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身のほどを知る。


「身のほどを知れ」と人に言われたらムカつくわけですが、割とここまでの生きてきた中での命題のひとつだった気がします。

ドがつく田舎で育ち、尊大になれるような要素はなかったのだけど、実家は仏寺で田舎の習慣からかなぜか寺の子はほんの少し大事にされている空気感がありました。

それはおそらく、僧侶は仏門に入り経文を人々に説き慕われ、というそもそもの尊敬を集める立場から「寺の子ぉ(関西弁)はかしこい」につながる論理からかと思われる。それが当たる場合もあるし、そうでない人もいる。

んで、私はそうでもなさめな出来だったので、母はもてはやされても、人に褒められても謙虚であるよう、ま、そんなたいそうな話でもなく「調子にのりなさんな」ということを折に触れて言っていた気がします。

念のためにいっておくと、母は厳しくもありましたが、どちらかと言えば自分の子には甘々なタイプで、田舎育ちの私が一人で都会で暮らしていること(しかも50手前)ですら「すごいねぇ、えらいねぇ」と言ってしまうような人で、世に言う毒親というんではないです。

さて、何の話かって、私なぜか自己評価低い、という性質があります。

自己分析としてもそう、長年の友人から、知り合って間もない人にも言われることがままあります。自覚があっていってる場合もあれば、無意識の言動でもそうとられるときがある。

自分でなんでそうなるかを考えた時ひとつ分かってるのは、ハードルを下げたいから。相手にできるひとだと思われていると、そこよりできなかった場合に勝手にがっかりされるので、先に設定を下げといてもらおう作戦が、いや私そんなできませんよ、という言葉につながりがち。

ずるいやり方です。

それと、下敷きに子供の頃から刷り込まれた「調子に乗んなよ」(少し乱暴)な考え方が常に行動言動のベースになっているから。

これも解釈を加えておくと、能ある鷹は爪隠す式に、優れてるけど驕るなというよりは「己の身のほどを知っておけ」なわけです。「身の丈にあった」と言えばいいのか。

これまでの人生、友達関係でも恋愛関係でも、ベースはこんなメンタリティなのです。人生で大した波もないなかでも一番しんどかった離婚の経験後なんでいうのは「もう世の中で最も人から求められん人間なんや私は。」くらい拍車がかかった時期もありました。

さいわいその状況はのりこえたけども。

難しいなぁ、といまつくづく思うのは自分の身のほどをどこに設定するんだ、ってとこです。驕らずくさらず、ほどほどの自分のちょうどいい感じがもはや自分ではわからぬ。

友人やこれまでの職場の同僚たちがかけてくれる言葉やらなにやら、自分を取り巻いてきた環境、なんやかやをひっくるめて、さほど自分を蔑む必要はないなというのは分かってるし、いやそもそも蔑んではいない。日々のしあわせもボチボチと感じている。

それでも自分の評価爆上げってわけにはいかんでしょ。

特にいま仕事みつからんなぁ、人生巻き戻しなんてめんどくさいことしたくないけど46歳の今の仕上がりどうなのこれ、とも思うから少々は落ち込んでいたりする。

話が少し飛びますけど、今日叔母(父の妹)と少し電話で話して、70もとうに過ぎた叔母が「叔母ちゃんみたいアホやから何も分かりません」みたいなことを言う。文章だとニュアンス伝えづらいけど、バリバリ自虐なフレーズなんですこれ。

私がちびの頃から叔母はなぜか少し劣等感を常に張り付けたところがあって、ふだん朗らかで喋っても面白い人だけど、「叔母ちゃんは賢うないから。」って言いだすとちょっと面倒だった。口の立つ姪だった私は叔母にとっても面倒だっただろうなぁ。

今日久々に叔母と話をして、私もこういうふうなのか、と自覚したというか、これは血なのだ、と思ってしまいました。

叔母から感じたのは自虐と共に捨てられないプライド。謙虚さもプライドも分量が程よければ本当に素敵な性格を作り上げる。でもその味つけの配分を間違うとかなり苦いものになる。

叔母や私がどの段階でネジくれたかはわからねど、思考回路の下に潜む血がそうさせるものもあるのではなかろうか、とちょっとブルーにもなりました。叔母に何の落ち度もないけれど。

そろそろ話を結ばねばならないけども、どうしたものか。

ともかく、自己評価とか自己肯定感とか自尊感情とか(あ、これ昨日逃げ恥で出てきた言葉)いずれにしても我ががわがが言ってる時点が自由ではないので、ここを抜け出していけるとよいのですよな。

人と比べることとか自省しすぎることとか、そういう「自分」のありようから適宜自由になれるのが、今時点、「ゆたかであること」になるのかな。
身のほどがどこにあるか意識しなくてもいい、ということに。
なかなか難しい命題だけれども。


さて、ひふみ投信さんのお題だったのでおまけ。

「ゆたかさって何だろう」っていうお題見た瞬間ひらめいたのは「お金たくさん儲かることー!」と全力で思ったことも事実です。COVID-19のおかげで浮き彫りになることが多くあるなかで、切実なのは「生きていくために必要なおかね」で、おかねを得ることは卑しいことっていう古い概念をきちんと壊していく機会なのだとも思います。生活(娯楽も含めて)を不自由なく送れるおかねが潤沢にあればこそ、「ゆたかさって何?」って考えられるものなのだと、つくづく感じます。

「ゆたかさって何?」って考えてられるいまこそがゆたか。

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