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村弘氏穂の日経下段 #28(2017.10.7)


この人じゃないと分かってから揚げる串が次々焦げてゆくこと

(横浜 橘高なつめ)

 一読して、先日ふらりと立ち寄った馬車道の小料理屋の美しすぎる若女将を思い浮かべた。「分別のつかない人が打ち上げるミサイルが失敗すればいい」などと云って、微笑みながらアスパラに豚肉を巻いていたあの可愛らしい女将さんだ。蒼白色の薄幸ダイオードのような寂しい影を放ちながら、壺の中のココナッツ風味の秘伝のたれを細腕でかき混ぜていたあの可憐な女将さんだ。お通しの牛すじの煮込みを苦手だからと返したら、育ってきた環境が違うからすじ嫌いはイナメナイと小声で歌っていたあのお茶目な女将さんに違いない。その晩ぼくにあてがわれた串揚げはことごとく焦げていた。その理由はあまりにも簡単だ。ぼくは女将さんにとって意中の「この人」ではなかったのだ。反対にその晩あらわれなかった「この人」のための串揚げだったらどうなのだろう。きっとそれを次々と焦がすことなんてないだろうし、ただただ作者が焦がれてしまうに違いない。作品のシーンには、まるで焦燥感を奏でるような天ぷら鍋からの音色だけが切なく響いているが、読後にはその孤独感を超越して、下の句のおそろしく美しい毒々しさがカラッと浮かび上がってくる。



この車両「テクマクマヤコン」知っている昭和ガールは私ひとり

(国立 西口ひろ子)

 平日の中央線の午後四時に私も同じ体験をした。きっと沿線にはこの作品に共感できる読者も多いことだと思う。国立駅といえば一橋大学、桐朋中・高校、国立音楽大学の附属の幼稚園から小・中・高校もある。きっと乗り込んだその車両の中は、一目瞭然で平成カラー一色だったのだろう。唯一の昭和オレンジである作者は強烈な違和感を覚えながらも昭和生まれである以上、どんなに若くてもアラサーなのだが、自らをガールと称してしまう図々しさで、降りるわけにはいかず、忘れないようにと書き留めたのがまさにこの作品だ。昭和生まれが一人だけという疎外感を詠うのはよく解るけど何故、「テクマクマヤコン」を詠み込んだのかを余計なお世話だがちょっと考えてみた。きっとそれは乗り合わせた平成ガールたちの所作に起因したのだと思う。その車両内の様子はこうだ。内部進学が決定しているそれほど可愛くもない女子高生が、参考書を開くこともなくディズニーツムツムに興じているのか。あるいは、それほど可愛くもない女子大生が、吉祥寺駅南口の塚田農場で開かれる、メガバンクに内定している成蹊ボーイとの合コンにそなえて、ポーチからコンパクトとアイプチを取り出して変身し始めたのかもしれない。それを見た作者が心の中で、テクマクマヤコンテクマクマヤコン私も平成ガールになあれー、と唱えたのだろう。いや、そうに違いない。そうじゃなきゃ唐突に呪文が思い浮かんだりはしないはずだ。すいません、作品に共感しすぎてずいぶん取り乱してしまいましたが、そろそろ正気に戻ります。ラミパスラミパスルルルルルー。

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