選び取った野宿

過去の記事で、野宿をして出雲大社にお参りした回がある。この記事は、これについてより深く考えてみることにする。


はじめに、ぼくが野宿したことについて、ぼく自身への憐れみだとか、同情だとかは全くいらない。これは全て自分の選択の結果であって、これについて同情されるべき点はまったくない。たとえば、状況をみれば、ぼくは京都に逃げることもできたため、結果的に朝一番の出雲大社にお参りできたとはいえ、野宿を回避するという目的意識が強ければ、その必然性は必ずしもないし、17時台の時点で気温をきちんと調べていれば外が寒いことくらい分かって、寝袋を買いに行けただろう。

換言すれば、この前のぼくの野宿は、完全に選び取った野宿であった。

読み替えると、選ばざるして野宿をしている、つまり、野宿を強いられている人たちの場合はどうなるのか、ということについて少し焦点をあてて調べてみようと思う。


ホームレスとアウトドアの分水嶺を考察する

Wikipediaによれば、ホームレスの定義は以下の通り。

ホームレス(英: homelessness)は、狭義には様々な理由により定まった住居を持たず、公園・路上を生活の場とする人々(路上生活者)、公共施設・河原・橋の下などを起居の場所とし日常生活を営んでいる野宿者や車上生活者のこと。広義には、一時施設居住や家賃滞納、再開発による立ち退き、ドメスティックバイオレンスのため自宅を離れなければならない人など住宅を失った人のこと。

皆さんが想像されるホームレスは、その経済的貧困から定住する家を持たず、段ボール箱を道端に敷いて過ごしている人たちだろうが、実際定義はもう少し広いし、必ずしもその理由は経済的貧困によるものではない。

しかしその前に、アウトドアで野宿を楽しむ者との相違点をあげてみる。

重大なのは、彼らは多くの場合、そこで日常生活を営んでおり路上生活を脱却する手段に乏しいというところにある。

例えば、前回の野宿を引き合いに出してみると、ぼくには下宿先がある(=定住する住まいがある)し、野宿はただの一晩に収まった。他の、アウトドアをたしなむ方々の多くも、基本は家があって、もし放浪生活を行うにしても、携帯電話のひとつ契約するくらいのお金はあるだろう。

しかし、これが定住になり、そこから抜け出すにも抜け出せないのが、多くの路上生活者である、という点には改めて言及しておかねばならない。


ホームレスとは

特定非営利活動法人ビッグイシュー基金,(2010)「若者ホームレス白書」(最終確認:2022.05.08) によれば、屋根はあっても家がない状態及び、屋根がない状態をホームレスと定義している

ホームレスとは、あなたの想像する、路上生活者にとどまらないということである。ファストフード店で夜を明かしたり、カプセルホテルに泊まり続けたり、友人の家を転々とし続けるといったハウスレス生活も、ホームレスであると、ここでは定義されている。天気の子の主人公、森嶋帆高くんだってあの生活が続けば、れっきとしたホームレスとして数えられることとなる(ただし、彼の場合は家出少年なので、帰る家があることを鑑みればホームレス生活を行ってはいるがホームレスではないかもしれない)。

ハウスレスというのは一見屋根があるのでホームレスより、うんと生活の水準として高いように見えるが、依然として社会生活への復帰には非常にディスアドバンテージとなる。一つには、彼らに住所が存在しないため、諸々の手続きが受けにくくなるという点にある。さらに、多くの場合、携帯電話を持ち合わせていないため、相乗的に身分の証明が困難になる。現代においては、電話番号と住所はある種の身分証明でもあるため、これが無いとき、行政サービスをはじめとした、様々なサービスが受けられなくなってしまう。どうやって毎日を生き抜くか、換言すればいかにして死なない(survive)かという命題からはフリーかもしれないが、いかにして生きる(live)かというレベルで見れば、これも無論助けられるべき存在である。否、推察するにハウスレスもsurviveの問題ではないか。


ぼくの行った野宿から見るホームレス

出雲大社付近で野宿したとき、ぼくは寒さに負け、ついにカイロを買った。惜しみなく買った。その時ぼくはある程度のまとまったお金と、携帯電話も持っていたし、身分証も持っていたし、そもそも一晩さえ明かしてしまえば、出雲大社にお参りして、次の日には京都だ。

これは少し読み替えたら、ぼくはかなりの選択肢を持っていることとなる。まずは野宿することを回避できる選択肢(その日の時点で京都に行けば、野宿は回避できた)の存在、もし病気になったとして、病院に行くことのできる選択肢、惜しみなく暖を取ることにお金を使うことのできる選択肢、万一ダメだと思ったら救急車を呼ぶこともできただろう。

しかし、これらが出来るのは、ぼくが「携帯電話(=電話番号)」「お金」を持っているおかげであって、その極限状態において、だれにも助けを求めることが、できない状態である。

映画「イカゲーム」の最後で、デスゲームの主催者と主人公が、雪積もる屋外に、どうしようもなくて腰を下ろしている人を、誰かが助けるか賭けをしていたが、彼について、「本当にどうしようもなくて、そこに腰を下ろした」と思った。おそらくではあるが、あの状態で放置されたら、彼は死んでいただろう。最終的に道行く人が通報して、警察の助けが来たとかで、死を免れるところまで描写されるのであるが、あの表現は路上生活者の絶望を端的に表現したワンシーンとして、ずっと忘れることが出来ない。

さらに、自身が痛感したものは、野宿の社会的スティグマである。

まず、ぼくは大学で横になることはほとんどないし、西2号館の1階のソファでたまに横になっている学生を見るが、自分は卒業までこういうことはしないだろう、と思って過ごしてきた。それが、大学どころか知らない土地で寝転がるという、てんで妙な話であるが、場所選びのときに試しに駅のベンチに寝っ転がってみたときに、通報されないか、心底びくびくした。一応、宿が全く取れず、仕方なくこうしているという理由があるとはいえ、道行く人がぼくにどのような視線を浴びせてくるか、戦々恐々として、最終的にぼくは逃げ出すようにそのベンチを後にした。

これは、我々が普段ホームレスにむけて浴びせている無自覚の視線であって、この視線がついに初めてぼく自身に向くかもしれないと思ったとき、とてつもない恐怖と諦念に満ちた感情が湧いてきたし、立って歩いている彼らと、誰か知らない人に見られながら寝るしかないぼく、その見ている視線の違いにすら末恐ろしくなった。立っている彼らからの視線はいつでもぼくを見下ろすように思えたのである。

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