我慢は美徳という残念な日本の価値観

我慢=いいこと、というのは議論の余地があるお題だと思う。

最近の若者は我慢ができない、ゆとりだからなどと言われて久しいが、そもそもなぜ我慢は美徳という概念を疑わないのかと問いたくなる。

日本社会は、人と同じこと、ひとつのことを続けること、辛いことから逃げずに挑戦することが良しとされてきた。

例えば日本の中学校と高校では「部活」という悪しき伝統が存在し、部活を通して学んだことは今後大人になっても役に立つとされている。

私自身、中学では吹奏楽部、高校では陸上競技部に所属していた。両方とも全国レベルとは程遠かったけど、学生生活の半分くらいは時間と労力を費やした。

その時は、好きだから続けていた部分もあるけれど、やめたいと思ったこともたくさんあった。特に陸上は練習が辛かったので、練習自体を楽しいと思ってやっていたことはあまりない。早く終わんないかなーとすら思っていた。

でも大会で良い結果が出る時は素直にうれしくて、やはりその嬉しさを味わうためには、息をするのも辛くなるくらいの日々の練習が必要だと分かっていた。

良い友達もできた。部室でのおしゃべりも今となっては良い思い出だ。


私の高校は「THE日本の教育」が悪い意味で残っている高校で、「有名大学に合格した先輩は、みな部活でも良い成績を残している」という、今考えたらうるせーよって感じの法則がはびこっていた。

みんな素直だから、部活も勉強も頑張らなきゃいけないんだ!と洗脳されていた。

「予備校に行かなくても学校の授業だけで大学受験を乗り越えた」というセリフを国立大学に合格した先輩の口から言わせていた。

それゆえに、帰宅部の子や途中で部活をやめた子は、肩身が狭そうだった。

部活をやめた子は、「途中で投げ出した子」と思われていたらしい。


でも、今になって思う。

部活にどれほどの意味があったのか。

「嫌なことを我慢する」というのは一種の自己陶酔に過ぎないのではないか。

↑「過ぎないのではないか」ではなく、過ぎない。


私が大人になったら(今も一応大人だけど、自分より年下の人を育成したり子どもができたりしたら)、若い人には嫌なことは辞めてもいいと伝えたい。

周りのマジョリティーと違くても別にいいんだよ、なぜならそのマジョリティーが属しているコミュニティって、世界からしたらミジンコ以下の小ささで、そんなコミュニティでいい顔する必要なんてないんだよってことを伝えたい。


人生の時間は有限だ。

嫌なことのために費やすなんて、ばかげている。

「我慢」を率先してやる必要なんて、全くない。

いらない我慢はしない方がいいに決まっている。我慢なんてやらざるを得なくなってからはじめてやればいいだけだ。


私達日本人は、「みんなが頑張っていることは頑張らなきゃいけない」という洗脳を大人からされてきた。

だから、仕事が辛くて辛くて自殺してしまう人がいるのではないか。20代前半の女性で家族の大黒柱でもないのに、会社を辞めるという選択肢より死を選ぶ。

私は会社で働いたことがないから大人の事情は分からないけど、自分にとって、自分の命より大事な仕事はないと思っている。死ぬほどつらい仕事をすることになったら、自分の体裁なんてどうでもいいから、やめると思う。

親戚に後ろ指をさされたり、友達からうわさされたって構わない。

大好きなお笑いや本を観ながら元気を出して、のんびりと就職活動をすると思う。


21歳にして、ムダな我慢はしないと肝に銘じられている自分に誇りを持っていたいと思う。




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