。【他人】の『【Give】したくなる理由』や『【Give】のハードル』を規定するわけではありませんが、ただ私個人が『【Give】する立場に立って眼につくようになった【特徴】』であることも揺らぎません。ここはご参考として受け止めていただければと思います。

いずれにせよ、『その立場に立って初めて見えてくるもの』は少なくありません。いざ『【Give】する立場』に立ってみれば、少なくとも『【Give】を受けるだけの立場』からは想像もできないことが見えてくるはずです。【他人】の人物像については、これで【観察眼】が鍛えられることもあります。

さて、こうやって『【Give】のハードル』を【認識】した上では。
 他に『【Give】している人』を見付けて観察してみるのも一手というものです。
 『【Give】したくなる理由』は、何も一から十まで自分で決めなければならないわけではありません。こと『【Give】している人』の中に共感を抱ける方がおいでなら、その方がお持ちの基準というものが、【自分】にとっても参考になることもあるはずです。

そうしてみたなら、今度は【自分】のみならず、多くの人から『【Give】したくなる理由』のサンプルが得られることになります。
 もちろん頷けることも、そうでないこともありましょう。ですがそうしてみると、今度は『【Give】したくなる理由』の数々から『【Give】されやすい人物像』も思い浮かべることが可能になってきます。

そうしてみた時、例えば『【承認欲求】をただひたすら吐き出すだけの人』はどのように映るでしょうか。あるいは『“やらずぶったくり”の人』はどうでしょうか。答えはそれぞれの胸の内で出すことですので、ここで決め付ける必要は感じません。が、『【Give】する立場』から見てみれば、広く観察してみた中でどう映るかは、お解りいただきやすいのではないかと考えます。

いずれにせよ『【Give】する立場』に立ってみた方が、ただ口を開けて待っているよりは見えてくるものも多く、視野も広く取れることになり、解ることが増えてくるのは確かです。
 まずは『“【自分】の「好き!」に基づいて”、“できること”を【Give】してみる』ところから、慣れないうちは少しづつ、ということで始めてみるのも一手です。それで見えてくるものから判断して、軌道修正なり発展なりしていけばいいことで。

少なくとも私の経験上、『【Give】する立場』の経験からは、【救い】を始めとして得られることが多くあります。もちろんそのものズバリの“見返り”とは限りませんが、『【Give】する人』と繋がってみたりと、巡り巡って意外なものを得る機会は多々ある――とは申し上げても過言ではないでしょう。

そんなわけで、『【Give】したくなる【相手】』や『【Give】する人』との繋がりも求めつつ、色々と観察してみる私なのでありました。

というわけで、『【Give】の背景』に関する【考察】を3回に分けて展開して参りました。

いざその立場に立って、それで初めて得られる収穫というものは、間違いなく存在します。この辺りは『現場百遍』で表現されている通りですね。
 その収穫は『そのものズバリの見返りとしての【Take】』とはもちろん限らず、新たな気付きや繋がりといった、『より大きな【Give】 and 【Take】』へ発展させ得る手がかりや可能性であったりするわけです。
 もちろん生きていく上で必須というわけではありませんが、より多く、より大きくを望むのであれば、試してみる【価値】のあることと、私は考えております。

よろしければまたお付き合い下さいませ。

それでは引き続き、よろしくお願いいたします。

(マガジン)


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